001_妖精とお勉強
マーズ・ランスターが転生したのは約一年前のこと。
ジュラの大森林、妖精保護特区にて、マーズはユニークスキルの享受と若干の若返りを叶え、この世界で人間と呼ばれる種族に転生を果たした。
妖精保護特区とは、保護対象である妖精が多く存在し、一部の冒険者や要人以外の立ち入りが禁止されている場所である。
妖精は魔素の塊のようなものであるため、妖精が多く存在するということは、それだけその場所の魔素濃度が高いことを意味している。
もちろん、魔素濃度の高い場所は他の魔物も多いということで……。
転生者マーズ・ランスターは、大蛇うごめく樹海のど真ん中に一人眠っていた。
――ん、なんだこれ……。
小さな違和感で意識だけが僅かに覚醒する。
まぶたは重い。
どうせ夢でも見ているのだろうと、朦朧とした自意識が冷静に自己分析する。
しかし、彼が体を預けていたはずのベッドと枕は、どこか湿っている感じがするし、そもそもいつもは下着で寝ているはずなのに色々と着込んでいる感覚がある。
カーテンも閉めたはずなのにまぶた越しの光がやたらと眩しいし、外のいい匂いがするし……、とぼんやり思っていたところで、急に外の世界が暗くなった。
再び夢の世界へ落ちていく。
――人間が得る情報の8割が視覚というのは本当だったんだな~。
夢と現の境界を跨ぎかけた時だった。
ボタタタタ…………。
――え、なんだ?めっちゃ臭いんだけど!
時に視覚よりも聴覚や嗅覚のほうが、身を守るという点では有益な情報を与えてくれるものだ。
異常な音と臭いに目を開いたマーズの視界に映っていたのは、今まさに自分を飲み込もうとしている大蛇の顔面だった!
――どわあああああああああ!!!!
なんとか大声で叫びたい気持ちを本能でセーブできたものの、マーズはここからどうすればいいか本気で分からない。
昨日まで、弱肉強食という自然界の原理原則から切り離された現代社会で、ぬくぬくと30年余生きてきた。
そんな彼が、ある日突然野生の檻の中に放り投げられたのである、一体何ができるというのか。
――やべえ、体が動かん……。てかこれ夢じゃないのか……?
蛇に見込まれた蛙とはこのことだ。
しかし、あまりにも日常とかけ離れた光景に魅入られたマーズには、恐怖で腰が抜けたのか、本当にただ夢を見ているのか、判断ができなかった。
釘付けになったマーズを頭から飲み込もうと、大蛇はじっとマーズを見つめ、マーズに覚られない程度の速度でゆっくりとにじり寄っている。
このままでは食われるまであと数秒といったところだろう。
とはいえ、少しでも動いたら即食われてしまうと、マーズの本能は告げている。
永遠とも思える数秒間、紛れもなくマーズは死の淵に立たされていた。
その時。
「こっちだよ~! 青年!」
遠くから、誰かの声がした。
そして、声が届くとほぼ同時、目の前の大蛇が真横に吹き飛ばされ、大樹に叩きつけられた。
自身が捕食する側からされる側となったことを悟った大蛇は、目をみはる速度で森の奥に逃げていく。
「だ、誰かいるのか!?」
声のした方角に呼びかけても誰もいない。
なんとか立ち上がり周りを見渡すと、先程の声は今度はマーズの耳元から聞こえてきた。
「君、転生者だね?」
「うぉっ!!」
「しっしっし、飛び跳ねる元気はあるってわけね。じゃあさっきのは単純にビビって動けてなかっただけか~!」
そう言うと、薄緑に発光した小さな生き物が、マーズの眼前にふわふわと飛んできた。
「え……、妖精……?」
その小さな生き物が体を動かす度、長い薄緑の髪がキラキラと揺れる。
黄金の瞳、左目の下には4つの青い涙のような模様が並んでいた。
身長は十数センチといったところだろうか、絵本の中でしか見たことのないその姿はどう見ても……妖精だった。
「んっふっふ、何も知らない転生者が初めて会うには、ちょ~っと刺激の強い相手だったかな?」
そう言うとその妖精らしき生き物は、右手で頬を覆い体をくねらせてみせた。
マーズはマーズで、リアルの妖精と自分が話していることに軽くショックを受け、両手で軽く頭を抱え妖精を見つめている。
外野から見たら小さな妖精の魅惑のポーズに悩殺されている青年の図に見えるだろう。
「これ……現実なんだよな? ていうか、さっき助けてくれたのは……」
「うん、私よ、わーたーしっ!」
テッサは腕を組んで誇らしげに答えた。
「私の名前、テッサ・シルフっていうの。君は?」
「俺の名前……? あー、すまん、思い出せない……」
