十二
頼方と小川はしばらく無言で、睨み合いながら酒を飲んでいたが、小川の表情が徐々に和らいで来た。
「少し落ち着いて来たな」
小川が満足そうに頷いた。
「今日は朝から色々とあってなぁ。重病人や大怪我の者が次々と運び込まれるは、気の触れた患者が逃げ出すわで、一日中気が抜けず、飯も食べる時間が無かったほどだ。神経が昂って仕方がなかった」
それを受けるように、頼方も肩の力を抜くようにフウと息を吐き、徐に徳利を持って小川に差し出した。
「それはご苦労な事ですなぁ、まあ、ゆっくりしてくだされ」
小川が頷いた。
「かたじけない」
緊張した面持ちで二人を見ていたお真美も安堵の表情になる。
「先ほどから怖い顔をされていたのは、そのせいだったのですか」
小川が顎髭を触りながらチラリとお真美を見た。
「そうだ」
お真美が微笑みながら小川を見た。
「てっきり、お松さんとやらの事で喧嘩を売りに来たのかと思いましたよ。ちょうど奉行とその話をしていましたので」
小川は猪口を置いて、今度は料理に手を伸ばす。
「その事も、勿論ある。だが、その前に、少し腹ごしらえをさせてくれ」
頼政が上体を起こし、気が抜けたような眼で小川を見ながら軽く首を振る。
「どうぞ、好きなだけ。私は逃げも隠れもしませんので」
小川が満足そうに頷く。
「まあ、食べながらでも話が出来るか、うん。端的に言う。藤村からも聞いたと思うが、患者の、つまり女将の症状からすると、かなり危険な状況になっている」
「危険とは、狂人や廃人になるという事か」
頼方が身を乗り出すと、小川が口をもぐもぐさせながらも、更に料理を口に運ぶ。
「そう。もっと言えば・・、そうだな、例えるなら、覆水盆に返らずというが、今の女将は、ちょっとした刺激で盆がひっくり返りそうな状況だ」
藤村が口を挟む。
「良蔵は治療のために女将を療養所に連れて行こうとしたが、女将は自分を店から追い出そうとしていると受け取った。それだけで、その程度で良蔵を殺そうと思うほどに、極端なほど思考が過激になっている。これほど症状が進んでいれば、ちょっとした事でも一線を超えかねない状況だ。一線を超える、つまり、人として終わる」
小川が口を動かしながら頷いた。
「此処にくる前に、掛かりつけ医者の良庵の話も聞いて来た。間違いない。今の女将はそういう状況だ」
頼方が小川を見ながら、グイッと酒を飲んだ。
「我らの調べでも、最近の女将の言動は普通ではないと見て取れる節はある。精神的な面の問題であることも間違いなさそうだ。そうであれば、仮に我らが女将を見逃したとしても、症状が進み、いずれそうなるのではないのか」
小川が首を振った。
「そうとも限らない。神経が過敏なのだから刺激を与えなければ良い。出来るだけ心に負担を感じないように、周囲が女将に合わせて言う事を聞いて、穏やかに過ごさせれば症状の進行を遅らせる事が出来る」
藤村が頷く。
「要するに、わがままな呆け老人に対応するようなものだ。騙しだまし、言う事を聞いて穏便にすませるのだ」
小川は相変わらず手と口を動かしている。
「そうすれば、症状を進ませないどころか、快復に向かう場合もある。療養所の患者でも快復した例はいくらでもある。それと、薬も有効な場合がある」
お真美が小川に徳利を差し出す。
「呆けに効く薬などあるのですか」
小川が注がれた酒を半分ほど口にして猪口を置き、また料理に手を伸ばす。
「呆けに効くというよりも、過敏になっている精神を安定させるような、気持ちを落ち着かせる薬などだ。そう、例えばこれだ」
小川が、お真美が持った徳利を指差した。
「さっきまで爆発しそうだった俺の気持ちを、落ち着かせてくれた」
「なるほど、酒に感謝だな。俺も毎晩お世話になっているよ。こう見えても、結構気苦労があってなぁ」
頼方がそう言ってニヤリとすると、小川も微笑む。
「お主、見たところ、世間の評判とはかなり違うな」
頼方が上体を起こした。
「ほう、どんな評判だ」
「あの国定忠治に死罪を申し渡した鬼の奉行という評判だ。殊の外役人の権威を強調する様な奴だと。俺も、相当高圧的で、人を見下す最低な野郎だろうと思っていた。だが、会ってみたら違っていた。何と、酒好きの、話の分かる役人ではないか」
頼方が首を振った。
「ちょっと待て。俺は女将を見逃すとは言っていないぞ」
小川が猪口を手にして、残っていた酒をグイッと飲み干した。
「うむ。だが、少なくとも、俺と藤村の話は聞いてくれた。しかも、よく見かける木端役人の様な威張り腐って聞く耳を持たない、という態度でもない」
小川が穏やかな表情で箸を置いた。
「お縄にするかしないは、奉行であるお主の権限だ。そこに、首を突っ込むつもりなどない。俺は医者の立場から、患者の症状を説明し、更に、患者のためにはどうした方が良いかを言った。あとは、そっちで決めてくれ」
頼方が徳利を差し出した。
「その患者である女将をお縄にさせないために、我らに圧力をかけるよう、幕府のお偉いさん等を動かすようなことはしないのか」
小川が酒はもういいという様に右手を出して断った。
「虎の威を借る狐のような、野暮な事はしない」
「なるほど、さすがに名医と言われるだけのことはあるな」
頼方がそう言いながらチラリと藤村を見ると、藤村は顔を伏せて肩をすぼめた。
小川が立ち上がった。
「馳走になった。勘定はそっち持ちで良いかな」
お真美が手を振りながら立ち上がった。
「良いのですよ、気になさらないでください。高名なお医者様から、この程度でお金など受け取れませんよ」
小川が頷いた。
「かたじけない」
小川が視線を頼方に向けた。
「まあ、それぞれの立場がある。俺は医者の立場で、世のため民のために出来るだけの事をする。お主も、奉行という立場でそうしているのだろう。それで、少しでも世の中が良くなれば、お互い頑張った甲斐があるというものだろうな」
小川が背を向けて去っていった。藤村が慌ててその後を追う。
お真美が羨望の眼差しで、気が抜けたように呆然と小川の後ろ姿を見つめる。
「小川先生って素敵ねぇ・・」
頼方がチラリとお真美を見て、寂しそうに手酌で酒を飲む。
何処かで猫が鳴いている。