九
大松屋の掛かり付け医者の良庵が店に来ていた。番頭の末吉が対応している。
「旦那様が亡くなってしまって、今後は先生の診療をどのようにするかを、一度、相談させて頂こうとは思っていたところです」
良庵が出されたお茶を手に取りながら頷いた。
「そう、その事ですが、女将さんは居られますか」
「あいにく出掛けております」
良庵がお茶を一口飲むと、フウと息を吐いた。
「そうですか。で、様子はいかがですか」
「はあ・・その、女将さんの、体の具合の事でしょうか」
良庵が、おやっと、怪訝な顔をした。
「番頭さんは、何も聞いていませんか」
「ええ、旦那様が、女将さんの体の事を心配していたのは知っていますが、詳しくは・・」
「なるほど・・」
良庵が考え込むように下を向くと、末吉が顔を近付けて声を潜めた。
「それで、どのような病気なのでしょうか」
良庵が顔を上げ、末吉を見ながらゆっくりと頷いた。
「病んでいるのは体というよりも頭、つまり精神だ。いわゆる呆け、が進んでいる」
良庵の口から語られるお松の症状を聞き末吉は衝撃を受けた。このまま症状が進んで行けば、気が触れるような最悪の病状に繋がり兼ねない状況だという。
だが、末吉としても、言われて見れば思い当たる節は在った。
物忘れ、勘違い、過剰な反応に奉公人に対する必要以上の叱責など。新装開店を控えた忙しさから来る気の回らなさや苛立ちにしては、今にして思えば、確かに様子がおかしかった。
それが病によるものとならば、腑に落ちる感覚が湧いて来た。
「それで・・、治していただけるのでしょうか」
良庵が難しい顔をした。
「治すというよりも、これ以上、病を進行させないようにするというのが最大限の治療だ。だが、それとて私に出来るかどうか、自信は無い」
末吉が悲壮感を漂わせて詰め寄った。
「そ、それでは、どうすれば良いのですか」
末吉をなだめるように、良庵がゆっくりと数回頷いた。
「だから、最善の方策として、小石川療養所の小川先生に相談するように言っていた。赤髭先生は、今では江戸で最高の医学知識と知見を有している。いや、日本一だろう。あの先生なら、きっと何とかしてくれるはずだ」
末吉が体を引いた。
「小石川療養所ですか・・・」
末吉も、世間が抱く小石川療養所への評判しか知らない。
「あそこは、町医者が見放した重病人だけが行くところでしょう。そんなところに、女将さんを行かせるのですか・・」
「そういう側面も、勿論ある。いわゆる、病人にとっての最後の砦のようなところになっているのは確かだ。だが、それは、赤髭先生が日本一の名医であることの査証でもあるのだ。良蔵さんは、女将さんのために出来ることは何でもしたいと言っていた。だからこそ、私は赤髭先生に診てもらうことを勧めたのだ」
「女将さんの症状が、それほど、悪いのですか・・」
「これ以上症状を進ませないために、赤髭先生を頼るのだ」
「しかし、女将さんを、小石川療養所などに入れることなど、到底出来ません・・」
良庵が、まあ落ち着け、とばかりに右手を上げた。
「療養所に入れろということではない。まずは、赤髭先生の診察を受けろということだ。その上で、女将さんにとって、どういう治療が良いのかを相談しろということだ。先生の見立てもあろう。大松屋さんや女将さんの都合もあろう。そこは相談して決めれば良い」
末吉が大きく息を吐いて頷いた。
「そうであれば、先生にやっていただいているように、小川先生にも、店の方に通いで来ていただくことでも良いのですか」
「勿論、そういうことも出来るかも知れない」
「そうですか・・」
末吉が、納得したような表情をしたものの、まだこだわりが抜けないのか、複雑な顔色のまま良庵を見た。
「それで、旦那様は、どうしようとなさっていたのですか」
良庵が湯飲みを手に取ったが、中に茶が入っていなかったのか、徐に湯飲みを茶托に置いた。
「そうだな・・、良蔵さんとしては、やはり、女将さんを療養所に入れたかったのではないかな。私も勧めていた。赤髭先生が常に側にいて、症状に応じた適切な治療をしてくれるのだ。それが最適ではある」
「そうなのですか・・」
末吉が肩を落として下を向いた。
「いや、良蔵さんがそう言っていた訳ではない。そうではないが、その、何というか、女将さんの事を第一に考えた場合には、それが最善の方法と思うはずだ」
末吉が顔を上げた。
「それは、つまり・・」
良庵が頷いた。
「大店の主人ともなれば、常に、まずは店のことを考えねばならない。奉公人たちの生活がかかっているから、何をするにしても下手なことは出来ない。仮に売上が大きく減るようなことになれば、皆の給金に影響し、場合によっては死活問題にもなりかねない」
「それはそうです・・」
「しかし、良蔵さんにとっては、店にも増して、女将さんのことが大事だったはずだ」
末吉がハッとして良庵を見詰めると、良庵が穏やかな笑みを浮かべた。
「良蔵さんが、良く、ボソっと独り言のように言っていた。店の事などどうでも良い、新装開店も止めても良い、まずはお松が良くならなければ、とね・・」
末吉は、良蔵とお松の会話を思い出していた。
側から見れば、強引なお松の言い方に仕方なく妥協する良蔵という側面が見えていた。特に最近においては頻度も多くなり、そこまで認めるのか、という弱気とも受け取れる腰の引けようだった。
今にして思えば、あれは病気のお松を思っての良蔵の気遣いだったのかもしれない。
「だが、その良蔵さんの気持ちが、女将さんには伝わっていたかどうか・・」
良庵が顔を曇らせた。
「それと、気になる噂を聞いた」
末吉が身を乗り出した。
「どのような話ですか」
「うむ、医者仲間から聞いた話なのだが、何やら奉行所が小石川療養所に探りを入れているらしい。良蔵さんの遺体を検分した医者が、小川先生を連れ出して話を聞いたということだ」
「どういう事でしょうか・・」
「はっきりとは分からない。だが、良蔵さんを殺した犯人を捕まえるための動きである事は間違いないだろう。わざわざ、死体を調べた医者を差し向けたのだからな」
「奉行所は、下手人の目星をつけているという事でしょうか」
「さあ、私には何とも・・」
そう言いながら、良庵が末吉をジッと見て、声を潜めた。
「これは、ここだけの話にして欲しいのだが・・」
「はい・・」
「呆けが進むと、思考や行動がより過激になる場合がある。感情を抑える事が出来なくなるのだ。不快な事があったら周りに当たり散らし、気に食わない者を傷付けようとする。場合によってはその者を殺そうとするだろう」
末吉がゴクリと唾を飲み込んだ。
「女将さんにとって療養所に行く事など到底受け入れられないとしたら、強引に自分を療養所に連れて行こうとする者に、当然ながら殺意を抱くだろう」
良庵が頷いた。
「そう。たとえ、それが夫の良蔵さんであっても」