「ふーん、ますます転生者っぽいわね。ま、少ししたら思い出すようになるでしょ」
マーズは自分でもどうして目を覚ます前の記憶が思い出せないのか不思議だった。
記憶がない以外はすこぶる快調で、なんとなく、いつもより体調がいい気がするのに、その「いつも」だけが思い出せない。
しかし、この小さい生き物を見た時、それが「絵本で見た妖精」だと分かったのだ。
キーワードを貰えればそれに関連した記憶が戻るかもしれない。
とはいえ、やはり考えても分かることでもないので、テッサの言う通り時間に解決を委ねることとした。
昔から答えの出ないもので悩んだりしないタイプだ。
……また一つ記憶が蘇った。
「すまん、なんとなく時間が経てば記憶が戻る感じはあるんだけど、マジで今はほとんど思い出せないんだ。……しかし、どうして俺のことを助けてくれたんだ?」
「ん~、そうねぇ。今の君に言ってもちんぷんかんぷんだと思うけど、君は魔素濃度がすっごい濃いのよ。だから、魔物にも妖精にもあなたはごちそうに見えるの!」
テッサは大げさに舌なめずりをして見せ、そのままマーズの首の周りをくるくる回りながら続けた。
「さっきこの辺でなんとなく魔素が増えたのを感じたから飛んできたんだけど、そしたら先客が私のごちそうを丸呑みしようとしてたのが見えて、助けてあげたってわけ! ま、ごちそうなんて言ったけど、私はあんたのことを食べようなんて考えてないから、安心して。近くにいるだけで空気が美味しいのよね~」
目の前に現れた普通じゃ考えられないほど大きな蛇、その捕食から守ってくれた妖精、魔素……。
この妖精がもう少し、この状況について納得のいく現実的な話をしてくれるんじゃないかと、マーズは心のどこかで期待していた。
しかし期待とは裏腹に、妖精の言葉は彼の非現実をさらに押し広げていくのだった。
「は、は~なるほど! ……とは、いかんよな……。ん~~~~、魔素……、ですかぁ~~」
しかし、このテッサの話を聞いている間にも、マーズの五感には夢とは思えないほどリアルなこの世界の情報が流れてくる。
どこか遠くから聞こえる鳥のさえずりや不気味な唸り声、青い空には太陽のような明るい恒星が輝き、その光は優しく揺れる木の葉の間をすり抜けて、彼の頬を優しく焦がしている。
また、自分以外の知能を持った生物と話しているという今の状況も、より現実味を引き立てる。
大蛇が消えてから数分、なんとなく状況が整理できてきたマーズは、この世界が今、自分にとってまぎれのない現実であるということを次第に受け入れ始めていた。
「妖精とか魔素とか、まだ状況が完全に把握できてないけど、少なくともこの世界の常識を学ばないとこれ以上は話についていけなそうだ……」
「そうね、どうせだし、それなら私が教えてあげるわよ。そこの木陰で話してあげる。……でもその前に」
そう言うと、テッサはマーズの前に移動し、長い髪をよせて、うなじをマーズに見せた。
そこには、複雑で緻密な幾何学模様の印が刻まれていた。
「人によって大きさや模様は違うけどね……。これは魔素回路って言って、魔素を魔力に変換する時に魔素が通る経路よ。きっとあなたもこれを持っている。見せてくれる?」
そう言われてマーズは自分の首元を触った。
目が冷めてから、初めて自分の体を意識したかもしれない。
寝覚めに感じた違和感通り、やはりマーズは身に覚えのない服を着ていた。
どうやら首を隠してある服のようだった。
首元まで見えるように服を下にずらす。
「これでいいか?」
テッサが首の後ろまで飛び、確認する。
「うおー! すごい。君、結構特殊な魔力特性があるかもね。私、200年ちょい生きてるけど、こんな形見たことないよ! 魔素回路を持っていて魔法が使えることを、この世界では魔法骨格を持ってるって言い方をするんだけど、そもそも人間でそれを持って生まれるなんて、なかなか無いことなのよ?」
「そうなんだ。でも、よく俺の首にその魔素回路? があるって分かったなぁ」
――どんな形なんだろう、話を聞く感じ結構レアっぽいし、すげー気になる……
「まあ、分かるよ。私妖精だし。あと、そもそも回路なしじゃ体に魔素が集まってこないからね。いい? この世は魔素で満ちていて、魔素回路を持つ生き物はその魔素を魔力に変換できるのよ。全身で魔素を吸収して、首の回路で魔力に変換しているの!」
やはりテッサの話は一息では受け止めきれないが、マーズはひとまず彼女の話を最後まで聞いてみることにした。
