十
「現実を受け入れて、とにかく、前に進まないといけない。今となっては、番頭さん、大松屋はあなただけが頼りなのだから」
そう言って良庵が帰った。
末吉にとって、厳しい現実を突きつけられた思いだ。お松の病気の事も衝撃だったが、それ以上に、良蔵を殺したのはお松であるかも知れないとの指摘が、末吉の心に重くのしかかっていた。
まさか、そんな事は有り得ない、と思いたい気持ちを、良庵の説得力がある言葉が打ち砕いてしまっていた。
確かに、奉行所の役人が何度も訪れては店の者に話を聞いていた。末吉も色々と事情を聞かれはしたが、盗みや強盗の仕業と思っているにしては、何か様子がおかしいとも感じてはいた。
「やはり、奉行所は、女将さんを疑っているのか・・」
その時、襖が開いて、奉公人のお美津が顔を出した。
「番頭さん、女将さんが戻りました」
お美津は女将付きの奉公人で、お松の身の回りの世話や出掛ける時の付き添いを担っている。今日も一緒に問屋の山月屋まで出掛けていた。
「そうか、ご苦労さんだったな」
お美津が襖を閉めようとするのを末吉が止めた。
「ちょっと話がある。中に入ってくれ」
お美津が部屋に入り襖を閉めた。
「今、女将さんは何をしている」
「部屋で休まれています。お茶は入れて差し上げました」
末吉がお美津に顔を近付けて声を潜めた。
「それで、女将さんの様子はどうだ、何か変わった事はなかったか」
お美津がキョトンとした。
「はあ・・変わった事とは・・」
「その・・何か、女将さんの言葉や態度が・・穏やかじゃないとか・・」
お美津が頷いた。
「そうですね、穏やかじゃないといえば、今日も山月屋さんと言い争いにはなりました。反物の色の事です。女将さんが、こんな色は頼んでいないと怒り出したのです」
「そうか・・」
「でも、最近は、こういう事はよくありましたよ。女将さん、ここのところ何だかカリカリしていて。問屋さんとの揉め事もそうですが、私もちょっとした事で叱られています」
良庵の言葉を裏付ける証言に感じた。やはり、という思いだ。
「うむ、苦労をかけるな。辛抱してくれ」
お美津が微笑みながら頷いた。
「私、女将さんに憧れているので、気になりません」
末吉がまた声を潜めた。
「それともう一つ。この前役人が来て、お前も色々と聞かれただろう」
「はい」
「何を聞かれた」
お美津が首を傾げて少し考えた。
「そうですね、ほとんどが女将さんの事でした」
「と、いうと」
「女将さんが、いつ、何をしていたかとか、何と言っていたかとかです」
「そうか・・」
奉行所の意図がはっきりと感じられた。やはり、お松を疑っているのだ。そして、その裏付けを取ろうとしているのだ。間違いない。
お美津が部屋を出て行った。
末吉は、良庵から言われた事を思っていた。
現実を受け入れ前に進まなければいけない。やはり、今の大松屋は自分が何とかするしかないのだ。ここは、腹を括るしかない。
では、どうするか。
末吉が奉公を始めた頃が、あるいは、大松屋の最盛期だったのかもしれない。
先代の松蔵が健在で、その意図を汲んで番頭の良蔵が商売に係る細部を差配していた。
そこに、お松の華やかな容姿と斬新な感性とが加わり、店はあっという間に世間の注目の的となった。
客がひっきりなしに出入りし、品物が飛ぶように売れ、店の誰もが昂揚した。
必然として、お松が大松屋の象徴となった。
末吉ら若い奉公人にとって、店の「顔」となったお松は憧れの存在であり、間近にその姿を見るだけでも幸せを感じた。この店で働いているというのが誇りでもあった。
誰がお松の心を射止めるのだろう。
縁談話が出始めると、奉公人たちの興味はお松の相手が誰になるかに集中する。当然ながら婿を迎えるのだが、どんな男が来ても、若旦那とはいえ素直に仕えることなど出来そうに無いほど、奉公人等のお松に寄せる思いは強かった。
末吉にしても、夜、床には入ったものの、店に来た問屋や取引先の若旦那の顔が思い浮かび、もんもんとして眠れないことが一度や二度ではなかった。
そのような周囲の思いを知ってか知らでか、お松は婿取りよりも商売とばかりに、呉服や反物に対する熱意は増す一方で、縁談には気が乗らない態度ではぐらかすことが多く、話はまとまらなかった。
さすがに老舗の大店の婿取りとなれば誰でも良いという訳にはいかず、相手はそれなりの商人の跡取りではない若旦那に限定され、次第に縁談話も少なくなって行く。
やがて松蔵が病に倒れる。
「誰でも良いから、私を安心させてくれ」
お松も三十路を迎えていた。
若い頃に思いを寄せた男も何人かいたようだが、既に選択肢は限られていた。しかも、松蔵亡き後の店を仕切ることが出来る男でなければならない。
お松は番頭の良蔵を選んだ。
店の誰もが驚いた。末吉も想像すらしていなかったが、今後の店のことを考えた場合には、最良の選択のような安心感も覚えた。
末吉にも大きな転機が訪れる。良蔵の後任の番頭に抜擢されたのだ。
主人を支え商売を差配する良蔵を間近に見ながら、自分もいつかはああなりたいと、人知れず研鑽も積んで来ていただけに、この決断に感謝しつつ、良蔵は人を見る眼も持ち合わせているのかと感心した。
更に、お松の推薦もあったと聞き、二人への敬服の思いを新たにする。
だが、この頃から店の売上が減少して行く。
良蔵は、しばらくは静観していたものの、その動きが顕著になると、迷わずに呉服以外の部門を拡大して行く。関連の商品や小間物の販売だけでなく染物や仕立てという分野にまで手を広げて行く。末吉にも大胆な経営方針の転換と思えた。
大松屋は呉服屋をやめたのか、などと揶揄する声もあったが、やがて呉服以外の部門が軌道に乗り出し、店は持ち直し活気が戻ってきた。
帳簿を預かる末吉にも、日々伸びて行く売上は手応えを感じるまでになり、気付けば店の最盛期の頃と何ら遜色がないほどになっていた。
一時は、このまま先細りして行くのではないかという、どんよりとした不安に支配されていた店の雰囲気も、明るい期待に満ちた安堵感に包まれて行った。
だが、唯一お松が仕切る呉服部門だけは、大松屋の新たな発展から取り残されていた。売上は伸びずに赤字が続く状況だった。
良蔵も呉服部門の打開策を色々と提案していたが、お松は、あくまでも昔のままのやり方に執着しているように感じられた。末吉も店の皆も、もどかしい気持ちでお松を見ていた。
確かに、店の売上や儲けは最盛期の頃に匹敵する規模にはなっている。
だが、あの、世間を賑わせて注目を集めていた頃の輝きは無く、華やかな衣装や斬新な柄を提供する店として常に女たちの話題に上ったような、呉服屋界隈の中心的存在として世間の目を引き付けるような、眩しいほどの存在感は消えていた。
そこに、一抹の寂しさが無いと言えば嘘になる。末吉だけでなく昔を知る店の誰もが、あの頃に郷愁の思いを持ち続けていることも確かだ。
ましてや、その象徴だったお松ならば尚更だろう。
そう思ったとき、お松の、昔のやり方や呉服への愛着、そして、新装開店への思いが理解出来た。
末吉の胸に、同情を含んだ切なさが込み上げてきた。