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ある事務所の記録

モエギ☆サマー

作者: りんごまん


ドォォォンと、轟音が響いた。

爆風と共に、倉庫内に置かれていた木箱の破片や鉄屑が舞い上がり、同時に倉庫内の人間の上に落ちてくる。舞い上がった物体には、忖度などという言葉は通用しない。倉庫内にいる、その筋の人間と思われる黒服達の上にも、倉庫内にいるタシロの上にも降ってくる。爆風かつ熱風に煽られて、砂埃が舞う。タシロはゴホゴホと咳き込んだ。汗でしめった全身に砂が張り付く感触がした。先ほどまで遠くで聞こえていた蝉の鳴き声は、聞こえない。それどころか何も聞こえない。タシロの耳は爆発音でバカになったようだ。


タシロは今、倉庫にいるが、三度目の拉致拷問体験をしているわけではない。一度目は博多へ向かうコンテナ船のコンテナの中。二度目は新宿のゴージャスだが悪趣味なレストランであった。太ももにアイスピックを刺されるという、映画でしか見たことがないような貴重な体験をすることとなった。


倉庫内のタシロは「うぉぉぉ」とか、「げえぇ」とか叫びながら、頭上から降ってきたコンクリートの塊を避けた。避けられなければ確実に死んでいただろう。俺は味方のはずなのだが、容赦がないとタシロ思った。味方の誰か一人くらいは、よけろと言ってくれてもいいのではないか。


タシロは、手段を問わない何でも屋の、オーナー代行を勤めている。本来のオーナーはニジョウという男で、最近は、ケープタウンにいるらしい。南アフリカでリゾート開発を計画しているとのことだ。

ニジョウは23区内に五階建ての雑居ビルを保有しており、タシロらの住居となっている。

ニジョウは、グローバルに活躍している一方、日本の廃村地の山を購入することもあるらしい。最近も埼玉の廃村にある土地一帯を購入したらしく、オカダが代わりに書類仕事に追われていた。


オーナー代行の仕事は、小さな銀色のノートパソコンにくる依頼のメールを読み、どの案件にするかを決めることだ。意思決定することが仕事とも言える。三人いる従業員は猫より気まぐれで、モチベーションのアップダウンが激しいので、引き受ける案件には緩急が必要だ。ルーチンにならないように。

そして、できれば人に喜ばれる仕事がよかろうと、人助けらしき案件かどうかを短いメール文から読み取り、想像を働かせ、時には検索エンジンに頼り、案件を選択する。


最近は、地味な案件が続いていたことをタシロは気にしていた。武器ブローカーのマダムの救出は、まだ体を動かす機会があったが、警察OBからの依頼や、投資、いや詐欺案件では、あまり従業員の持ち味を活かしきれる案件ではなかった。

すごく簡単にいうと暴れられる案件ではなかった。故に従業員はフラストレーションが溜まり、次第にタシロにぶーたれるようになった。


一番ぶーたれたのは、今しがた、スキンヘッドの頭にドライバーを突き刺したレンだ。柄シャツは、返り血で柄がわからなくなっている。二重の大きな目は爛々と輝いている。鮮やかな身のこなしで、剃り込みのはいった男の顔面に蹴りをくらわすと、次の獲物を探しに倉庫の奥へ走っていった。

レンは「俺のよさが活かせる案件を紹介しろよぉ」と近頃タシロにたびたび文句を言っていた。


二番目にストレスを溜めていたのはライだった。華奢で童顔。大きな黒目と細い顎の美少年だ。ライは勤勉で頭が良いが、時々、思考の迷路にはまってしまうらしい。考え事をする時間が長いほどライの中に構築された迷路は複雑さを増していく。思考をリセットするために建造物や人間を爆破することを好むが、最近は爆破のチャンスに恵まれなかった。

豊洲に竣工したオフィスビルのニュースを見ながら、吹っ飛ばしたいな、と独り言を言っていたのをタシロは聞いた。

そんなライは、倉庫に到着するやいなやハリウッド顔負けの爆弾を仕掛け、さらに今し方手榴弾を数個、ソフトボールを投げるように放り投げた。綺麗な弧を描き、地面に落ちると大きな爆発音が倉庫内に轟いた。


三番目はトモヤである。大きな涙袋が特徴的な金髪の青年である。もしかすると、一番ストレスを溜めていたのはトモヤかもしれない。先の案件では、商談中に突如として、銃を取り出し引き金をひいたとレンが言っていた。

トモヤなりの考慮の結果ではあったとのことだが、「さすがの俺もひいたわぁ」とレンは言っていた。

毒物への知識があり、派手な戦闘は好まないが、最近はボクシングジムに通っている。トレーニングの成果と新しい毒物の実験がしたかったのだろう。

「僕、タシロがサンドバッグに見えてきた」とか、「このジュース飲んでみない?」と言って茶色い液体を差し出したりしてきた。

トモヤも体内に溜まった鬱憤を晴らすかのように生き生きと暴れている。先程まで、黒服に右ストレートをくらわせていたが、銃に切り替えたらしい。拳の保護のためだろうか。トモヤは黒服の心臓を目掛けて、コルト銃の引き金を軽やかにひいた。


とにかくこのままでは、従業員のフラストレーションが溜まり、己の命が危ういと察したタシロは、メールボックスにきていた一番派手そうな案件を選択した。人助けとか良心とか言ってられない。タシロは己の命が惜しい。