「ほ~、なるほどね。あと、さっき俺の周りは普通より魔素が濃いって言ってたと思うけど、それは何故なんだ?」
「ん~そうね、あなたが魔素をたくさん吸収する体質なのは間違いなさそうだし、そのせいで周りの魔素が増えているんだろうけど、今のこの世界の文明じゃ魔素吸収の原理は分かってないから、そこについてはなんとも言えないって感じかしら」
テッサはマーズの肩に腰掛け続ける。
「魔素を吸収できる生き物は、たえず体や体毛の表面で空気中の魔素を吸収しようとしているんだけど、普通は代謝で失われる魔力と吸収する魔素が釣り合ってるものなのよ。例外として、魔法を使うために一時的に魔素の消費を増やしたら、それに追従するように魔素吸収量は多少増えるけどね」
「ただあなたの場合、特に魔法を発動しようとしていなくても、代謝で失われるよりも多くの魔素を吸収しようとしている。それってすごいことで、魔法を強化する時、出力側を努力でなんとかできる場合は多いけど、元々の魔素吸収効率の改善は今のところ原因がわかってないから、後天的に増やすことはできないのよ!」
スラスラと耳元で話をするテッサに、マーズはとても関心していた。
急に専門的な話になってきたが、それでもこんなにスラスラ説明できるのは妖精が魔法の扱いに長けているからなのだろうか?
それともこの世界の一般常識?
だが何れにせよ、自分が魔法を使えるようになっているなんて実感は、未だに湧かない。
「ふーん、まあ特殊体質ってことか。じゃあ俺の体は今空気中の魔素を余分に吸収してその辺に捨てているのか?」
「あはは、結構すごいことなんだけど、リアクション軽いねぇ~。ま、君の体についてのイメージは、そんな感じでいいと思うよ! きっと全身で吸収した魔素が首の魔素回路に向かっているのに、そこで変換が行われないから魔素が溢れてるのね。首周りの空気だけ異常なほど魔素が濃いもの。まるで世界樹の周りみたいに!」
「は~、なるほどな」
今度はマーズの頭に乗って話を続けた。
「うんうん! ……で、この世界の常識についてなんだけど、教えてあげる代わりに……、君に私の宿り木になってほしいのね」
「……宿り木??」
――なんだか怪しい響きだ。
「あ~ん、怖い顔しないで。別に君に危害を加えるつもりはないよ! 簡単に言うと、今後私が満足するまで、あなたの周りの魔素をたっぷり吸わせてほしいってことなんだけど~……いいでしょ??」
やはり何か怪しいことを言い出した。
だが正直、このままこの妖精の機嫌をこじらせて帰られてしまっては、明日までにちゃんと死んでいる自信があるので、マーズは条件を飲むしかない。
「満足するまでって、どれくらい……?」
「……君が死ぬまで!!」
その後、テッサ先生の授業は2時間近く続いた。
この世界の生き物は大まかに人間と動物、魔族、魔物の4つに大きく分けられること。
人間と動物はその80%程度が魔素回路を持たず、逆に魔族と魔物は99%が魔素回路を持っていること。
人間の中で魔素回路を持つものは能力者と呼ばれ、国の情勢によっては虐げられたり、エリート扱いされたりと、その扱いが極端に違うこと。
魔族と魔物の違いは知能の差であり、基本的には言葉を話し意思疎通ができるものを魔族と呼ぶこと。
妖精のテッサはそういう意味では魔族にくくられること。
この世界では様々な種族の集落があり、それぞれ隣接する集落同士で不可侵条約を結んで住み分けていること。
自分たちが今いるジュラの大森林は、この妖精保護特区以外にも様々な種族の集落があること。
一番近い人間の集落は、オックス王国という大国であること。
当分は、そのオックス王国の冒険者が正規の方法でこの特区を訪れるのを待ち、その人になんとか人間社会に引っ張ってもらうことを目標とした。
オックス王国は世界で3つの指に入る大国ということもあり、得体のしれない能力者でもなんとか最低限の生活はできると踏んだのだ。
そして最後に、マーズは加勢アキトという、前世の名前を思い出した。
今後この世界の人間社会に自然に溶け込むため、そして前世とのつながりを断ち新たな人生を始める決意表明として、彼は、マーズ・ランスターを名乗ることに決めたのだった。
読んでいただいてありがとうございます。
何度も同じ文章を読んでいると、違和感センサーが働かなくなって矛盾や誤字脱字が防げなくなります
ね……
変なところがあったら早めに修正します。とりあえずUP