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除夜の鐘

作者: かもライン

これは20年前に、某HPに掲載してもらっていたものですが、そのHPも閉じたので、せっかくなので再掲載させました。

元はそちらで一緒に創作活動していた友人のオリジナルでしたが、許可もらってのリメイク作です。

原案者である Keyswitchさん、あらためてありがとう。もう10数年音信不通ですが。


せっかくなので、その当時に書き溜めたものもリニュアールして出そうかなと思いつつ。


次の新作というかリニュアールも何時になるか分からないけど、気に入ったらまた訪問お願いします。

 思えばその時、なぜ帰ろう、などと思ったのかは分からない。


 例えばその直前のクリスマス、仕事で残業でデートをスッポかした為、付き合っていた彼女にフラれてしまったというのも理由の一つかもしれない。一応2年越しの関係ではあったが、特に執着していたつもりはなかったし、結婚も特に考えていた訳でもない。しかし、いざ別れてしまうと寂しくなるものだ。


 それと本来なら12月の27日で仕事納めの筈だったのに残務処理で30日午前中までずれ込み、さすがに仕事で年越しはしたくなかった為、同僚たちと必死でやって終わらせた後、昼飯を食ってその同僚達と別れたら、急に暇になって心がポカンとしてしまったというのもあった。

 ちょうどそんな時、お袋から「今年も帰らないの?」と電話があったので、つい思わず「じゃ、帰ろうか」と答えてしまった。

 言った後で『あ……』と思ったが、その時のお袋の喜びはしゃぎ声に気押され、撤回出来なかった。

 息子が故郷に帰る。そんな大した事でもない筈だが。


 さて、俺はオレンジ色した列車のドアを手動のボタンで開けると、他には誰の姿も見えない駅に降り立った。

 そう。本当に、誰もいない。

 さすがに冷えた空気に襟元を締め直し、ギシギシ音を立てる木で出来たプラットホームを抜けると、改札口には『ここに切符を入れて下さい・駅長』と書かれた看板と、定期券ぐらいが入る大きさの穴があいた箱が一つ。

『タダ乗りしようと思えばいくらでも出来るな』と昔も思ったものだ。とは言いながら、1時間半に1本、この列車を走らせるだけでも年間憶の赤字が出る様な路線で、そんなセコイ真似なんかはするつもりはなかった。

 さて、たまにでもこうやって帰ってくると、それなりに感慨はある。


 駅前は、というより駅前ですらこの街は全然昔と変わっていなかった。本当に全然変わっていないわけではないが、ほとんどが記憶との誤差範囲内に収まっていた。

 ローカルとはいえ一応は駅前だというのに、小さい店や食堂がいくつか並んでいる形だけの商店街。未だコンビニやファーストフードの波も、ここら辺には全くの無縁だった。

 辺りを歩いている人にも、若者は皆無。ほとんどが野良着の老人か老人一歩手前の世代の人たちばかりだ。

 駅前のロータリーには、時間待ちのバスが一台。タクシーすらいない。

 そして今ここで待ち合わせしている筈の、うちの親の出迎えの車も来ていない。

「電車、この時間になるって言っておいたのになぁ」

 駅前を見渡しながら、誰に言う訳でもなくつぶやいた。

 バスの時間を見たが、次の発車まで1時間以上。それまで延々このバスはお客を待ちつづけるのだろう。

 とりあえず携帯を取り出すが、

「げ……」

 既に圏外だ。ここは本当に日本か?。


 そう思っていると、やっと1台の見慣れた車がロータリーに入ってきた。玉虫色の三菱コルディア。そして、その運転席の窓に、少し老けた親父の姿があった。

 窓から手を出して振っている。

 久しぶりに見る親父の髪の生え際は、確実に後退していた。

 コルディアは俺の横で止まった。

「よっ、夕矢。すまん、出るのに手間取ってなぁ」

「親父よぉ。まだ、こいつに乗ってたのか?」

 確か俺が学生時代に買った奴だから15年以上になる筈。しかも中古でだ。

 いくらここが十数年前から変わってないからって、乗っている車まで同じっていうのは、どうしたものだろうか。

 とはいえ、さすがにボディの塗装の光沢は無くなってきて元メタリックだったのかどうかも分からなくなっているし、あちこち剥げサビが浮いている。樹脂製のバンパーも、端の方は粉を吹いている。


