六
お松は座敷に反物を広げて吟味していた。
もう、新装開店の日が迫っている。期待に胸が膨らんでいるが、準備が中々進んでいないことには、やや焦りもあった。
思うような品物が揃わないのだ。どれも皆、平凡すぎる。もっと斬新で、刺激的な柄の物を多く仕入れないと、目の肥えた客に訴えることが出来ない。
お松は目を瞑った。頭痛がしたのだ。
「まただ。根を詰めすぎるといけないわね。少し休まないと」
頭に手を当てながら、フーッと息を吐いた。
「誰かいますか、お茶を持ってきて」
はーい、という女の奉公人の声がした。
お茶が運ばれ、それを口にすると、スーッと気持ちが落ち着いてきた。それと同時に、あの晩の出来事が思い出された。
松蔵を殺した時の事だ。
ああ、あんな事があったのだ、というように遠い過去の記憶が蘇ったような感覚だ。だが、まだほんの数日前の事である。
仕方なかったのだ。あのままでは、新装開店がダメになるどころか、自分がこの店から追い出されただろう。そのような事をさせる訳にはいかなかった。
父の松蔵が築き上げたこの大松屋から、娘である自分が排除されることなど、どうして許されようか。
あの日・・
掛り付け医者の良庵が帰って少しした時だった。自分の部屋で仕入れた反物を見ていたが、もう少し華やかな物を揃えようと思い、良蔵に相談しに行った。金を都合してもらう為である。
案の定、良蔵は、最初は渋った。先代からの決まりで、仕入れに使う金は各部門の売り上げに応じた割合が原則となっており、多くてもその二割増が限度となっている。
だが、お松が強く主張すると、いつも良蔵は折れていた。
「わかった。今回も、特例とする。番頭の末吉には言っておくよ」
お松が立ち上がり部屋を出ようとすると良蔵が止めた。
「待て、まだ話がある。座ってくれ」
良蔵が深刻な顔になった。
「そのかわり、新装開店については当分見合わせて、まずは、しっかりと医者に診てもらう事だ。体を直すことが優先だ、そうしてくれ、頼む・・」
お松は又かと思った。一月前くらいから、良蔵は新装開店の見合わせと自分の体の事を、かなりしつこく言っている。
「それは出来ないわよ、ほら、私はなんともないわ、この通り、大丈夫」
「だが、良庵先生が言うには・・」
「いやよ、いやっ」
お松はイライラして来た。
「まあ聞きなさい。今日の良庵先生の話だ、お前の症状は、少し進んでいるのではないかと言っていた」
「もう良い加減にして、ほら、私はこんなに元気よ、何処も悪くないわ」
「体ではない。気の病だ。忘れやすい、感情の起伏が激しい、勘違いが多い、そういう病だ。前から言っているだろう」
「そんな事は誰にでもあるでしょう、物忘れや勘違いなど」
「しかし、その度合いにもよる。お前、一昨日、伊勢屋の旦那が来たときに、どなたですかと言ったそうじゃないか。お前の実の叔父様だぞ」
痛いところを突かれた。確かに、あの時は自分でもどうしたのかと思ったほどだ。
「ああ・、でも、何か、見かけない人の顔のように思えて。ちょっとした勘違いよ・・」
「問屋の山月屋とのイザコザもそうだ。お前は頼んでいないと品物を送り返したが、相手は、お前が書いた注文書を持っていて、その通りの品物だったそうじゃないか」
ジワジワと追い詰められて行くような恐怖心が満ちて来た。
「そ、それも・・、つい忘れていたのよ。忙しいので・・」
「そういう事が、最近多くなったという事は確かなのだ。お前も分かるだろう。それに、奉公人にも、ちょっとした事に対して、厳しい言葉での叱責も多いと聞く」
「新装開店がもう目前なのよ、イライラする事だってあるわ」
次第に我慢が出来なくなって行った。