結果、北関東を中心とした反社会的勢力の一派、ドウジマ組の殲滅を行うこととなり、茨城県の某地の倉庫で行われる集会に乗り込み、大暴れすることとなったのである。


従業員の生き生きとした表情を見て、これは福利厚生の一環だとタシロは思うことにした。彼らがリフレッシュして通常業務、つまりタシロが好む地味な案件に戻ってくれれば、茨城県への遠征にも価値があると言えるだろう。五十名ほどの黒服は、おおかた片付き、レン、ライ、トモヤは、最後の一人も逃すまいと倉庫の奥へ向かった。

従業員の三名は大した傷を負っていないが、タシロは頭上から降ってくるガラス片や肉片のために、打撲傷や切り傷を負っていた。世の中はいつだって不公平だ。


倉庫の地面は、口に鉄パイプが刺さっている者、これはレンが好むやり方だ。四肢が吹っ飛んだ者、額に穴が開いた者などが転がっていた。黒服が片付きつつあるためか、倉庫内は少しずつ物音が減り、静かになった。


タシロが倉庫奥の三人に合流すると、すでに黒服は肉の塊と化していた。床には口にナイフが刺さっている者、これはやっぱりレンが好むやり方だ。首にぱっくり穴が空いている者などが転がっていた。


「タシロ‥‥」タシロの気配に気づいたレンが尋ねた。声が上ずっている。続けて「こ、これは殺ったらダメなやつだよなぁ?」と聞いた。

トモヤとライも、タシロに目線を向ける。三人は一脚の椅子を囲んでいた。タシロは、「へっ‥‥こ、これって‥‥」と、裏声まじりで戸惑いの声をあげた。

暑さと疲労で、頭がオーバーヒートしそうだ。先程まで、この倉庫には大量の黒服がいた。幹部も子分もいた。倉庫の奥にも黒服はいて、レンらの攻撃を受け、今は床に転がっている。

だが、今タシロの視線の先、レンらが囲んでいた椅子にいたのは、鎖骨までの黒髪が艶々と輝く、ノースリーブの緑色のワンピースを着た女性であった。

倉庫の中は風通しが悪い。タシロらは、汗だくだ。

だが、女性は汗一つかいていなかった。

女性は、手足を椅子に縛られた状態で、ジッとタシロを上目遣いで見つめていた。


◾︎◾︎◾︎

捨て犬を拾った子どもが、母親に叱られるシーンをアニメで見たことがある者は多いだろう。「そんなものを拾ってきて!うちでは飼えないって言ってるでしょう!返してきなさい!」とエプロンを着た母親が怒るのである。

今、タシロらの目の前にいるのは、エプロンを着たオカダという男である。塩顔の好青年。商店街の人気者で、この事務所の料理兼調査担当だ。

タシロらが連れて帰ってきた女性を眺めながら眉をひそめた。

「女性の誘拐は今回のタスクではなかったかと思いますが‥‥」と、オカダは言った。さすがに返してきなさいとは言わなかったものの、戸惑っているようだ。夕飯の支度をしていたのであろう。片手には菜箸を持っている。


「とりあえず、レンさんは着替えてください。その服はもう着られないので、処分を」といい、冷蔵庫から、スプライト、アイスティー、バナナミルクオレを取り出しダイニングテーブルに置いた。

続けて、餃子と、ハンバーガー、ポテトサラダと、ガトーショコラをダイニングテーブルに並べた。作る料理は様々だが、同じタイミングで熱々の状態で出てくるのはこの事務所の七不思議の一つだ。

タシロらは気まずそうに、ダイニングチェアに腰掛け、各々、箸やフォークを手に持った。目一杯、アクティビティを楽しんだので腹は空いている。


「タシロさん、一体、どういうことなんですか」オカダが尋ねる。

「わ、わかんねぇんす。倉庫の奥に女の子がいて、手足が縛られてて、殺すわけにもいかないと思ってとりあえず連れて帰ってきちまいました‥‥」とタシロは答えた。思わず語尾が小さな声になってしまった。


「彼女、記憶喪失かもしれない。車の中でいろいろ質問したけど、名前も、所属も、なぜ倉庫にいたのかも、わからないって言ってた」と、トモヤ。犬のおまわりさんなら困ってしまっただろう。


「年齢は‥‥二十歳前後かなぁ。倉庫内には彼女の持ち物らしきものはなかったよ。吹っ飛ばしちゃったのかもしれないけど。タトゥーとかも、見える範囲にはなかった」と、ライ。


オカダは、女性を皮張りのアンティークソファに触らせると、アイスティーのグラスを手渡した。

「お腹空いてますか?」と尋ねると、女性は、胸に手を当てながら、こくんとうなづいた。

白くて長い手足が、緑色のワンピースに映えるな、とオカダは思った。奥二重の瞳は白目の分量が多く、クールな顔立ちをしている。


オカダは、ダイニングテーブルにご飯とお味噌汁と餃子、サラダを並べると、女性をダイニングチェアに触らせた。女性は、いざ食事を始めるかと思われたが、箸を持たない。

「お嬢さん、箸の持ち方、もしかしてしらねぇ?」とレンが言う。女性は首を横に振る。そして、ライの皿に目をやった。

「‥‥もしかして、ガトーショコラ‥‥食べたいの?」とライが尋ね、手付かずのガトーショコラが乗った皿を女性に渡した。女性は、皿を受け取ると箸でガトーショコラを器用に切り、小さな口で食べ出した。