「ん?」

 助手席に女の子がいた。

 中学生くらい。見た事もない女の子だ。

 その子はドアを開けて出て来た。

 おや? 誰だ? などと考えるヒマも与えず、彼女はいきなり俺に抱きついてきた。

「お帰りなさい、お兄ちゃん!」

 お、お兄ちゃん?。

「誰?」

 俺は、訳も分からず親父に聞いた。

「誰って、夕実じゃねぇか。お前の妹の」

「え、え? 聞いてねぇよぉ!」

「帰ってこねぇお前が悪い。しかしまぁ、そんなところで感動の再会してねぇで、さっさと乗れ」

「いっしょに後に乗ろ。お兄ちゃん」

 俺は訳が分からないまま、車に乗った。

 夕実が先に乗る。俺もそのまま後ろに乗って、助手席に荷物を置いた。

 俺は体格的には助手席の方がいいのだが、後ろに乗らなかったら夕実に怒られそうだ。

 ドアを閉め座席に倒れ込むと、コルディアは急発進した。


「しかし妹が出来たなんて俺、全然知らなかったぞ」

「当然だ。教えてなかったんだから」

「なんで?」

「帰ってきた時の楽しみにとっておこうと思ってな」

「……とっておきすぎ」

 しかしそういう事なら、本当に帰ってこなかったこっちが悪かったのかもしれない。

 俺は隣の夕実の顔を見た。

 まだ幼いが、多分美人……というか大きくなったら美人になりそうな予感をさせる。まだ俺の趣味ではないが。

 長い髪を編んで後に流している。


「夕実は……」

「なぁに? お兄ちゃん」

 夕実は俺の視線に気付いてか、目をうるうるさせてこっちを見た。

「えと、夕実はいくつになったんだ?」

「13歳。もう中学生になったんだよ」

 まるで大人になった、と言わんばかりの口調だった。

「13って事は、やはり俺が家を出てから生まれたんだな」

 俺が12歳の時に家を出て今26。そしてそれまで家に帰らなかった訳だから、会っている筈がない。

「お前が全寮制の中学に行ってしまって、夜がヒマになっちまってなぁ。ある意味自然の摂理だ」

「親父!、夕実の前で言うような事じゃねぇだろ」

 夕実は少し顔を赤らめている。最近……に限らず女の子は耳年増だし同年代の男の子と比べて精神年齢は高い。言っている意味も少しは理解できるのだろう。


「でもさぁ。何で今まで帰ってこなかったの?」

 夕実は顔をふくらせて見せた。

「色々あったんだよ」

 本当に色々あった。

「例えば?」

 夕実はちょっと怒った顔で、身を乗り出して言った。

 やっぱり全部、言わないと駄目か……。


「まず俺が私立の中学へ行った事は知っているよな」

「通いは無理だから、学校指定の寮に入ったんでしょ」

「ああ。それで、そこの中学と高校で俺はハンドボール部に入っていたんだけど」

「うんうん。知ってる」

「そこのハンドボール部は強豪だが練習がキツイのでも有名で、盆も正月も合宿で、とても実家に帰省しますっていう雰囲気じゃなかったんだ」

「アナクロ……」

「俺もそう思った。で当初、高校を卒業したら実家に帰って農業を継ぐという約束をしていたんだけど」

「あ、それ初耳」

「俺がこっそり大学を受験して合格し、進学する!、なんていったもんだから親父に勘当された」

「え?」


「まぁ、その分奨学金やバイトの掛け持ちで、必死で学費と生活費捻出したんだ」

「そ、そうだったの?」

 夕実は運転している親父に向って聞いた。

 と、親父は顔を劇画タッチにして滝の様に涙を流している。

『夕矢!、お前という奴は……』と拳に力を込めて、

「お父さん。それ勘当じゃなくて感動」と、夕実に突っ込まれている。

「俺はこんな勘当をされていたのか……」

「まぁそれ位の反対を押しのけてでも行きたいと思わなければ、大学なんぞ行く意味もないとワシは思ふ」

 親父はサラっと言ってのける。


「で、俺としても卒業してもやっぱり農業継ぐのも何だから、そのままそこで就職したんだ」

「何か凄い」

「ワシは本当の意味で勘当なんぞしたつもりも、なかったがな」

「でもちょっと帰り辛いものがあってね」

「ふ~ん……」

 夕実はそれらの言葉に、何かドラマを感じている様だ。

「でも、とりあえずお兄ちゃん帰ってきたから、それでいいんじゃない」

「何か無理やりめでたしめでたしに、持って行ってないか」

「いいの。神は天にあり。世はすべてよし」

「ここはグリーンゲイブルか」

 時代遅れのコルディアは、歓喜の白道……じゃなくて田舎の花の咲いていない桜の並木道を、かっとんで行った。


 田舎の駅から親父の運転で30分程走ってようやく実家に着いた。もう、ここまで来ると辺りには山と林と田んぼしかない。そして実家も、庭ありで敷地も広いが典型的農家の家である、平屋の藁葺(かやぶ)き屋根だった。さすがに表はトタンで覆われていて、一見して外から茅葺には見えないが。