「なぁ、だから、新装開店は少しの間見合わせて、小石川療養所に行ってみよう」
お松の体がガクガクと震えた。衝撃と怒りで感情を抑えられずに、部屋を飛び出した。
良蔵は、新装開店を止めるだけでなく、自分を小石川療養所に入れようとしているのだ。あそこは、気が触れた患者が牢屋に入れられているようなところ。受け入れることなど出来る訳が無い。そんな事をさせるものか。
もう、良蔵を殺すしかないと、覚悟を決めた。
お松にとって、物心付いたときから呉服業が体に染みついていた。
華やかな柄の反物が店頭に並べられ、それらで仕立てられた着物を着た優雅な女達が出入りする。父や奉公人が忙しく立ち回り、品物が次々と売れて行く様子が、日常の光景だった。
この煌びやかな世界こそが自分が生きていく道なのだ、その思いは年を追う毎に強まって行った。もとより、父親譲りの活動的で気持ちを前面に出す性格である。強引に父の松蔵に頼み込んで商売に関わらせてもらう。
当初は、松蔵も店の者も素人の遊び程度にしか見ていなかった。それでも、松蔵の配慮により、番頭の良蔵が指南役となったことで、それなりの知識や要領は習得して行った。だが、本格的な商売には関与させられることはなかった。
最も、年頃となったお松は、容姿端麗な上に立ち振る舞いも優雅で、店先に姿を現すだけで場を輝かせ、一斉に居合わせた客の注目を集める華やかさを持つようになっていた。看板娘の登場は、店の一つの魅力ともなった。
やがて転機が訪れる。
店の者が店先に並べる新物の反物を吟味していた時である。粗方並べる反物が決まり、後は主人の了解を得るだけとなったところに、お松が顔を出した。
「あらぁ、新物ね。素敵な柄だわ」
「はい、これらが店先に並びます」
お松が、じっくりと一つ一つの反物に目を移して行った。
「良いわねぇ、これは売れると思うわ」
そう言いながら、候補に漏れて隅に追いやられた反物に目を向ける。
「あら、これらはどうするの」
「お蔵入りです。今ひとつの物ばかりなので」
お松は、しばらく、それらを手に取ってじっくりと見ていた。一見すると派手で斬新な柄のものが多く、確かに、敬遠されそうな物ばかりである。お松は、それらの中から、数点の反物を選んで手にした。
「これらも並べてくれないかしら」
「はあ、しかし、お嬢様・・」
「父には私から了解をもらいます。お願いね」
無論、主人の松蔵をはじめ誰も売れるとは思わなかった。せめて、本筋の商品の引き立て役にでもなってくれれば、という思いだった。
だが、新物が店先に並べられると、お松が選んだものが真っ先に売れたのである。数日も経たないうちに、それら全てが売り切れ、追加で仕入れるほどの盛況となった。
店の者のお松を見る目が変わった。
商品の見立てや仕入れの際には誰もがお松の了解を取るようになり、やがて、本格的に商売に関わって行く。
更に、この頃から松蔵が体調を崩す事が多くなり、必然的に、お松が主人の代わりに商売を差配するようになる。番頭の良蔵も本腰を入れてお松を補佐する。
こうして、大松屋はお松と良蔵によって売り上げを伸ばして行った。
お松自身も、次第に、自分が店を背負っているという実感を持つようになる。江戸でも指折りの呉服屋の中心に自分が居るという高揚感が全身に染み込んで行った。
今にして思えば、最も華やかな頃だった。あの時に戻りたい。大松屋が呉服屋として輝いていた頃に。
今のような、呉服屋なのか小間物屋なのか、あるいは、仕立屋なのか分からないような店ではなく、かつての、看板の呉服を前面に出した大松屋にしなければならない。
新装開店は何としても成功させなければ。
お松は手に持った湯呑みを置くと、座敷に広げた反物に目を移した。