「あー‥‥そっちの人ね」とレンが呟いた。オカダはガトーショコラを皿に盛り、クリームとミントを添えてライに手渡した。レン達は、物珍しそうに、女性がガトーショコラを食べるのを眺めていた。

女性は一定のリズムでガトーショコラを口に運ぶと、アイスティーと共に、綺麗に完食した。


オカダが、いくらか女性に質問をしたが、やはり女性は首を振るばかりだ。

「お名前もどこから来たのかもわかりませんかぁ‥‥」とオカダが天を仰いで呟いた。「明日、警察のツテを辿って捜索願いが出ている女性がいないか確認してみます。少し調べれば、きっと素性が明らかになるでしょう」

「じゃあ、とりあえず、このお嬢さんは今夜はここにお泊まりだね。今夜だけなら、ダイニングのソファを

使ってもらおうかぁ」と、トモヤ。「シャワーは五階のを使ってもらえばいいね。僕のジャージを貸すよ」とライ。五階にはオカダとタシロの部屋があり、タシロは自室のシャワーを使っているが、オカダは隣室の空き部屋のシャワーを使っている。オカダの部屋にはパソコンなどの精密機器が多数あるため、湿気で故障させないためだ。


女性は黙って、トモヤらの指示に従い、シャワーを浴び、ジャージに着替え、四階ダイニングのソファで眠り始めた。

女性は首を縦に振るか、横に降るかして意思表示をするだけで、声を発することはなかった。


タシロらも、今日は朝から茨城に遠征し、くたくたである。女性についての各々の推論を述べることは明日に回すことにし、早々に自室に戻り、程よく運動をした心地よさを感じながら眠りについた。


◾︎◾︎◾︎

皆それぞれに疲れていたのだろう。ゆるゆると眠りから覚め、各々がダイニングに集合しだしたのは既に昼前に近かった。オカダは、ブランチだなと思いながら、焼きおにぎりとにゅうめんをタシロに。フライドチキンと白身魚のフライをレンに。トモヤには、チアシードたっぷりのグリーンサラダ。ライと女性にはホットケーキを用意した。もちろんたっぷりのメープルシロップをそえて。


「コーラ飲むのやめたの?」と、レタスをフォークに刺しながらトモヤが聞いた。レンは普段はコーラばかり飲んでいるが、最近はスプライトを飲んでいる。「オカダが注文ミスったんだよ。ダースで買ってっからよ。まぁ、スプライトもうめぇからいいけどよ」と、並々と透明の液体をグラスに注いだ。


「オカダ、僕わかるよ。警察のツテでは、彼女の素性はわかんなかったんでしょ」とライがホットケーキを頬張りながら言った。

そういえば今朝はオカダがいつもより静かだとタシロは思っていた。

「ははは‥‥ばれましたか。御仁の秘書に相談させてもらったんですが、心当たりはないとのことです」

御仁とは、警察OBのことである。以前、オカダとタシロに仕事を依頼してきた。四谷の広大な土地にそびえる豪邸に住んでいる。ただの警察、ただの公務員ではないことは明らかだ。

「要人の娘がさらわれたとか、行方不明になったとかって話はないわけかぁ」と、トモヤは言った。

とはいえ、どこにでもいる家庭のお嬢さんのわけがない。ドウジマ組が一般家庭の令嬢を一人だけさらう理由などないからだ。きっと何か訳ありなはずだ。


「この綺麗なお嬢さんは、何者なんだろなぁ」と、レンが続ける。「とりあえずよ、なんでもいいから名前がいるな。ポチでも、ミケでもよ」

「確かにお嬢さんと呼び続けるのは少し不便すね」と、タシロ。

「うーん、レイカとかは?なんとなく、レイカぽくね?」と、レン。「それ、コーラのCMのタレントの名前じゃない?かといって、ハナコとかってのもねぇ」と、トモヤ。「夏だから、ヒマワリとか、アサガオとか‥‥しっくりこねぇか」と、再びレン。


「モエギ」とライが言った。「緑色のドレスを着てたでしょう?和名ではモエギっていう色だなって」

「モエギ‥‥素敵な響きですね」とオカダが言う。

「じゃあ、モエギだな!よろしくなモエギ!」とレンが言うと、たった今、モエギと命名された女性は鎖骨を触りながらうなづいた。

先程まで、きつね色のホットケーキが二枚乗っていたモエギの皿はきれいに空になっていた。


◾︎◾︎◾︎

土曜日の朝、ヒカルはボクシングジムにいた。オグラヒカルは、都内のIT企業に勤めている。露出の増える夏に向けてのダイエットとストレス発散を兼ねて二か月ほど前から、ボクシングジムに通っている。

当初は50分のトレーニングで、三日間筋肉痛を引きずったが、少しずつ体が慣れてきた。二の腕や腹のぜい肉がボリュームダウンした気もする。

リゾート地に行く予定はないのに、調子に乗ってサマードレスを買ってしまった。夏という響きには人を浮かれさせる魔法があるのかもしれない。淡いブルーのサマードレス。ノースリーブで、裾に向かってフレアなデザインになっている。いまかいまかと出番を待っているサマードレスは、クローゼットを開けるたびに、ヒカルをときめかせた。


