十三
「おい、あるる、今日は俺が大松屋に行く」
神宮が大松屋に聞き込みに行こうとして、頼方に挨拶しようと奉行部屋に顔を出した途端にそう言われた。
「はあ・・、今日は奉行自ら行かれますか・・」
頼方が身支度をしながら頷いた。
「うん。やはり、自分の目で女将の様子も見てみたいし、事情を詳しく知る番頭にも少し話を聞きたいと思ってなぁ」
「では、私もお供します」
「いや、一人で行く。大勢でいくと向こうも身構えるだろう」
頼方が部屋を出て出口に向かって歩いたが、ふと立ち止まり、振り返った。
「そうだ、お前、此処のところこの事件に関わって忙しかっただろう。少し休め。今日は家でゆっくりしろ」
「はい、ありがとうございます・・」
神宮に、肩の荷が下りたような安堵感が満ちて来た。
確かに、此処のところは気が休まる事は無かった。その重圧も半端では無かった。
江戸でも有数の老舗の主人が殺され、その下手人が、こともあらうに女将である可能性が高い。しかも、その女将は気がふれている上に、日本でも最高位の医者が女将を見逃せと、幕府も巻き込んで圧力をかけようとしている。
この注目度も複雑さも並みではなく、更には政治力も絡んだ事件を自分が担当している。そう意識するだけで胃がキリキリと痛む思いだった。
だが、最後の仕上げとなる聞き込みを奉行が行うのであれば、あとは、奉行に任せれば良い。それを持って、奉行が今後の処置を判断するのだから。
これで実質自分の手を離れた、という感覚があった。今夜の酒は、相当美味いに違いない。まだ昼前ではあったが、期待感が高まった。
頑張れば、相応の褒美が用意されているものだ。
「帰ったぞ」
玄関でそう言うと、下女が顔を出して声をあげた。
「奥様、旦那様がお帰りです」
妻の美乃が驚いた顔をしながら出て来た。
「あら、これはお早いお帰りですね。如何致しましたか、まさか御役御免ではないでしょうね」
神宮が苦笑いをした。
「そんな事はない。早く帰っただけだ」
居間に入り、美乃の手を借りて着替えをする。
「明日から路頭に迷うのかという思いも、チラリと過ぎりましたよ」
「まさか・・」
羽織と袴を脱いで座ると、美乃がマジマジと神宮を見る。
「体の具合が悪いとかでもないですよね」
「いや、この通り大丈夫」
神宮が両手を広げると美乃が頷く。
「それだけが取り柄ですからね」
「・・・」
美乃は神宮が脱いだ着物を片付けながら顔を向けた。
「でも、今日は確か、例の殺しのあった呉服屋に行くのではなかったのですか」
「その予定だったが、奉行が色々聞きたい事があるからと、自ら行かれた」
美乃が横を向いてボソッと呟く。
「役立たずには任せておけないから自分でやるとは、さすがに言えないわねぇ」
「・・・」
晩酌へ向け膨らんでいた期待が萎む。
頑張ったからといって必ず報われるという訳ではない、のかも知れない。
何処かで猫が鳴いている。
大松屋では番頭の末吉が忙しく立ち回っている。
あの日良庵が語ったように、お松の呆けの症状も、奉行所はお松が良蔵を殺したと疑っていることも、日々、お松の様子を注意深く見て、役人に呼ばれた奉公人等の話を聞くにつけ、間違いないという思いを強くしていた。
こうなったからには、番頭として、自分が腹を括るしかない。
どのような状況になろうとも、大松屋と、店の象徴であるお松を守りたい。だが、どうすれば良いかという答えを、まだ見出せてはいない。
店先で騒声がする。
お松の叫び声だ。今日は店構えの改築のために、朝から大工が仕事を行っていた。
末吉は急ぎが現場に向かった。
「此処はね、のれんをくぐった客が最初に目にする場所なのよ。そうでしょ」
「・・はい、確かに・・」
「だから、こんな作りじゃ駄目なのよ。もっと明るくしないと、何度言ったら分かるの」
「しかし・・」
大工の棟梁が困った顔をしている。大工たちも店の者も、通行人たちまで二人を遠巻きにして見つめている。
末吉が間に入った。
「女将さん、どうなさいました」
「ああ、末吉、この棟梁の・・、棟梁の・・、ええと・・」
「甚之助親分です」
「そう、甚之助がいう事を聞いてくれないのよ」
甚之助が首を振った。
「ちょっと待ってください。そうじゃありません。この構造からすると、これが最大に広げた入り口になります。これ以上は無理です。それは前から言っていましたよね。女将さんも了解していました」
お松が首を振る。
「だって暗いじゃないの、こんな天気の日でも、ほら、見てみなさいよ」
末吉がお松の肩に手をかけて落ち着くように促した。
「分かりました、女将さん落ち着いてください、私が話します。大丈夫ですよ、店を明るくします。ですから、少し休んでいてください。大丈夫です、明るくします」
目が虚気味で興奮し肩で息をしていたお松が、お美津に付き添われて店の中に入って行った。
それを見届けて、末吉が甚之助を見た。
「すまんな、親分。勘弁してくれ」
甚之助が苦笑いをする。
「いや、辛いのは、俺なんかよりあんただろう」
末吉が軽く首を振った。
「まあ、そうは言っても、女将さんの気持ちもわかる。何か、もっと明かりが入る方法はないものかな」
甚之助が、しばらく店を見ながら考えていた。
「そうだな、入り口の上に、明かり取りの窓は付けられるだろう。窓なら、結構広く取れる。今より数倍の光は入ると思う。それほど手間もかからない」
末吉が安堵したとばかりに頷いた。
「それでお願いする。女将さんは、俺が説得する」
甚之助が頷いて、大工の面々に指示を出し、仕事が開始された。
店の者も中に入って、通行人たちも去って行った。
一人残った末吉は、大工たちの仕事をする様子を見ながら、気持ちを落ち着かせようと深呼吸した。
新装開店まであと三日と迫っている。
此処に至っては、とにかく、無事に新装開店の日を迎えたいという気持ちになっていた。何としても、まずはお松の夢を叶えてやりたかった。
病気のことも、役人の動きも、自分にはどうしようも無い。
しかし、大松屋の新装開店についてだけは、自分の裁量でどうにか出来ると思えた。番頭として頑張れば、上手く立ち回れば、お松の夢を、悲願を達成させることが出来るだろう。是非そうしたい。いや、そうしなければならない。
「あと三日、何としても耐えなければ」
そう自分に言い聞かせ店に入ろうとして、人の気配を感じた。
振り返ると、大柄な役人風の武士が立っていた。頼方である。
「奉行所の者だ。少し、話を聞かせてもらいたい」
末吉は血の気が引いた。遂に来たか、と思った。