第二章 第三幕 中 真の友情は
金子の笑顔が、少しずつ、輪郭を失っていった。それは、夏の終わりに似ていた。まだ暑いのに、どこか風が冷たい。陽の光が差しているのに、影が濃くなっていく。その変化は、ほんのわずかだった。笑うまでの間が、少しだけ長くなった。目が笑っていない、なんて言葉があるけれど、あの子の目は、笑っていないどころか、どこか遠くを見ているようだった。私はそれを、見て見ぬふりをした。気づかないふりをすることは、気づいてしまったことを認めるより、ずっと楽だった。
水族館の帰り道、私は何度も振り返った。金子は、いつもより少し後ろを歩いていた。歩幅が合わないわけじゃない。ただ、彼女は、私の隣に並ぶことを選ばなかった。「うまくいかなかった」それだけを言って、視線を合わせようとしなかった。声は小さく、風にさらわれそうなほど頼りなかった。私は何も言えなかった。「そうなんだ」とも、「大丈夫?」とも言えなかった。言葉が、喉の奥で絡まって、出てこなかった。その沈黙が、彼女をさらに遠ざけたのだと、今ならわかる。でもあのときの私は、ただ、何も壊れなければいいと、それだけを願っていた。
昼休み、金子は姿を見せなくなった。「図書室に行ってた」と言った日、私は本棚の間を歩いたけれど、彼女の姿はなかった。「保健室で寝てた」と言った日、保健室の先生は「今日は誰も来てないよ」と言った。私は、嘘だとわかっていた。でも、問い詰めなかった。問い詰めることで、何かが壊れてしまう気がした。いや、もう壊れているのかもしれない。でも、壊れたと認めるのが、怖かった。
放課後、教室の窓から見える空は、どこまでも青くて、やさしかった。なのに、私の胸の中には、ずっと重たい雲がかかっていた。誰にも見えない、私だけの曇天。佐藤と話す時間が増えた。金子がいないから、自然とそうなっただけ。でも、教室の空気は、私の知らないうちに変わっていた。誰かが私のことを見ている。そんな気配が、背中にまとわりつく。振り返っても、誰もいない。けれど、笑い声が、ひそひそと耳の奥に残る。
机の上に、黒いペンで書かれた文字。「裏切り者」「人のものを取るな」「最低」。最初は、誰かの悪ふざけだと思った。でも、次の日も、その次の日も、文字は増えていった。消しても、また書かれる。まるで、私の心の中をなぞるように。私はそれを消しながら、心の中で何度も言い訳をした。「私は、何もしてない」「私は、ただ……」ただ、何を?言葉にしようとすると、喉が詰まった。
放課後、靴箱の前で立ち尽くす。切り裂かれた上履き。中に入っていた紙切れ。「最低」。たった二文字。それだけで、胸の奥がひやりと凍った。私はその紙をそっと折りたたみ、ポケットにしまった。誰にも見せなかった。見せたら、何かが決定的になってしまう気がしたから。
その夜、夢を見た。水の中を、くらげが漂っていた。青白い光の中で、金子がこちらを見ていた。目が合った。でも、彼女は笑わなかった。ただ、沈んでいった。音もなく、泡のように。
夜、眠れないまま目を閉じると、あの水族館の光景が浮かぶ。青白い光。くらげの群れ。水面に揺れる影。金子の横顔。あのとき、彼女は何を見ていたのだろう。私ではない、誰か。あるいは、もういない自分自身。
友情の裏側に、静かにひびが入っていく。音もなく、色もなく。ただ...この先に起こる『業火』に燃やされるとも知らずに、窓の外の向日葵が揺れた。