ヒカルは、ストレッチをしながら、先週の会話を思い出していた。ボクシングジムのトレーナー・ヤノと、ヒカルと同じ時間帯にトレーニングを受けているトモヤの会話だ。

トモヤは、ヒカルと年齢が近い。いつもニコニコしているのに、スパーリングの時は目が鋭くなり、別人のようになる。ヒカルが痴漢に襲われた時も、軽やかだが、鋭くて、ナイフのようなパンチを痴漢にお見舞いし、助けてくれた。


「トモヤ君はさぁ、彼女と海行ったりしないの?」と不意にヤノが、トモヤに質問した。トモヤはタオルで汗を拭きながら、「ははは、彼女なんていませんよ‥‥しいていうなら、この子かな」と、サンドバッグを右手で撫でながら言った。「この子に会いたすぎるから、自分の家にも買おうかなと思うくらいだよ」と、笑っていた。「えぇーもったいない。もてるだろうに。いい男が夏に遊ばないなんてもったいないよ」とヤノは笑った。「トモヤに彼女はいない。彼女はいない‥‥」という言葉をヒカルは心に記録した。


「ヒカルちゃん、今日はトモヤ君は午後からだよ」

サンドバッグに向かって、へなちょこパンチを打っているヒカルにヤノが声をかけた。ヒカルは顔をサンドバッグに向けながら、「べ、別に気にしてませんけど」と返事をした。「そっか。ならいいけど。ヒカルちゃん、もう少し腰を落として。重心は下に。そう、それであと五分がんばろうかー」とヤノは声をかけた。

汗を拭き取り、ありがとうございましたと声をかけて、ジムを後にする。結局トモヤには会えなかった。また来週かぁ、なんか偶然でも起こらないかなぁ、とヒカルは考えたが、月曜日から金曜日までは基本的に中央区新川にあるオフィスにこもりきりである。この町にいる時間がそもそも短いのに、偶然の可能性は低いだろう。


そう思っていたのに。

たった今、ヒカルはトモヤとすれ違った。商店街のメイン通りは、土曜の昼間ということもあり混雑していたが、あれはトモヤだ。すれ違った瞬間はスローモーションのように感じられた。金髪に、何度か見たことがある黒のTシャツ。刈り上げがのぞく後頭部。しかも、信じたくはなかったが、トモヤは女性と一緒に歩いていた。ヒカルは思わず後をつけてしまった。


頭の中では、この先は危険だ、引き返せと知らせる警報が鳴っていたが、体が自然と動いてしまった。トモヤと女性は、雑貨屋に入っていく。ヒカルは雑貨屋の前のパン屋に入り、パンを選んでいるフリをしながらガラス越しに二人を観察した。

店内をぐるりと見渡し、トモヤはピンク色のパジャマを手に取ると、女性の体に当てた。サイズを確認しているようだ。女性が、うなづくと、トモヤは会計を済ませ、二人は再び往来の中へ消えて行った。


ヒカルは、トレイとトングを持ったまま、呆然としていた。彼女いないって言ってたのに。いや、よく考えたらいないわけがないだろう。ヤノだって、トモヤはもてるだろうにと言っていた。冗談まじりの会話を間に受けた自分が悪かったのだ。そういえば、今朝の星占いは最下位だった。気分は最悪だ。気を緩めると涙が流れそうになるのをグッと堪えた。

ヒカルは、やけ食いしてやると、目についたパンをとりあえずトレイにのせ、パン屋で二千円の会計を済ませて自宅に戻った。


◾︎◾︎◾︎

「ふーっ、とりあえず、これでいいかな。暑かったねぇ」

四階のダイニングに紙袋やビニール袋を並べると、トモヤは中の品物をテーブルに広げた。

モエギが当面の生活が行えるように、着替えや歯ブラシを買ってきたのである。付き添いにはトモヤが選ばれた。なんで僕?とトモヤは思ったが、女性が気にいる物を選べるのはトモヤかオカダくらいしかいないだろう。オカダは食事の支度に忙しいのだから、お前がいけというとことで、トモヤが買い出し係となった。


トレーニングの時間をずらして買い出しに出掛けたわけだが、商店街では思わぬ発見もあったのでまあよしとしようかと、トモヤは思った。

トモヤはゴミをまとめてゴミ箱に捨てた。プラスチックのカゴに、値札を切った日用品をしまって、ハイとモエギに渡す。このカゴの中身がモエギの全てだ。彼女がこれまで持っていた大切な物や人はどこにあるのだろう、とトモヤは思った。ドウジマ組に拘束された時か、その前にすでに失っていたのかもしれない。


まぁ、自分がウダウダと悩んでも仕方がない。

ランチを食べたらトレーニングに行きたい。自分の支度もせねばとトモヤは思った。


◾︎◾︎◾︎

モエギが、やってきて五日が経過した。相変わらずモエギの正体は不明だ。正体は不明だが、食の好みはライとあうらしい。三食きっちりとライと同じ甘いものを食べた。レンやトモヤが食べているものには、微塵の興味も示さない。

