十四
「女将さんを・・、お縄になさるのですか」
末吉が身構えた。
「違う、話を聞くだけだ。しかも、お前に」
頼方がそう言うと、末吉が少し肩の力を抜いた。
「そうですか・・、いえ、いつも来られるお役人さんとは違うもので、つい、そう思ってしまいました」
「ああ、あいつは、今日は休みだ。代わりに俺が、少し話を聞きたいと思って」
末吉が訝しげに頼方を見る。
「本当に、話だけですか・・」
「そうだ、話を聞いたら、大人しく帰る。役人は、嘘はつかない」
末吉は頼方を客間に通した。
女の奉公人がお茶を持って来て前に置くと、頼方が手に取って口にした。
「女将がああいう風になったのはいつからだ」
「ご覧になっていたのですか・・」
「うむ、素人目から見ても、尋常では無かった」
末吉が肩を落とし、視線を下げた。
「私が何かおかしいと感じたのは、一月ほど前からです。ですが、店の掛かり付け医者である良庵先生から聞くと、数ヶ月前から兆候は出ていたそうです」
「今日のように、取り乱すような事もよくあるのか」
「最近は、時々あります・・」
「症状が進んでいるということか」
「そのようです・・」
その時、ドカドカという足音とお松や奉公人らの声がした。
「お美津、お美津は何処なの。困ったわねぇ、このような忙しいときに何をしているのかしら・・」
「ですから、お美津は、先ほど女将さんの用事で出かけました」
「あぁ、そうだったわね、ええと、それじゃ、どうしましょう・・」
「女将さん、少し休みましょう・・」
「もう新装開店なのよ、休んでなど居られないわ、あぁ、末吉、末吉は何処・・」
「番頭さんは、今・・」
末吉がソワソワして困った顔をすると、頼方が頷いた。
「行ってやりな、いいよ」
「はい」
末吉が部屋を飛び出して行った。
お松をなだめる末吉の声がしていたが、やがて静かになった。
頼方が茶を手にしてフーと息を吐いた。
「なるほど、こりゃあ、医者連中の言う通りだ」
お茶を一気に飲み干し、首に手を当てた。
「まいったなあ・・」
しばらくして末吉が戻って来た。部屋に入ると座り、深々と頭を下げた。
「お役人様、話の途中で、大変失礼しました」
「いいよ。どうだ、落ち着いたか」
末吉が顔を上げた。
「はあ、まあ、何とか・・」
「そうかい。番頭として、お前も大変だなぁ。ここは踏ん張りどころかも知れんぞ」
「はい、良庵先生からも、そう言われております」
「女将の病気については、小石川の赤髭も頼りになる。相談してみると良い。親身に相談に乗ってくれるはずだ。日本一の名医だそうだ。俺もそう思うようになって来た」
「はい、それも良庵先生から聞いております」
頼方が頷いて、ゆっくりと立ち上がった。
「まあ、様子はわかった。手間を掛けたな。ありがとうよ」
末吉が驚いた顔をした。
「もう、帰えられるのですか」
「そうだ」
「あ、あのう・・、それでは、女将さんは、いつお縄になるのでしょうか・・」
頼方がまた座った。
「ちょっと待て、先ほどから女将がお縄になると言うが、何故そう思うのだ」
「はい、その・・、よく来られるお役人さんが、店の者に色々と話を聞いていかれましたが、全て、女将さんについての事です。奉行所は女将さんを疑っていると思っていました」
「なるほど、そうか・・」
頼方が腕を組み、上体を起こした。
「だが、奉行所としては、下手人が特定されてその容疑が確実となるまで、全ての者を疑い、どんな些細なことでも聞き出そうとする」
末吉は悲壮な顔になった。思い詰めたように、必死の形相で頼方を見つめる。
「やはり・・、やはり、女将さんも疑われている訳ですか・・」
「勿論、女将とて例外では無い。お前も含め、店の者もな」
末吉が両手をついて頭を畳に付けた。
「お役人様、お願いでございます。どうか・・、どうか、女将さんをお縄にするのを、あと三日、あと三日お待ちください」
頼方が驚いて末吉を見た。
「おい、どういう事だ」
末吉は頭を下げたまま、肩を震わせて、涙声を絞り出す。
