表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/14

十三

「おい、あるる、今日は俺が大松屋に行く」

 神宮が大松屋に聞き込みに行こうとして、頼方に挨拶しようと奉行部屋に顔を出した途端にそう言われた。


「はあ・・、今日は奉行自ら行かれますか・・」


 頼方が身支度をしながら頷いた。

「うん。やはり、自分の目で女将の様子も見てみたいし、事情を詳しく知る番頭にも少し話を聞きたいと思ってなぁ」


「では、私もお供します」

「いや、一人で行く。大勢でいくと向こうも身構えるだろう」


 頼方が部屋を出て出口に向かって歩いたが、ふと立ち止まり、振り返った。

「そうだ、お前、此処のところこの事件に関わって忙しかっただろう。少し休め。今日は家でゆっくりしろ」


「はい、ありがとうございます・・」

 神宮に、肩の荷が下りたような安堵感が満ちて来た。


 確かに、此処のところは気が休まる事は無かった。その重圧も半端では無かった。


 江戸でも有数の老舗の主人が殺され、その下手人が、こともあらうに女将である可能性が高い。しかも、その女将は気がふれている上に、日本でも最高位の医者が女将を見逃せと、幕府も巻き込んで圧力をかけようとしている。


 この注目度も複雑さも並みではなく、更には政治力も絡んだ事件を自分が担当している。そう意識するだけで胃がキリキリと痛む思いだった。


 だが、最後の仕上げとなる聞き込みを奉行が行うのであれば、あとは、奉行に任せれば良い。それを持って、奉行が今後の処置を判断するのだから。


 これで実質自分の手を離れた、という感覚があった。今夜の酒は、相当美味いに違いない。まだ昼前ではあったが、期待感が高まった。


 頑張れば、相応の褒美が用意されているものだ。


「帰ったぞ」

 玄関でそう言うと、下女が顔を出して声をあげた。

「奥様、旦那様がお帰りです」


 妻の美乃が驚いた顔をしながら出て来た。

「あら、これはお早いお帰りですね。如何致しましたか、まさか御役御免ではないでしょうね」


 神宮が苦笑いをした。

「そんな事はない。早く帰っただけだ」


 居間に入り、美乃の手を借りて着替えをする。

「明日から路頭に迷うのかという思いも、チラリと過ぎりましたよ」

「まさか・・」


 羽織と袴を脱いで座ると、美乃がマジマジと神宮を見る。

「体の具合が悪いとかでもないですよね」

「いや、この通り大丈夫」


 神宮が両手を広げると美乃が頷く。

「それだけが取り柄ですからね」

「・・・」


 美乃は神宮が脱いだ着物を片付けながら顔を向けた。

「でも、今日は確か、例の殺しのあった呉服屋に行くのではなかったのですか」

「その予定だったが、奉行が色々聞きたい事があるからと、自ら行かれた」


 美乃が横を向いてボソッと呟く。

「役立たずには任せておけないから自分でやるとは、さすがに言えないわねぇ」

「・・・」


 晩酌へ向け膨らんでいた期待が萎む。

 頑張ったからといって必ず報われるという訳ではない、のかも知れない。


 何処かで猫が鳴いている。


 大松屋では番頭の末吉が忙しく立ち回っている。

 あの日良庵が語ったように、お松の呆けの症状も、奉行所はお松が良蔵を殺したと疑っていることも、日々、お松の様子を注意深く見て、役人に呼ばれた奉公人等の話を聞くにつけ、間違いないという思いを強くしていた。


 こうなったからには、番頭として、自分が腹を括るしかない。


 どのような状況になろうとも、大松屋と、店の象徴であるお松を守りたい。だが、どうすれば良いかという答えを、まだ見出せてはいない。


 店先で騒声がする。


 お松の叫び声だ。今日は店構えの改築のために、朝から大工が仕事を行っていた。

 末吉は急ぎが現場に向かった。


「此処はね、のれんをくぐった客が最初に目にする場所なのよ。そうでしょ」

「・・はい、確かに・・」

「だから、こんな作りじゃ駄目なのよ。もっと明るくしないと、何度言ったら分かるの」

「しかし・・」


 大工の棟梁が困った顔をしている。大工たちも店の者も、通行人たちまで二人を遠巻きにして見つめている。


 末吉が間に入った。


「女将さん、どうなさいました」

「ああ、末吉、この棟梁の・・、棟梁の・・、ええと・・」

「甚之助親分です」

「そう、甚之助がいう事を聞いてくれないのよ」


 甚之助が首を振った。

「ちょっと待ってください。そうじゃありません。この構造からすると、これが最大に広げた入り口になります。これ以上は無理です。それは前から言っていましたよね。女将さんも了解していました」


 お松が首を振る。

「だって暗いじゃないの、こんな天気の日でも、ほら、見てみなさいよ」


 末吉がお松の肩に手をかけて落ち着くように促した。

「分かりました、女将さん落ち着いてください、私が話します。大丈夫ですよ、店を明るくします。ですから、少し休んでいてください。大丈夫です、明るくします」


 目が虚気味で興奮し肩で息をしていたお松が、お美津に付き添われて店の中に入って行った。


 それを見届けて、末吉が甚之助を見た。

「すまんな、親分。勘弁してくれ」


 甚之助が苦笑いをする。

「いや、辛いのは、俺なんかよりあんただろう」


 末吉が軽く首を振った。

「まあ、そうは言っても、女将さんの気持ちもわかる。何か、もっと明かりが入る方法はないものかな」


 甚之助が、しばらく店を見ながら考えていた。


「そうだな、入り口の上に、明かり取りの窓は付けられるだろう。窓なら、結構広く取れる。今より数倍の光は入ると思う。それほど手間もかからない」


 末吉が安堵したとばかりに頷いた。

「それでお願いする。女将さんは、俺が説得する」


 甚之助が頷いて、大工の面々に指示を出し、仕事が開始された。


 店の者も中に入って、通行人たちも去って行った。


 一人残った末吉は、大工たちの仕事をする様子を見ながら、気持ちを落ち着かせようと深呼吸した。


 新装開店まであと三日と迫っている。


 此処に至っては、とにかく、無事に新装開店の日を迎えたいという気持ちになっていた。何としても、まずはお松の夢を叶えてやりたかった。


 病気のことも、役人の動きも、自分にはどうしようも無い。


 しかし、大松屋の新装開店についてだけは、自分の裁量でどうにか出来ると思えた。番頭として頑張れば、上手く立ち回れば、お松の夢を、悲願を達成させることが出来るだろう。是非そうしたい。いや、そうしなければならない。


「あと三日、何としても耐えなければ」


 そう自分に言い聞かせ店に入ろうとして、人の気配を感じた。


 振り返ると、大柄な役人風の武士が立っていた。頼方である。


「奉行所の者だ。少し、話を聞かせてもらいたい」


 末吉は血の気が引いた。遂に来たか、と思った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