モエギは時々オカダの手伝いをし、時々レンとオセロをし、トモヤの本を借りて読んで、時間を過ごした。


五日目の晩、ライは部屋で本を読んでいると、カタンという音がしたのをきいた。階下に降りると、モエギが、ビルの入り口ドアにてをかけている。

「どこかにいくの?」と、ライは尋ねた。予想していた通りだが、モエギは胸元を触るばかりで答えない。

「眠れないの?」と、ライが聞くと、こくんとうなづいた。「ちょっと待ってて」というと、ライはスマートフォンを持って階段を降りてきた。

「モエギは一人になりたいかもしれないけど、さすがにこんな時間に一人で出掛けさせるわけにはいかないでしょ」


ライとモエギは五分ほど歩き、駅前のコンビニでアイスクリームを買った。ライは、ピノ。モエギはハーゲンダッツのクッキーアンドクリームだ。

ふと、ライは駅前に、見た顔がいるのに気づいた。厳密に言うと、直接会ったことはない。だが、確か以前の案件で、トモヤの知り合いだとか言って写真を見た記憶がある。大した特徴のない顔だと思ったが、覚えているものだ。


トモヤの知り合いの女性は、駅のエスカレーターを降りると、商店街の方は向かって歩いて行った。終電で帰宅したのだろう。女性の隣には、スーツ姿の男性がいた。恋人だろうか。トモヤに伝えるべきだろうか。ライは考えを巡らせたが、モエギに手を引かれ、我にかえった。「アイス、溶けるね。ごめん、帰ろう」と、いい、住処に戻った。


二人はライの部屋でアイスクリームを食べた。「モエギ、眠れないなら、これを貸してあげるよ」と言って、ライはCDプレーヤーとオーディオブックを渡した。星の王子様などの名作を朗読した音声が記録されている。

「以前、眠れないならって、ある人に勧められてね。最初は、こんなものいるかよってムカついたんだけど、案外効果があったから。じゃあ、おやすみ。もう、今夜は出掛けちゃだめだよ」と言って、モエギをダイニングに送ると、モエギがタオルケットをかぶったのを確認し、ライは電気を消した。


ベッドの中で、ライはトモヤにメッセージを送信した。

「余計なお世話かもしれないけど、トモヤの知り合いを駅で見かけたよ。スーツ姿の男と一緒だった。余計なお世話だったらごめん」

既読と表示されたが、返信は返ってこなかった。


◾︎◾︎◾︎

タシロは、オカダの部屋でオーナーのニジョウとオンラインで会話をしていた。ケープタウンから移動して、今は、ヨハネスブルグにいるらしい。

ニジョウは、イタリアの血と日本の血が混じっている。黒髪に黒い目をしているが、鼻は高い。顔が小さくて足が長く、日本人離れしたスタイルの持ち主だ。


「久しぶりだねぇ、二人とも。変わりはない?」と、ニジョウは甘い声で挨拶をした。

「変わりねぇっす。ニジョウさんもお元気そうで」

「僕は元気だよぉ。ここは南アの中でも都会なんだけどぉ、まぁ、治安が悪くてねぇ。何人か殺りそうになっちゃったよぉ」

やられる、ではなく?とタシロは思ったが追求しないことにした。

「あのねぇ、ちょっとお願いがあるんだぁ」と、ニジョウは要件を切り出した。


ニジョウとの会話を済ませると、モエギの前では案件の話がしづらいため、タシロは、ニジョウからの依頼をラインのトークルームに投げた。

「すません、次はライトな案件なんすけど、ちょろっと書類を探してきて欲しいす」


ニジョウの依頼は、商売敵の取引履歴を照会させてほしいということだった。

「うちの積荷が、いくらか横流しされてるみたいなんだよぉ」ニジョウは、幾つも会社を保有している。輸送関係の会社のことだろうと、タシロは想像した。

「ムカつくよねぇ。横流ししていた奴はさぁ、ボスが死んだから、僕がわざわざ拾ってあげたのにさぁ。恩知らずだよねぇ。仁義が切れない奴はだめだねぇ。まぁ、サバンナでライオンの餌になってもらって、自然に貢献してもらったんだけどね」ニジョウはにっこり笑った。

「ボスが死んだ運輸会社ってつまり‥‥」とオカダは呟いた。


翌晩、レンとトモヤ、ライの三人は八丁堀にある雑居ビルの三階にいた。タシロがラインのトークルームに投げた内容に従い、トモヤは事務所の鍵をピッキングし、開ける。室内にはデスクが数席あり、パソコンと、書類が雑多に積んである。埃っぽく、むし暑い。レンとライは口に懐中電灯をくわえ、書類棚やデスクを漁った。「この机、酒とつまみしか入ってねぇぞ」とレンが呆れた声で言った。ライは、部屋奥のデスクをあらためた。

「ん〜これかな、2021年の取引ファイル‥‥」と、トモヤがシェルフから見つけた書類を何枚か手早く写真に収め、オカダに送信する。

「オッケーです」とオカダから返信があった。これで仕事は終わりだ。


「ライ、いくよ」と、トモヤが声をかける。だが、ライは事務所奥にある一台のデスクをじっと眺めて動かない。トモヤは不思議に思い、ライに近づく。

デスクの上のものを確認すると、「これ‥‥」トモヤはライの顔を見た。ライは黒い瞳をじっと机に向けていた。また、思考の海に沈んでしまったのだろう。やれやれ。トモヤは、ライの視線の先にあるものをスマートフォンで写真に収めた。「いくよ」と声をかけ、トモヤはライの肩を掴み、タシロが待つバンまでライを引きずった。