 家も家の周りも、十数年前とほぼ同じだ。

 庭の柿の木なども、俺が出て行った時と何も変わっていない。

 車をつけると、お袋はその庭先で布団を干しているところだった。前に会った時に比べ、しわも白髪も増えた気がする。

「あらら、見ないうちにおなかも顔も丸くなっちゃって」

「何年かぶりに会った息子への、第一声がそれかい!」

 お袋は、あいかわらず呑気な母さんだった。

「ま、お前は俺似だからな」

「ほっとけよ」

 親父は身長は160ぐらいだが体重は100近い。しかも頭もバーコードだ。

 ちなみに俺は身長175で体重85。恐ろしい事に髪もやや抜け始めの兆候がある。嗚呼々。

「そうよ。お兄ちゃんはお父さんみたいにならないからね」

 夕実が俺の腕にしがみついている。

 もはや完全に、なつかれてしまった様だ。


「兄妹仲がいいのは置いといて」

「何を置いておくんだ?」

「で、休みはいつまで?」

 お袋に聞かれた。

「一応5日まで。でも用事もあるから少し早く帰らないと」

「え~っ! ゆっくりしていってよぉ」

「夕実ぃ! わがまま言うんじゃありません」

「だって」

 夕実の顔を見る。

 落胆の表情だ。

 俺は知らなかったが、どうやら夕実の方は俺の事を良く知っていて、今回もずっと俺の事を待っていたらしい。

 いきなり出来た妹とはいえ、慕われるのはさすがに悪い気はしない。

「いいよ。さすがに4日には帰らないといけないけど、それまではゆっくりしていくさ」

「いいの?」

 夕実は下から見上げるように俺の顔を覗き込む。

「ま、今まで帰らなかった代わりさ」

「やったぁ♪」

 さっきの表情とはうってかわって、満面の笑顔になる。


「あ、そうだ。夕矢。ちょっとお正月の野菜が足りないから、畑に行って大根と水菜と取ってきてくれる?」

「いきなり帰ってきた息子をこき使うか?」

「いいじゃない。行こ、お兄ちゃん」

 夕実の笑顔に誘われる。

 お袋は言うだけ言って、さっさと布団を取り込んで家の中に入ってしまった。

「こんな靴で行けるかよ」

 ズボンは冬用のスラックスだが普段着にも使っている奴だから汚れるのは構わない。ただしこのリーガルシューズは野良には全然向いていない。

「ワシの長靴を使え」

 背後から親父が言う。

「サイズは?」

「25半」

「しゃあねぇな」

 俺のサイズは26半だが、長靴だし短時間だから大丈夫だろう。

「ちょっと待ってろ。持って来てやる」

「いいよ、俺も行く。あ、夕実。じゃ、ちょっと代わりに荷物どっか置いといてくれ」

「うん」

 俺はボストンを夕実に渡し、親父の後を追った。

「畑なんか何年ぶりだ?」


 上は重いコートでなくダウンジャケットだから、動きに支障はない。野良着には着替えなかった。

 長靴は若干小さいぐらいの感じか。長時間は無理だが、しばらく位ならいいだろう。

 水虫は、ないだろうな。

 洗いたての手ぬぐいと、鎌をひとつ手にとって玄関に戻った。

「おまたせ、おまたせ」

「じゃ、行こっか」

 夕実も一応、白の長靴に履き替えている。

 多分この季節、畑もぬかるんではいないだろうが、やっぱり靴が汚れるのは嫌なんだろう。


 ウチの畑までは、そこから山の方に5分程歩かないといけなかった。14年ぶりだが、昔は毎日通ったものだ。目をつぶってても行ける。

 山の合間の、広い平地を作って畑にしている。

 畑ばっかりで6町歩。この冬は大根と白菜を作っていたのだろうが、今はつい最近に出荷したのだろう、散らばった葉っぱと引き抜いた跡ばかり。残っているのは種取り用と自家消費用だ。

 葉っぱはボロボロに虫喰いがあるし色も変色している。

 その中に、よいしょと入って、おもむろに出来を見る。


「えと、大根と水菜と?」

「大根と水菜。でも、白菜も持って帰っていいと思うよ」

「そうだな」

 上を紐でくくられた白菜がいくつか。その中に玉にならず完全に開いてしまった、つまりは葉牡丹(はぼたん)の様な奴もあった。薄緑色で既に白菜ではない。中央からひょろひょろと茎が伸び黄色く小さい花をいくつも咲かせている。

 迷わずその白菜の出来そこないを引き抜き、一番外側の虫食いの葉っぱを千切って捨てた。

「え?、それ持って帰るの」

「このちょっと、しわい葉っぱが好きなんだ」

「そう?」

「嫌いか?」

「この手のは間引き菜で結構、食べてる」

「あ、そうか」


 考えてみれば俺も小学校の頃は、この手の白菜や大根の間引き菜を食べて育ったっけ。逆に言えば今、この味が懐かしくてこの玉になっていない白菜を取ってしまった様な気がする。