「あと・・、あと三日で大松屋は新装開店を迎えます。呉服屋としての大松屋を全面に出した新装開店は、女将さんの夢なのです。ぜひ、何としても、その開店の日を女将として、いえ、大松屋の主人として、店で・・、店の中で迎えさせてやりたいのです。あと三日です。どうか・・、どうかお願いします・・」
しばらく沈黙が続いた。
頼方が末吉の肩に手をかけた。
「顔を上げな」
末吉が涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
頼方が微笑みながら頷いた。
「まあ、その・・、良蔵殺しの下手人は、まだ特定するまでに至っていない。これと言った手がかりもなく、解決には、三日どころか、だいぶ先になりそうだ。そういう意味では、安心しな」
「ほ、本当ですか・・」
末吉がぐしゃぐしゃな顔をグイッと近付けると、頼方がたまらんとばかりにウッと身を引く。
「だから、役人は、嘘はつかない」
末吉が更に身を乗り出す。
「しかし、あの、鬼の奉行という噂の、厳しいお奉行様も、同じお考えなのでしょうか」
頼方が、末吉が近付くのを制止するように右手を出した。
「同じ考えも何も・・、俺が奉行の播磨守だ」
末吉が目を丸くして茫然と頼方を見詰める。
頼方がゆっくりと頷くと、末吉がワナワナと震えて頭を畳にこすりつけた。
「お奉行様あぁ、ありがとうございますぅ、お奉行様・・、ありがと・・ううう・・」
頼方が立ち上がった。
「大松屋のこれからは、番頭であるお前の腕にかかっている。女将を助けて、しっかりとした商いをしな」
末吉が言葉にならない声を上げた。
部屋を出ようとした頼方が立ち止まって、末吉に顔を向けた。
「ああ、それと、その、鬼の奉行という噂だが・・」
末吉が、更にぐちゃぐちゃになった顔を上げる。
「はい・・」
頼方が軽く首を振る。
「自分で言うのも何だが、実際はかなり違うと思うぞ」
何処かで猫が鳴いている。
支音魔庵では、頼方と藤村が酒を飲んでいた。
陽は陰りかけたばかりで夕刻にはまだ早く、他に客は居ない。
「ははは、だから俺はあんたが好きなのだ、ははは・・」
藤村が上機嫌で右手を頼方の肩にかけると、頼方が迷惑そうに身を引く。
「ばか、やめろ、酢天狗、そっちの趣味と思われるぞ」
藤村が大きく口を開けてツバキを飛ばしながら語りかける。
「そう照れるな、あんな裁断をサラリとやってのけるたぁ、にくい男だねぇ」
頼方が迷惑そうに顔をしかめて首をすくめた。
「まだ、そこまで行く前の話だ。容疑が固まらないというだけだ」
「いやいや、その筋じゃあ、鬼の奉行の温情裁断、ともっぱらの評判だぞ」
「だから、その、鬼の奉行ってぇのが、そもそも間違いだと思うけどなぁ」
店の主人の岡吉が酒と料理を持って来た。
「今日は珍しく、酢天狗先生は上機嫌ですねぇ」
藤村が、岡吉が持って来た酒を取り、頼方に波波と注いだ。
「あんなことされたら、そりゃあなぁ、誰であれ惚れなおすよ」
「お前、この前、俺とはこんりんざい付き合わないと言っていただろう」
「あれはやめた。良いじゃないか、気が変わっても。ああ、気分が良い。そうだ、じょにでっぷ、今日は俺のおごりだ。店の客皆の勘定は俺が持つ。パーっとやろうぜ。何でも出してやってくれ」
頼方が店をぐるりと見回す。
「店の客といっても、俺たちだけだぞ」
「俺は貧乏な医者だ。客が満杯の時には、そんな事が言えないだろう」
岡吉が頷く。
「お二人様の勘定ってぇ事で、がってん承知」
岡吉が下がると、頼方が不安そうに藤村を見た。
「おい、それでも、大丈夫なのか。そんな金を持っているのか」
藤村が満面の笑みを浮かべて右手で懐を叩いた。
「ははは、今日は持っているのだ。ここに大金を、ははは」
頼方が怪訝な顔で藤村の懐を注視した。
「珍しいこともあるものだ、どうしたのだ」
藤村がすました顔で、グイッと酒を飲む。
「赤髭先生に渡すために、あんたからいただいた金の一部を、ちょいと拝借した」
「・・・・」
何処かで猫が鳴いている。