住処に戻り、本来であれば四階ダイニングで喉を潤すのが恒例だが、この晩、ライはまっすぐ自室に戻った。


◾︎◾︎◾︎

「あーあ、ナギがいればなぁ」とヒカルは思った。

ナギとはヒカルの元同僚だ。週に二回はランチを共にし、時には家に泊まりに来る仲だったのに、突然、競合会社に引き抜かれただかで、連絡が取れなくなってしまった。まぁ、うちの会社も情報漏洩にはうるさいから、仕方ないのかなぁと思いつつ、トモヤの話や仕事の愚痴を聞いてくれる相手がおらず、ヒカルは、寂しい思いをしていた。


ヒカルは自宅で夕飯を一人で食べながら、先日、後輩と飲んだ日を思い出した。本来であれば、他の同僚と三人で呑むはずが、同僚が仕事が終わらないだかで、現れなかった。結果、後輩と二人で飲み、自宅まで送ってくれたのだが、ヒカルの家は駅から遠いのに歩かせてしまった申し訳なさと、後輩の好意を察して申し訳ない気持ちになった。

彼はもしかしたら、家にあがりたかったのかもしれない。だけど、ヒカルはそれはできないと思った。送ってくれてありがとうと、ヒカルは後輩に礼を言った。だが、上がっていく?とは言わなかった。その時、後輩の顔に落胆の色が見えたことをヒカルは見逃さなかった。自惚れるわけではないが、好きでもなければ、わざわざ来るまい。

「はーっ」とヒカルはため息をついた。せっかく作ったトマトパスタだが、全然フォークを進める気になれない。「本当にトモヤさんに彼女がいるなら、自分も前へ進まなくちゃなぁ」


ふと、ガタンと窓の外で、物音がした気がした。

なんだろうと思い、ヒカルはカーテンを開けると、階下の自転車が倒れているのが目に入った。なんだ、自転車が倒れただけかぁ。痴漢の一件以来、過敏になってるな、と思い直し、ヒカルはお風呂に入ることにした。


◾︎◾︎◾︎

翌朝、モエギを含む五名は、フレンチトースト、スパムサンドイッチ、プロテインシェイクを朝ごはんに、頂いていた。

「モエギ、ずっとここにいても退屈でしょう。今日ちょっと出かけない?」と、ライが声をかけた。モエギは、鎖骨を指の先で触りながら、こっくりとうなづいた。「たまに行くカフェのパフェが美味しいんだよ」と、ライが続けた。


ライとモエギは、学芸大学駅で下車すると、五分ほど歩き、カフェの看板が出ている店に入った。

10席ほどの店内は、平日ということもあってか空いている。冷房が効いた店内は、バターのいい香りが漂っていた。

「夏場はメロンパフェがおすすめでね、それでいいかな?」とライが尋ねるとモエギはうなづいた。

「メロンパフェを二つ」と注文すると、10分ほどして、二十センチほどの高さのグラスがテーブルの上に置かれた。グラスの中では、生クリームと、ビスケット、メロンゼリーが層になっている。もちろん最上段にはカットメロンがゴロゴロと鎮座している。


モエギとライは向かいあって、パフェを食べ始めた。ふいに、モエギとライの目が合い、二人はふふふと、どちらからともなく笑った。

本当に美味しいものには、自然と人を笑顔にする力がある。

「食べ物の趣味が合う人がいると、食べ歩きが楽しいね。このお店はケーキも美味しいから、後でテイクアウトしよう」とライが言うと、モエギはうなづいた。


「僕は、ショートケーキ、プリン、シュークリームかなぁ」ライはショーケースを眺めながら言う。

「モエギは‥‥」と、モエギに目をやると、目をキラキラさせて、ケーキに見入っている。手のひらほどのサイズのケーキはつやつやして、チョコレート細工やフルーツが盛られている。魅せられる気持ちはライにはよく理解できた。

ケーキは全部で十二種類だ。一人で三個食べれば、二日で消費できる。「すみません、全部のケーキを一つずつください」とライは店員に声をかけた。店員は驚いたようだが、すぐに笑顔になって、いそいそとケーキを箱に詰め出した。

「ケーキは一個しか食べちゃダメなんてルールはないからね」と、ライはニヤリと笑って、モエギに声をかけた。


◾︎◾︎◾︎

ライ達が、学芸大学でパフェを食べている頃、トモヤは商店街の中ほどを、左に曲がって100メートルほど歩いた先にあるアパートの前にいた。トモヤの視線の先にある、アパートの一室からは、先ほど老夫婦が出かけて行った。老夫婦の背中が小さくなるのを見届けると、コンコンと部屋のドアをノックした。


「母ちゃん、忘れものかぁ?」と、扉が開く。扉を開けた部屋の主は、トモヤの顔を認識すると、「ひぃぃっ」と言って、あわてて扉を閉めようとするが、トモヤは扉の隙間に靴を差し込む。扉の隙間から、「こんにちは」と、にこりと目をアーチ型にして笑顔を作ると、土足のまま室内に上がった。

「おいおい、逃げんなよぉ。僕さぁ、言ったよね。彼女の周りでアンタを見かけたら次は沈めるって。気づかないとでも思った?」

先日、モエギと日用品の買い物に行った際に、トモヤは気づいていた。ヒカルと、ヒカルに寄り添う黒い影に。ヒカルは大量のパンを買い込んでいた。パンに夢中だったのだろうか、かつてヒカルに痴漢をした男がすぐ近くにいることには気付いていないようであった。


