十一
奉行所の詮議の間では、医師の酢天狗こと藤村が、赤髭こと小川との話の内容を語っていた。頼方をはじめとして、成瀬、神宮そして間部瀬が聞いている。
頼方が難しい顔をして腕を組んだ。
「そうは言ってもなぁ、気が触れたから殺しを大目に見る、とは流石にいかないだろう」
成瀬が頷いた。
「それを認めたら、殺しの下手人らが、皆、自分は気が触れたと言い出すに違いない」
藤村が首を振った。
「無罪放免にしろという意味では無い。今の女将の状況では、役人が乗り込んでお縄にでもしたら、それこそ症状が最悪になる。完全に狂人とか廃人になってしまう。だから、女将の症状を考慮して欲しいのだ」
成瀬が首をひねった。
「罪を犯す者は誰であれ皆それなりの事情を抱えている。女将にだけ配慮する訳にはいかない」
「この頭の硬い役人どもめ」
藤村が成瀬を睨むと成瀬も睨み返す。険悪な雰囲気になった。
「あのう・・」
間部瀬が口を挟む。
「女将さんがお縄になったら狂人になってしまうということは、まだ狂人じゃ無いということでしょうか」
藤村がポカンと口を開け間部瀬を見た。成瀬も力なく微笑む。
場が和む。
「そうだよ、狂人の一歩手前だ。お縄をきっかけに狂人になるから、待ってくれと言っているのだよ」
藤村が子供を諭すような口調で言うと、頼方が腕組みを解いて、ゴホンと咳払いをした。
「まあ、先生方の意見は承った。だが、捕らえるか否かは我ら奉行所の決めること。殺しの容疑が確実となれば、当然ながら、決まり通りの対応となる」
藤村が頼方を向いた。
「その容疑は、確実となっているのか。いつか、俺が推理した話だけが頼りでは無いのか」
神宮が身を乗り出した。
「確実と思っています。まず、犯行に使った鋭利な包丁は、神田の老舗の包丁屋の物と判明しました。店の話から大松屋の調理人が買ったことは間違いありません。店の調理場を見ましたが同じ包丁があり、そこのものを使ったと思われます」
「使ったのは女将ではないかも知れないだろうが」
藤村が睨みつけると、神宮が体を引いた。
「あ、まあ、そうですが・・、そ、それと女将の着物です。良蔵の血が付いていた着物を調べたところ、裾にわずかですが砂や枯れ葉が付着していました。足袋も同様です。女将は庭に出た訳です。包丁を捨てて、賊の犯行と見せかけるように裏木戸を開けるため、と思われます」
成瀬が頷きながら藤村を見た。
「大松屋の奉公人たちの証言もある。断片的ではあるものの、あの日、お松が「殺してやる」とか「私を牢屋に入れようとしている」などと呟くのを、数名の奉公人が聞いていた」
頼方が上体を起こしながら、渋い顔をした。
「あとは殺す理由というところだったが、それを、今あんたが説明してくれた」
藤村が顔を真っ赤にして立ち上がった。
「勝手にしろ、この役人ども」
頼政を睨みつけた。
「おい奉行、俺はこんりんざい、お前とは付き合わないからな。それから、赤髭先生がどう出るかも覚悟しろよ。あの先生はなぁ、幕府のお偉方にも顔が効く。先生の一言で老中連中まで動かせるほどだ。先生の怒りを買って、あとで後悔しても知らんぞ」
藤村が勢いよく襖を開けて、ドカドカと足音を響かせて帰って行った。
成瀬がやれやれという顔をして、間部瀬に襖を閉めるように指示し、頼方を見た。
「厄介なことになりましたな。確かに、小川先生にはそれだけの力はありますよ。幕府が肝煎で頼んだ先生ですから、先生に言われたら、幕府とて多少の事では断れないでしょう」
頼方が頷く。
