七
「失礼します。女将さん、奉行所の役人が来ています。また、話を聞かせてくれと言うのですが」
番頭の末吉が顔を出した。お松がゆっくりと振り返る。
「あら、そうなの。何のお話かしら」
「え・・」
末吉は言葉に詰まった。この状況で役人が来るのは、誰がどう考えても、主人の良蔵殺しの件しかあり得ないでは無いか。
「・・ですから、旦那様が殺された時の話です・・」
「旦那様が・・ああ、そうね、そうだったわね」
末吉はお松の顔を覗き込んだ。
「女将さん、お疲れであればお断りしましょうか。ここの所色々とあって、何かとお忙しかったですから。少し休まれてはいかがですか」
これは末吉の正直な気持ちだった。
確かに最近のお松は、何を考えているのだろう、あるいは、勘違いをしているのでは、と思う事が何度かあった。しかし、新装開店を控えて忙しく立ち回っている現状や、良蔵が殺された事を考慮すると、混乱するのも仕方ないとも思えた。
そして、何より気がかりなのは、あの日良蔵が言っていた、お松が体を悪くしていると受け取られる言葉だった。
「構わないわよ。ここに通してちょうだい」
末吉はお松の様子を注意深く見た。憂いを含んだような表情には、疲れも見て取れる。
「あまり、無理をなさらないでください」
お松が末吉を見詰めながら微笑んだ。
「ありがとう」
末吉が下がってしばらくすると、神宮が顔を出した。
「いやぁお忙しいところ恐縮です」
「これはお役人様、ご苦労様ですねぇ」
お松が座ったまま体の向きを変えて神宮を見て頭を下げた。
「こんなに散らかしてお恥ずかしい限りです。ここのところ忙しいもので、このままで失礼します」
神宮が座ったまま右手を振った。
「どうぞそのままで構いません。なあに、ほんの少し聞きたいことがあるだけです」
「来月には新装開店しますのよ。その改装した店に並べる反物を吟味しているのですよ。目の肥えたお客様ばかりですもの。恥ずかしい品物など置けませぬ」
「なるほど、見事なものばかりですなぁ」
お松は神宮に向けていた眼を直ぐに広げてある反物に戻すと、一つを手にした。
「ほら、これをご覧なさいな。色合いと柄の斬新なこと。こんな感じのものはこれまでになかったわねぇ」
「はあ、目の正月になりました。ところで・・」
「これはどうかしら。この淡い色は染めるのが難しいらしく、値が少し張るのよ。でもねぇ、良いものは良いでしょ」
「はあ、そうですね。それでですね・・」
「お役人さんも奥様にひとついかがですか。お安くしますよ。ほら、これなどはいかがでしょうか。お武家様の奥方にはきっとお似合いですよ。あ、これも素敵ねぇ・・」
神宮がそわそわと腰を浮かしてお松に近づき、前屈みになって右手を差し出した。
「す、すみません。女将さん。話を聞かせていただきたいのですが」
お松がハッとしたように顔を上げて神宮を見た。
「ああ、そうですよね。話ですよね。ごめんなさい。つい夢中になってしまって」
神宮が座り直して苦笑いした。
「いいえ、こちらこそ突然押しかけて。それで、あの晩のことをもう少し聞かせてもらいます。状況を色々と吟味したのですが、どうも、押し込み強盗や物取りの仕業とは思えなくて。つまり、賊は、ご主人を最初から殺そうとしていたような手口でして」
神宮はお松の表情を注意深く見ながら話した。
「それで、何か、ご主人が恨みを持たれていたとか、揉め事があったような話はなかったですか」
お松が急に、何処か遠くを見つめるような冷めた目になった。
「いいえ、無かったですね」
「そうですか・・それでは、店の中で、商売の事などでの問題などはありませんでしたか。例えば、新装開店に向けて色々と準備する上で、難しいことも出て来ているとか」
お松の表情が険しくなった。
「それは勿論ございます。これは、大松屋にとって十年に一度あるかないかの大仕事ですよ。そう簡単には物事は運びません」
神宮がゆっくりと頷いた。
「であれば、ご主人も女将さんも、それなりに難題を抱えていたのでは無いですか」
お松の体がピクリと動いた。
「・・ええ、それは・・、色々とあります。思った以上に難しいことだらけです。店構えの改築から店頭に並べる品物の構成をどうするかまで、それはもう・・」
お松が気持ちを沈めるようにフーと息を吐き、神宮に視線を向けた。
「今でも、こうして商品の吟味をしていますけど・・、でも、それが何か、旦那様が殺されたことに関係があるのですか」
お松の鋭い視線で見詰められて、神宮が思わず体を引いた。
「あ、その、ですから、関係があるかどうかというよりも、殺される理由に繋がるような事が無かったかを知りたいと思いまして、聞かせていただいています、はい・・」
神宮がゴクンと唾を飲み込んだ。
「お気に触るでしょうが、ご勘弁を・・」
「そうですか、他に何かありますか」
「はい、では端的に伺います。新装開店については、ご主人は賛成だったのでしょうか」
「勿論、反対でした」
神宮は、オッと気持ちが昂った。ここまではっきり言うとは思わなかったからだ。
「それは、何故でしょう」
お松が目を瞑った。
「今にして思えば、あの人、呉服屋というよりも、商売人だったのよ」
「はあ、でも、呉服屋も商売人には変わりないのでは無いですか」
お松が目を開けて微笑んだ。
「呉服屋とは、市民に着物を提供することに生き甲斐を感じる者のことよ。お客さんがどのような柄のどういった着物を身につけたら似合うかを一緒に考えて、それに袖を通した時の喜びを分かち合う。それこそが呉服屋としての在るべき姿では無いかしら。儲けることだけを考えていたのでは、良い呉服屋にはなれませんもの」
「なるほど、確かに」
「あの人、商売人として金儲のことだけを考えて、呉服屋としての大松屋を色々と変えてしまいましたから、本来の呉服屋に戻る新装開店には反対だったのよ」
「そうですか。でも、結局は賛成された訳ですよね」
お松の表情が険しくなった。
「渋々です。私に説得されて、仕方なく同意したのです。それでも諦めきれなかったのか、最近は、中止にしようと頻りに言っていたほどです」
「何故ですか」
「儲けが減るのが嫌だったのでしょう」
神宮が前屈みになりながらお松を注視した。
「理由は、言わなかったのですか」
お松が上体を起こしながら神宮から目を逸らすように横を向いた。
「あの人の考えていることなど、言わなくてもわかりますよ」