トモヤはズカズカと畳に足跡をつけ、男を壁際に追い込めた。笑顔でジーンズのポケットから注射器を取り出すと、男の腕に注射針を刺した。男が気を失うと、よっこいしょと男を抱え、車に運んだ。クソ暑いのに、オッサンを抱えるのはなかなかキツいな、とトモヤは汗を拭いながら、思った。

トモヤはスマートフォンで、メッセージを送る。「オカダ、今夜は僕とレンは出かけるから、夕飯はパスで」


トモヤに運ばれた男は目を覚ました。熱を持ったアスファルトが頬に当たる感触がする。外は暗い。潮の香りと、ちゃぷちゃぷという水音がする。どうやら夜の港のようだ。意識を失っている間にずいぶん汗をかいたようである。服が汗ではりついているのと、喉が乾いている。男は手足を動かそうとして、動かないことに気づいた。プラスチックの細い紐が手首と足首に触れている。結束バンドで後ろ手に拘束され、足も拘束されているようだ。

「あ、起きた?」と、トモヤが声をかける。男は昼間にトモヤがアパートに乗り込んで来たことを思い出し狼狽た。

「あー‥あっつ‥‥。今夜は熱帯夜ってやつだね。なんでさぁ、アンタはヒカルさんをまたつけまわしてんだろうねぇ。まぁ、聞いたところで、アンタを沈める事には変わらないんだけど」トモヤは男を見下ろしながら、ペットボトルに入った炭酸水を飲む。ぬるいなぁと、文句を呟いた。

「違う、違うんだ!ぼ、僕は、ちゃんと彼女に、交際を申し込もうと‥‥!」男は慌てた様子で弁明した。「へぇ」と、トモヤは言う。


「すいませーん。ここはこの時間、立ち入り禁止なんですけど」と、遠くから声がした。どうやら警備員が見回りに来たらしい。男は助けを呼ぼうとしたが、咄嗟にトモヤが男の口に自分の足を突っ込んだ。「レン」と、トモヤが言うと、レンは警備員の元へ走って行った。

「すいません、運送屋のものなんですけども。昼間携帯を落としてしまいまして‥‥すぐに終わりますから」と行った。警備員に身分証を見せると、警備員は、手早く済ませるようにと言って、去って行った。


「彼女に交際の申し込みかぁ。じゃあ、アンタは痴漢じゃなくて恋敵ってことなのかな」

男は靴をくわえながらもぶんぶんと首を振る。

「そっかぁ〜恋敵かぁ。ヒカルさん、なんだか最近綺麗になったもんねぇ。彼氏できたのかなぁって思ってたけど、どうなんだろうね?そっかぁ、恋敵かぁ‥‥」


夜空を仰いでトモヤは呟いた。チラチラと夜空には星が光っている。風は吹いておらず、体にまとわりつく熱気が離れない。トモヤはヒカルの事を思い出した。ショートカットに丸い目と、ツンと尖った鼻。絶世の美女ではないが、健康的な美しさと、友達思いの優しい心の持ち主だ。最初に会ったときは、薄化粧のせいもあってか、目の下にクマがあり、疲れてくたびれた様子だった。なのに、最近は雰囲気が変わった。薄化粧なのは変わらないのに、汗を拭いている姿や、運動後に赤くなった頬が妙に艶っぽく感じられて、トモヤは思わず目を奪われることがあった。


「うーん、はじめての感覚だな」とトモヤは胸をさすりながら、考えていた。

すぐにヒカルを口説いてしまうのは惜しいような気がしていた。ゆっくり距離を縮めて、少しずつ味わいたい。でも、あんまりゆっくりもしていられないのかもしれない。

他にも彼女を狙う男がいるようだ。ライからのラインメッセージでもそのようなことが書かれていた。そういえば、ライに返信をしていない。どう返すのが正解なのかわからなかったからだ。ありがとうというのも変だし。正直なところ、余計なお世話だと思ったし、少し腹ただしかった。でも、腹が立ったのはライのせいだけ?違う、トモヤはそれだけではない胸のチリつきを感じていた。

ヒカルのヘルシーな美しさに惹かれたはずなのに、爽やかなラブコメとはいかなさそうだ。トモヤの心にはドロリとした感情が生まれていた。まだ、このドロドロの正体をトモヤが言語化できるようになるには時間がかかりそうであった。


トモヤは、男に向き直って言った。

「ふむ、恋敵か。じゃあ、まぁ、なおのこと、アンタは処分しないとだね」

そう言って、レンに目で合図を送ると、トモヤは男の足を持ち、レンは頭を持った。そして、せーのっと、掛け声の後、男を海に放り込んだ。じゃぶんと水が跳ねた。

しばらく海はじゃぶじゃぶと音を立て、波紋を描いていたが、やがて静かになり、港には静寂が訪れた。アスファルトに落ちた、男の白い歯を海に放り投げると、「じゃあ、帰ろっか。帰りにデニーズ寄らない?」と、トモヤはレンに声をかけ、港を後にした。


◾︎◾︎◾︎

トモヤらが、港にいる頃、ライはシャワーを浴び、寝る支度をしていた。今晩は昼間に買ってきたケーキを夕飯に食べた。十二個あるケーキのうち、三個ずつモエギと分けて食べた。ライはショートケーキやプリンなど、オーソドックスなケーキが好きだが、モエギは紅茶のムースや、ラムが効いたチョコレートケーキなど、一癖あるものが好みのようだ。