 玉になった白菜と違って固いが、煮付けや味噌汁の具には良い。

 俺自身、無意識的に昔食べたそれを、思い出してしまった感じだろうか。

 白菜を脇に置き、手ごろの大根も適当に2本引き抜く。グネグネと曲がり、根っこの先が大きく2本に枝分かれしていて、ちょっとエロチックだ。

 白菜と同様、土のついた部分と細かい根を鎌で切ったり払ったりし、また葉っぱも外側のボロボロな部分を千切る。


「お兄ちゃん。凄い。手馴れてる」

「そうか?。こんな事、普通だろ」

 抜いた大根、白菜を眺める。

 こんな野菜は、まず八百屋の店先に並ぶ事はない。

 しかし俺なんかは昔、こういう野菜ばっかり食べていた様な気もした。

 ねじ曲がったきゅうり、まだらな色・歪な形のトマトやナスなど。

 ただし、それらは商売用のと比べても、味も濃かったと思う。

「どうしたの?、お兄ちゃん」

 ぼぉっと立つ俺の前に、夕実がやってきた。

「これがな」

 そう言って手元の白菜を指差した。その白菜から伸びた黄色く小さい花を咲かせていた。

「白菜って、こんな花を咲かすんだったよな」

「そうだね」


 隣の棟を見る。

 紫がかった緑色の葉っぱが、平べったく咲いている。

「イチゴか」

 葉っぱを見れば分かる。

 これが春になると大きく伸び葉っぱも広げ、赤く大きな実が大量になるのだ。

「知ってる?。お父さんのイチゴって、凄く甘いの」

「ああ。知ってるよ」

 知っている、というより思い出したと言った方がいい。

 ハウスでなく露地栽培で5月下旬にならないと実らないイチゴ。赤くなったらすぐ取らないとグズグズになるし、あまり持たない。

 でもとても甘い。スーパーで売っているのとは比較にならない位甘い。

 俺も小さい頃、喜んで食べていた。

 そうか。親父、まだ作っていたんだ……。

 こんな売り物にもならないイチゴを。


 そして水菜も一抱え分、収穫した。野菜を抱えて帰ろうとしたところで、ちょうど隣の畑から出てきた小父さんとばったり会った。

 歳は親父と同じくらい。ただし親父ほど太ってはいない。野良着に首に手ぬぐい。頭には農協のキャップをかぶっている。

「あれ、夕実ちゃん。お手伝いかい。と、それと……」

 小父さんは言葉につまった。

 覚えはあった。あったが、とっさに名前が出てこなかった。

 あれ?、と思いしばらく考え、ふと思い出した。

「久しぶりです。田中の小父さん」

「ああそうか、夕矢くんか。大きくなったなぁ。分からなかったぞ。どうしたんだ? 親父さんの跡を継ぐのか?」

「帰ってきたんで、ちょっとお手伝いだけ」

「まぁ、まだまだ親父さんも元気だからな。でもたまには帰ってやれよ。心配しとったぞ」

「考えときます」

 田中の小父さんは、笑いながらまた畑に戻った。

「じゃ、帰るか」

 俺は白菜と水菜を抱えなおし、道に出た。

 夕実はぽつんと立っていた。

「どうした?」


 夕実は暗い表情のまま、ぽつりと言った。

「お兄ちゃん、もしお父さんが倒れたりしたら、この村に帰ってきてくれる?」

「って親父、倒れたのか?」

 だとしたら、初耳だ。

「だから、もし!」

「もしか……」

 俺は思わず考え込んだ。

 今の会社に入って2年だが、俺も営業マンとして仕事をどんどん覚えてきたところだ。この職場を離れるのは辛い。

「でも逆に、いざとなったら、お前だけでも出てきてもいいんだぜ。稼ぎは少ないけど、俺のところから学校ぐらい通わせてやるよ」

 夕実の表情が、さらに暗くなった。

「ごめん。いいの。聞いてみただけ」

 そう言いながら夕実は先に歩いていってしまった。

「お、おい」

 不安になって追いかけた。

 夕実は立ち止まった。

 追いついた。

 くるっと振り向いた時の夕実の顔は、元の笑顔に戻っていた。

「早く帰らないとね」


「困ったなぁ。いや困った」

 帰ってくるやいなや、親父のボヤキが耳に入ってきた。

「何だよ、困った困ったって。これみよがしに」

 親父は明らかに、俺に聞こえる様に言っている。しかもわざとらしく腕組みをして、うろうろしながら。

「実はな、今年の除夜の鐘当番だった奴が急に風邪引いて、出来なくなってしまったんだ」

「親父がやりゃあ、いいじゃないか」

 この村の寺にはずっと住職がいない為、村自身でお寺を維持し、集会場になっている。そして大晦日には、もちまわりで除夜の鐘当番をするのだ。

 住職がいない寺だが、鐘は立派な物で、小学生の頃勝手に鳴らして怒られたこともあった。

「いやワシは青年会の集まりで」

「どこが青年会だよ、老人会だろ。しかも単なる忘年会のクセに」

「いや、ワシが行かんと始まらんのだ」

 親父は昔から、飲み始めたら底なしで、酔ったらその醜態は言葉で表現出来ない。今でも親父にベタ惚れのお袋だが、その点だけは勘弁して欲しいと、いつもこぼしていた。

 まぁ、普段はセーブしているから大丈夫だが、この忘年会は親父がとことん飲んで許される、数少ない行事のひとつだ。

 でその除夜の鐘だが、酔った状態では危ないし、女・子供ではちょっと無理だ。だから予め成人男子で当番を決め、その鐘当番の者は年明けに108つの鐘を打ち終えるまでは酒を一滴も口に入れる事は出来ない事になっている。