「まあ、そうなったらそうなったで、仕方が無い。だが、今は、我らの道理で行くしかない。医者連中に脅かされたので止めました、という訳にはいかない」
成瀬が神宮を見た。
「この後の段取りはどうなっている」
神宮が緊張した顔で姿勢を正した。
「はい、最後に、番頭の末吉に話を聞いて、女将の犯行となる裏付けを取ります。我らの推察通りの話が聞ければ、間違いないと結論付けます」
「あのう、そうするとですね・・」
間部瀬が口を挟もうとすると、成瀬が右手を上げて遮った。
「良い、分かった、今、お前は黙っておれ」
「はあ・・」
間部瀬がポカンと口を開ける。
何処かで猫が鳴いている。
頼方はお真美の茶屋に向かった。
確かに、小川や藤村の言い分も理解は出来た。しかし、お松が呆けているという確証を、単に医者の意見に依ることには抵抗があった。こうした事案においては、医者の言いなりに成りかねない危険性を孕むことになる。
更に、仮に呆けが本当だったとしても、それを持って、お縄にしないことが道理に適っているのかという疑問だ。
迷路に入ったようなどんよりした気持ちになり、お真美の意見が聞きたくなった。
「そりゃあ、考慮するのが人情ってもんじゃないの」
「しかし、女将は療養所に行きたく無いというだけで人を殺しているのだぞ」
「分かっていないのねぇ、頭の硬い役人は」
お真美が頼方に酒を注ぎながら首を振った。
「仮によ、そのお松さんが、旦那から身に覚えのない濡れ衣を着せられ店から追い出されそうになり、抵抗して旦那を殺めたら、その気持ちは酌量するでしょうが」
「それはそうだ。身に覚えのない濡れ衣だからな」
お真美が手酌で酒を注ぎ、グイッと飲み干した。
「同じことでしょ。お松さんは、自分は病気じゃないと思っているのに、無理矢理療養所に入れられそうになったのだから」
「しかし、既に呆けていると医者が言っている」
お真美が冷めた眼で頼方を見る。
「ふーん、そうなの。あんたは、医者からお前は阿呆だと言われたら、自分は阿呆だと思う訳なの、ふーん」
「いや、まあ、そのぅ・・」
「要するに、常人の思いは斟酌するけど、呆けた人の思いは知らん、と言う訳か。なるほど、それが奉行所の考えか、なるほど、なるほど」
お真美が大げさにゆっくりと何度も頷く。
「ちょっと待て、そういう事ではない。そういう事では無いのだが・・」
頼方が首をひねって考え込んだ。
お真美が徳利を差し出す。頼方が猪口を持つと、お真美が酒を注いだ。
「病気の者には、余計に気を使うべきでしょ。普通じゃないのだから。しかも、呆けているというなら尚更よ。考えてもみなさいよ、赤子や呆け老人は、しようと思って粗相をしている訳じゃ無いのよ」
「確かに・・」
頼方がお真美を見て頷き、酒を口にした。
その時、襖が開いて神宮が顔を出した。
「奉行、お楽しみの所失礼します。藤村医師と小川医師が、お話があると見えられています」
頼方がおっと身構えた。
「何、酢天狗と赤髭が」
藤村が入ってきた。
「付き合わないのは明日からにする。赤髭先生が、あんたと話がしたいと言うので連れて来たよ」
藤村が立ったまま左にずれると、汚れた薄鼠色の木綿の筒袖姿をした、髭面のがっしりとした男が入って来た。
赤髭こと小川笙船である。確かに、髭はやや赤みがかっている。
小川がゆっくりと頼方の前に座り、無言で頼方を睨むと、頼方も睨み返す。
沈黙が続き、場が緊張感に包まれた。
この雰囲気に耐えられない、とばかりに、お真美が二人に目を配りながら腰を上げた。
「あーら、どうしましょう、高名なお医者様がいらしたわぁ。お酒と料理を用意しますね」
何処かで猫が鳴いている。