居眠り王子と本の虫
東校舎は特別教室の集合住宅だ。ガラクタを端に寄せるように集められた「特別」。乾いた空気に混じったケミカルな香りが陰のように慎ましく掠める。寂れたロボットみたいだ。
ブラスバンド部の賑わいが足下から芽吹く。煩わしい衣服は、とうに脱ぎ捨てたのだろう。目も歯も、心も体も。全部を剥き出しにして、そこに生きている証を紡ぐ。
大地を揺るがす重低音のことはよく知らない。代わりに、とりわけ甲高いファンファーレの正体を探る。
トランポリン、みたいな。カーペット、のような。
ドレミファソラシド──。階段を上る。踊り場で、ターンする。リピート。
立ち入り禁止の屋上に繋がる階段。誰も使わないから、存在していないのと同じ。
そこに僕が入り込んだとて息を吹き返したりしないけれど、悪いことばかりじゃない。
三段目、僕だけの座椅子。
冷えたフローリングの硬質を感じながら、僕は文字を貪る虫になる。
最後のターンをした。視界の全面で、十三段が聳え、禁じられた扉が僕を見下ろす。
足が止まった。
誰も寄りつかないはずのこの場所に、先客の姿を見た。
斜陽が窓から差し込む。
呼吸に合わせて上下する腹部の左手。明後日の方向に投げ出された右手。
閉ざされた瞼から垂れ下がった睫毛は一定に流れている。
だらしがない。ワイシャツ二番目まで外され、首筋が露わになっている。反面、脱いだ学ランを腹に掛けている。無防備で、だらしなく、寝返りの一つで転げ落ちてしまいそうな危うさを孕んでいる。
二段、上ったところ。ちょうど彼の麓に腰を下ろした。
挟まれた紐を辿り、読みかけのページを開く。
一定のリズムを刻む寝息。
それは、階下から響く音色よりもずっと、僕の鼓動を穏やかに整えていく。
活字の海を泳いでいたはずが、いつの間にか凪いだ呼吸の波に呑まれていた。
行間ににじむ黒い文字が、ふちからゆっくりと溶け出してゆく。言葉は意味を失い、ただの模様となって視界の端へと流れていった。
僕は麻酔を打ち続ける。
開いたままのページから溢れ出す静寂を吸い込み、現実の輪郭をそっと手放した。
やがて、蝶になる夢を見た。
重力のない世界で、誰かの体温だけを道標にひらひらと舞う、ひどく心地のいい夢。
不意に、羽が冷たい風に煽られた気がした。
しまった。うたた寝をしていた。
はっとして、瞼を押し上げる。
窓の外は、さっきよりも深いオレンジ色に染まっていた。
足元に落ちた本を拾い上げようとして、肩に「重さ」があることに気づく。
自分のセーターとは違う、厚手の黒い生地。
それは、ついさっきまで彼の腹部を覆っていたはずの、学ランだった。
辺りを見渡す。
もう誰の姿も残っていない。
──いつから。いつ、彼は起きたのだろう。
部活終わりの生徒たちの笑い声が微かに響く。
一人に戻った聖域。
僕は、肩から滑り落ちそうになった「彼の一部」を両手で手繰り寄せた。
鼻をくすぐる、知らない誰かの体温。
僕はそれを、壊れ物を扱うように、そっと抱きしめた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
賑やかな喧騒から少しだけ離れた、踊り場の静寂と体温。
二人の共有した「寂しさ」が、少しでも皆様の心に届けば幸いです。
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