「本当に困った困った」

 再度、親父は腕を組んで俺の目の前をうろうろする。

「分かったよ。俺が突けばいいんだろ」

「お、そうか。やってくれるか。それはスマンなぁ」

「わざとらしいんだって」

「いいの? お兄ちゃん」

「このまま延々、親父の“困ったダンス”見せつけられるよりはマシだ」

 親父は案の定、さっさと逃げてしまった。

「じゃ、さ。あたしも一緒に付き合ってあげる」

「お前じゃ突くのは無理じゃないか?」

「でも一人ぼっちで寂しいでしょ。ホットコーヒー持って行って、付き合ったげる」

「夕実ぃ。お前は優しいなぁ」

「きゃ♪」

 そう言って夕実の頭を、ぐしゃぐしゃと撫でた。


 村の外れ、というより山へと登る途中に、その廃寺はあった。

 お寺そのものは古く寂れ住職もおらず、村の集会の時とかにしか使っていない。

 しかし、その鐘突き台は大きく、立派だ。

「さて、そろそろかな」

 鐘突き台の巨大な鐘を見上げながら、丸太のぶら下がった縄を握りしめた。

 台の下では夕実が時計を覗き込んでいる。

 ちょうど年が変わる瞬間に、一発目を打たないと。

「じゃ、お兄ちゃん。10秒前、9、8……」

 夕実のカウントに合わせ“6”ぐらいから前後に揺らし、“2、1”でぐぐっと満身の力を込めて後へ引いた。

「ゼロ!」という声と


ゴーン!


 という音が、同時に鳴った。

 ドン・ピシャだ。

 鳴らした丸太から縄を伝って、ジーンと振動が伝わってくる。

「やった、お兄ちゃん」

「よ~し、次々行くぞ!」

 振りかぶってまた、ゴーン、と鳴らした。

 あと106つ。

 次々とリズムを刻んで鐘を打っていく。

 最初は嫌々だったが、なかなか気持ちいい。

 最近運動不足だった体にムチ打って働かせるのも、鐘の音が振動になって体中を振るわせるのも。

 また初めて出来た妹の前で、こうやって格好つけるのも。

 時々、打ちながら台の下の夕実をチラチラと見る。

 夕実はうっとりしながら、鐘を打つ俺を見ている。

「お兄ちゃん。頑張って」

「ああ」

 1発2発は全然問題ないが、さすがに連続10発を越えると腕の筋肉も悲鳴を上げ始めた。しかし夕実の前で弱音を吐く訳にはいかない。

 打ってはひと呼吸入れ、また一発と打っていった。

 えっと、10秒に一発として1分間に6発だから、108で割って18……20分ぐらいかな全部で。

 少し頭がぼぉっとしてきた。

 酸欠か?、それともこの鐘の振動か?。

 いや、これこそ煩悩だ。煩悩をくじいていかなければならない。

 ドンドン行く。

 また一発、ゴーンと鳴らす。


 あれ? おかしい。何か身体が変な感じだ。

 妙に身体が軽くなった気がする。

「あれ?」

 ズボンがゆるくなった?。

 疲労?。

 いや、身体はむしろ軽い。何故だ?。

 お腹に手をやる。少しダブ突いていた腹が引き締まっていた。

 全身も、かなり筋肉質になっている。

 そういえば、俺もそんな時代もあった。まるで、

 そう。まるで……。

「そうよ、それは貴方がもう少し若い時の身体」

「え?」

 鐘突き台の下にいる筈の夕実の声がはっきり聞こえる。


「108つの鐘は、貴方の身体から煩悩を取り去ってくれる。一発一発が貴方を少しづつ若返らせているの。」

「何ぃ!?」

 そう思いながらも身体は止まらない。また一発鐘を鳴らす。

「この鐘の音は、貴方から煩悩を抜き去ってくれているわ。純真な、つまりはこの村を出て行く前の頃の貴方に」

「どういう事だ?」

 頭の中が真っ白になった。

 分からない、なぜ夕実がそんな事を。


 いや、待て。夕実が?。

 そう考えて、今初めて、頭の中に引っかかっていたものが何なのか分かった。

 夕実は、本当に俺の妹なのか?。

 それ以前に、いたのか?。この村に。

 俺がこの村を出て十余年。しかし途中、全く帰らなかった訳じゃない。親父やお袋から、勘当同然とはいえ全く疎通が無かった訳じゃない。


 全く知らなかった妹。

 なぜ?。

 なぜ?。

 割れたパズルのかけらが、突然くっついて一直線に並んだ。

 理屈は分からない。何かと何かがくっついたのだ。


 そうか、分かった、分かったぞ。


 言葉には出来ないが、真理の一片をかいま見た気がする。

 意味は分からない。でも何故かそれが正しいと分かる。

「その通り。貴方の考えている通り。私は貴方の妹じゃない。でも同時に貴方の本当の妹でもあるの」

「ああ、分かる。分かるさ。お前は」

 思い出した。


 そうだ。俺が中学へ入り、夏休みに帰れそうもないと家に連絡した時、お袋から「今度帰る時には、お兄ちゃんになっているかも」と聞かされた。

 しかし俺は正月も帰れず、その時お袋から、その子も流れたと聞いた。


 生まれていれば、夕実と同じ歳。

 生またら俺の名前と同じ“夕”を取って、男だったら夕樹、女だったら夕実と名付けられる筈だった。

 そうだ。

 なぜ。なぜ忘れていたんだろうか。


 ゴーン!。


 また身体が鐘を鳴らしていた。

「夕実!、お前は」

「嬉しい。お兄ちゃん。思い出してくれたのね」

「ああ。でも、でもお前は……」

 夕実はとても嬉しそうな顔をした。

 魅力的な。とても魅力的な笑みだ。

「この鐘は、煩悩を取り去ってくれる。そう。お兄ちゃんが、都会の暮らしを知る前の姿に」

「ど、どういう事だ?」

「お兄ちゃんがこの村を出て行ったのは12年前。そして最終的にはその時の姿になる。だから、だいたい9発で一歳づつ若返っているはずよ。見て」


 鐘は今、折り返しの54発を打ったところ。

 だから計算では18歳の時の身体になる。

 ずっとハンドボールをやっていた俺は、身長こそ今と同じ175だが、体重は55前後だった。その時の、体力全盛期の身体が今、ここにある。

 心なしか、鐘の音も力強い。

「どういうつもりだ。一体」

 俺は鐘突き台の下にいる夕実に話し掛けた。

「どうもしないわ。ただお兄ちゃんにこの村に帰ってきて欲しいだけ」

「無理だ。俺には俺の生活が……」

「13歳の身体になってまで、同じ事が言えるかしら」

「くっ……」


 こんな状況下においても、身体は休まず鐘を打ち続けていた。

「か、身体が……」

 鐘を突くのを止めようとした。

 どうしていいか分からないが、まずこの状況を中断しないと、落ち着いてものを考えられない。

 しかし、止められなかった。

 止めようと思っても止まらなかった。


 身体は鐘をリズム正しく、10秒に一発ずつ打っていた。

「お兄ちゃんも知っている通りこの村は過疎化が進み、若者はみんな出て行った。このままでは廃村になるのを待つばかり。帰ってきて欲しいの。皆に。そして盛り立てていって欲しいの」

「そうか、やはり」

 夕実は人間の姿をしているが、精霊の様なものが姿を変えているのだろう。今、こういう状態だからこそ見える。

 夕実の身体は、何かオーラのようなものに包まれているのが、ぼぉっと光って見える。

 しかし、それよりも問題は俺の体の方だ。


 今度は鐘を打つたび、だんだん身体が小さくなってきた。身長がどんどん成長していった時代を今、逆行しているのだろう。体感的にも今160センチを切ってまだ小さくなってきている。感じではもう中学3年生の頃だろうか。

 鐘を打つ音も弱ってきた。無理がたたってきたのだ。

 しかし相変わらずこの動作は止まらない。


「お前は……」

 息が切れて、まともにしゃべれない。

「お前は、俺がこの村を出て行く前の歳に戻ったら、どうするんだ?」

 夕実は目を伏せた。

「私は、この土地の意識共同体の一部。この役目が終われば、また元に戻るだけ……」

「いなくなるのか」

「いなくなる訳じゃないわ。私はずっとこの地にいたし、この先もずっといます」

「そうじゃない。夕実は、夕実としてのお前はいなくなるのか」

「夕実は……。そう。でも、もともと夕実なんて娘はいなかったのよ」

 そう言いながらも、その目はつらそうだった。


「今で106。あと2発ですべて終りです」

 夕実の声が、僅かに震えている。

 辛いのか?。辛いのか?。精霊のクセに。

 俺の妹に化けていたクセに。

「くそぉ!」


 ゴーン!!。


「あと1発です」

 くそ、本当に終わるのか。終わってしまうのか。

 俺は全身で反抗した。

 鳴らす訳にはいかなかった。

 しかしその腕は綱を取り、俺の意思に反抗して全身の体重をかけて後に引いた。


 打っちゃいけない。


 意思に反して身体は鐘を打とうとする。が同時にそれを止めようとする力も働いていた。

 筋肉が。腕や腰や足の筋肉が、その2つの相反する命令の中、()じ曲がる様にきしんだ。

 全身に激痛が走った。

 耐えた。耐えたが、その見えない力の方が大きい。

 バランスを崩した。

 その隙に身体は、丸太に括りつけられた縄を一気に後に引っ張り、阻止しようにも大地にしっかり足がついていないので踏ん張れず、そのまま反動で丸太を前へ突き出していた。


 ゴーン!!


 鳴ってしまった。

 鳴らせてしまった。

 最後の鐘を。


「お別れです」

 夕実がつぶやく様に言った。

 同時に、俺の体のひずみも止まった。

 今の夕実と同じ13歳の時の姿。

 中学生だった時の少年の姿。


「くそぉ」

 いやだ!。

 終わらせない。

 終わらせる訳にはいかない。

 夕実の悲しそうな顔が見えた。

 憎かった……。夕実が。

 好きだった……。夕実が。


 夕実と初めてあってからまだ半日。昨日まで知らなかった奴なのに。こんな短期間で俺の関心のかなりの割合を占めるようになっていた。

 だから憎かったのだ。夕実が。

 このまま終わらせる訳にはいかない。

 このまま終わらせる訳にはいかない。


「終わる訳には、いかないんだぁ!!」


 俺は再度、その綱を掴んだ。

 だぶついた服が身体にまとわりつく。

 きしむ身体にムチうって、必死で綱を引いた。

 夕実は、その俺の意図を読んだ。


「だめ! やめて! そんな事したら、因果率が狂ってしまうわ。全てが駄目になってしまう!」

 夕実が叫んだ。

 しかし、やめる訳にはいかない。

 もう今の俺には、これしかないんだ!。

「うわぁああああああああああ!!」

「やめてぇええええっ!!」

 振りかぶった丸太が、一直線に鐘に向って行った。


 俺の魂を込めた、1発だった。

 全身・体重を込めた1発が、鐘に叩き込まれた。


ゴーン!!


 打たれた鐘は、今日1番の音色で村中を響き渡らせた。

 109回目の鐘だった。

 同時に、その振動と衝撃が身体を襲った。

 意識と魂が、その波動でズタズタにされた様な感じだった。ズタズタにされながら、その千切れた意識の一片一片は、全て俺の意識であった。

 ひょっとしたら、今、取り返しがつかない事をしてしまったのかもしれない。

 しかし……。

 視界が千切れていった。

 気が遠くなった。

     ☆

     ☆

     ☆


 気がつくと、明るいところにいた。

 見たことのある部屋。

 見覚えのある、天井の木目模様。

 そうだ、ここは実家の俺の部屋。

 起き上がろうとして、今自分が布団に寝かされている事に気がついた。

 頭がガンガンする。

 頭に手をやる。

「え?」

 何かが手にまとわりついた。

 さらっと流れ、それは俺の視界を横切った。

 黒いバサバサ。

「何で?」

 握る。

 引っ張る。

 痛い!。

 頭頂部から、鈍い痛みがあった。

 髪だった。

 それは俺の頭から生えている髪だった。

 しかし、長い。

 俺はこんなに長い髪の筈がなかった。

「まさか」

 起き上がる。

 立ち上がっても視界が低い。

 まさか、あれは夢じゃなかったのか。

 立ち上がって、壁に吊るしてある鏡に向った。

 壁に手をついて、鏡を覗き込んだ。

 しかし、鏡の中に俺はいなかった。

 そして、12年前の俺もいなかった。

 その鏡の中にいたのは、見間違える筈もない、驚いた顔になっていたが、そこには確かに夕実がいた。


「な、なぜ」


 喉から出る声も、野太い俺の声じゃない。

 ぺたんと座り込んだ。

 ぺったんこ座りになった。

 思わず自分で自分の肩を抱いた。

 ピンク色のパジャマを着た俺は、自分の膨らみかけた胸の感触を、抱いた腕と胸の両方に感じた。


 改めて気がついた。

 この部屋は、元々の俺の部屋じゃなく、大体にして同じだが全てが俺の部屋のままじゃなかった。


 机の上にある小物。

 本棚に並ぶ本。

 そして、押入れの前にかかっている制服。

 制服は詰襟の学生服ではなく、ジャケットとブラウスとスカート。女子の制服だった。


 そうか、あの109回目の鐘を突いた時、俺は身体が若返るだけでなく、俺自身の存在が夕実のものへとスライドしたのか。

 まさか、こんな事が。

 いや、今までの出来事から考えれば、まだ充分ありえる。

 元々いない筈の夕実の存在すら、受け入れられてきたのだから。


「俺が、夕実に……」

 手がパジャマの隙間から中を探る。

 直に触れる。

 僅かに膨らんだ胸。

「あ……」

 しかし男のそれとは全然違う形と大きさの乳首に触れた時、ぞくっと背筋が震えたのが分かった。

 やはり……。

 そう思いながらもう片方の手は、パジャマのズボンの下にもぐり込んでいき、木綿の生地のショーツの、そのまた下を指が探った。


 !!……。


 決定的な宣告。

 当然の様にそこに男としての痕跡は無く、未成熟だが女としてのスリットがお尻にまで続いていた。


「うくっ……」

 声が漏れた。

 それは身体の隅の隅まで自分が夕実である事実を突きつけられ、受け入れるしかないリアルな現実だった。

 とその時、がらっとふすまが開いた。


「あら。もう気がついたの?」

「え、ええっ!」

 入ってきたのも、また夕実だった。

 いや、見た感じからいけばむしろ、こっちの方が本物の夕実であった。

「しかも、もう始めちゃっているし」

「え? いや、そうじゃなくて」

 あわてて俺は、パジャマから両手を引っ張り出した。

 そうか。見ようによっては、というより状況的にはまさしく、その真っ最中に見えてしまう。


「あの、それは。違っ……」

 否定しようにも否定できない。

 ある意味そうなってしまっていたのかもしれないから。

 俺は顔が真っ赤になるのを感じた。

 酒を飲んだ時とは全然違うが、それでも顔が火照っている事は充分に分かっている。


「あ、ど、どういう事……」

「しっ」

 夕実は口に指を当て、後手でふすまを閉めた。


「驚いたでしょ」

「おど、驚くも何も、一体何なんだ」

 夕実は落ち着いた調子で、近付いて俺の目の前に立った。


「因果律が狂ったのよ。貴方の109回目の鐘で」

「因果率?」

「だからほら」

 夕実は俺の目の前に立った。


 その時の夕実の目は、同様に直立している俺より少し高い位置にあった。

「あの余分な鐘で、貴方はもう一歳若返っちゃったわ。本来なら貴方が昔いた所に私と入れ替わりに、すっぽり入ってお終いになった筈なのに、貴方が別の存在になったから私はお役御免、という訳にはいかなくなったの」


「じゃ、俺が女になったのは?」

 それが何より今、気になっているいる事だ。


「今の貴方は、私の12歳の時の姿。予定していたプログラムに貴方の12歳のデーターはないから」

「はは……」

 俺は再度、その場にペタンと座り込んだ。

 最悪の状況を回避しようとして、もっとドツボにはまりこんだ様なものだ。


「元に戻せないのか?」

「無理ね」

 夕実は両手を上げた。

「焼いたパンを元の小麦粉に戻せる?」

「そ……そうだけどさ」

 俺は再度自分の身体を、胸を押さえた。この胸のふくらみは現実の自分だ。

「あ、ああ……」

 思わず俺の頬に暖かいものが流れていた。

 夕実はそんな俺を、正面から抱いてくれた。

 俺の頬が夕実の頬に押し付けられた。


「もうどうにもならない。貴方を元の男に戻す術は、今の私にはない。」

 夕実は、耳元に囁くように話し掛けてくれた。

 今の俺は、張りつめた糸が切れたみたいに不安定だったが、こうして抱かれていると、まだ落ち着いてきた。

「これから女の子として生きていくのは辛いでしょう。でも大丈夫よ。私がついていてあげる。私が女の子としての生き方を教えてあげる」

「本当に?」

「言ったでしょ。私はお役御免にならなくなったって。この家で一緒に暮らして、一緒の学校に通って、でも……」

「でも?」


 夕実のその言い方が、すこし恐かった。

 次に来るのは条件。

 一体、どんな条件を突きつけられるのか。


「でももう私の方が年上だから、私がお姉ちゃんね」

「あは……」

 俺は思わず、そんな夕実を抱きしめ返していた。


      ☆


 翌日は、お正月だった。

「「「「あけまして、おめでとうございます」」」」

 新年の挨拶をして、お雑煮を食べた後、私と夕実はお母さんに着付けをしてもらった。

 朝イチすぐに着替えなかったのは、その晴れ着をお雑煮で汚したくなかったからだ。


 夕実は鮮やかなピンクの生地に、ちょっと濃い緑の若葉を散らし、そして私は萌葱の生地に、桃割れ模様をあしらっていた。

「ほら夕真!、じっとして」

 お母さんはそう言って私の着物の帯を直した。


 ちなみに夕真というのは私の新しい名前。まさかこの姿になってまで夕矢、という訳にはいかないから。

 大鏡に映して見る。


 夕実と私で色使いが逆の振袖。背の高さがちょっと違うけど、こうして見ると、本当にそっくりだった。

 自分で意識して初めて着たものが、こんな可愛い振袖とは。

 自分の姿に見とれていたのを、夕実に見つかった様な気がして、思わず顔を赤くした。

「しかし、ちょっと寂しくなるな」

「え?」


 お父さんが私達2人の方をじっと見ている。

「だって夕真は今年、全寮制の中学を受験するんだろう。合格したら家族離れ離れになる」

 そう言われて改めて今の自分の状況に気がついた。夕実がつんつんと肘でつっつく。

 私はゆっくり深呼吸して、お父さんの方に向かって言った。


「もう、やめにした」

「「え?」」

「だから、受験やめにした」

「やめにしたって、あんなに行きたがって毎日勉強していたのに……」

「勉強だけが大切じゃない事が分かったの。ちょっと不便だけど隣町の中学まで自転車で通うわ。夕実と一緒に」

「夕実じゃないでしょ。お姉ちゃんて呼びなさい」

「はぁい。お姉ちゃん」

 私はぺろっと舌を出した。


 状況は変わったが、結果オーライだ。

 気の迷い、心の迷いは煩悩。

 その煩悩を捨て去った時、人は浄化される。これがその現れ。

 便利な物だけが全てじゃない。曇った目や心ではそれが見えない。自然もその一つ。


 私もこの先、女の子として生きていくのは、とまどいや苦痛がともなうだろう。しかし夕実、いや夕実お姉ちゃんと一緒なら、絶対に大丈夫だ。

 私が今まで生きてきたのは時代で言うなら未来だったが、今の私にとっては既に過去になった。

「じゃ、初詣で行こう。競争よ」

「あ、待ってよ。お姉ちゃん」

 私は走り出した夕実お姉ちゃんの後を、必死でついていった。

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