Tシャツとジャージのズボンを履き、頭をタオルで拭きながらトントンと階段を上がってダイニングへ向かう。時刻は夜の一時だ。モエギは眠っているだろうから、静かにダイニングへ向かった。


「おや」とライは思った。ダイニングのソファで寝ているはずのモエギはいない。五階の部屋からも物音がしないので、オカダやタシロの部屋にいるわけでもなさそうだ。

もしかして、と思い、ライは階段を更に上がった。錆びた鉄の扉を開け、屋上に出る。熱気がライを包んだ。

「眠れないの?」とライは声をかけた。屋上の手すりに手をかけて天を仰ぐモエギがいた。

モエギはライに気づくと、こくりとうなづいた。

「そう。モエギも寝るのが得意じゃないのかな。僕も、夜寝るのはあまり得意じゃないんだよね」


ライは、小学校に上がる前、つまり父親に引き取られる前、母親と小さなアパートで二人暮らしをしていた。ある晩から、毎夜、母親が自分を道連れに、無理心中を試みだしたのである。母親が精神的に追い詰められていたのは間違いない。だが、母親を励ますことも嗜めることも、幼かった当時のライには出来ず、母親の細い手が自分の首に絡みつき、母親が諦めるか自分が意識を失うかが、毎夜繰り返された。


「僕の家、ちょっと特殊だったんだ。僕の母さんは、毎晩、僕を殺して自分も死のうとするんだ。お陰で、目を閉じて眠りにつく瞬間が、今も時々怖い。首に絡みついた指の感触を思い出しちゃうんだ。寝るのが怖いなんてさ、子どもみたいでしょう」

ライは笑ったが、モエギは笑わない。じっとライの顔を見て、話を聞いている。

「特殊な家に生まれるとさぁ、色々面倒だよね。普通の家に生まれて、テストの点で叱られたり、おやつのバリエーションで騒いだり、そんな家庭がマジョリティだなんて、小さい頃はとても考えられなかったよ」

ライの額にうっすらと汗が浮かんだ。せっかくシャワーを浴びたが、この熱帯夜では無理もない。

「眠れるまで、付き合ってもいいけど、外は暑いよ。ダイニングで何か飲もうか」とライが声をかけた。


その時、ウォンウォンという侵入者を告げるアラームが建物内に響き渡る。

今年の春に侵入者がやってきた際は、ライがアラームに仕掛けをしたせいで機能していなかったアラームであったが、ようやく機能したようだ。

ドタドタと建物内に侵入する足音がいくつも聞こえた。


「おいでませってことか」とライは呟くと、まず自室から出てきたオカダに指示をした。「オカダ、アラーム止めて。オカダは、部屋のパソコンとサーバ、守らないとでしょ。五階にいて、あがって来るゴミを払ってくれる?僕は下でゴミを片付けるから。あと、軽トラの手配頼める?」

オカダは「わかりました」と言ってうなづいた。


ついで、「タシロは、モエギをお願い」と言って、モエギを寝ぼけているタシロに預けようとした。足跡はドタドタと階段を駆け上がってくる。

タシロにモエギを預けようとしたが、ライは、ふと考え込んだ。

「‥‥‥うーん、ちょっと人数が、多そうだね。十人くらいいるのかな」

ライはモエギの目をまっすぐ見た。二人の間にピリッとした空気が流れる。

「‥‥モエギも、手伝ってくれる?」

ライは、階段を五段ほど上がったところにいるモエギを見上げて、グロック銃を差し出した。階下から足音が迫ってくる。


モエギは、鎖骨をさすりながら、ライの目をじっと見て考え込んでいる様子であった。しばらくして、「わかった」とモエギは言った。そして、モエギは銃を取った。

「えっ、えっどういうことすか?!ていうか今、モエギさん喋りました?!」と、タシロが言うが既にモエギもライも階下だ。


「モエギ、できれば全員を三階で片付けてしまいたいんだ。死体の移動は楽じゃないからね」とライが声をかける。

「わかった」再びモエギが返事をした。

モエギは顎を引き、下半身に重心をかけ、顔は真っ直ぐ敵を見つめ、両手でグリップを握る。ダンダンダンと引き金を三回引くと、侵入者は、バタリと倒れた。さらに二人を倒すと、弾切れとなった銃を放り投げ、階段の上から、黒服に向かってジャンプした。黒服は、顔面でモエギの全体重を受け止めきれず、首の骨を折ったのだろう、即死した。主を失った肉体は、ゴロゴロと階段を転げ落ちた。

「この野郎!」と黒服がモエギに向かって掲げた拳をモエギはヒョイと交わすと、男のみぞ落ちに向かって拳を打ち込んだ。黒服は、喘ぎ声をあげると唾液を口端から垂らし、床に転がった。


ライは、黒服の足に向かって引き金をひいた。五階に上がることを阻止することを最優先と考えたからだ。

トドメを刺すのは後でゆっくりいい。大腿骨を狙ってダンダンと銃を打ち込む。

一人、上の階へ向かっていったが一人ならオカダが処理してしまうだろう。だが、できれば全員、三階で処理したかった。ライは、チッと舌打ちをした。

ライは向かってきた黒服の肋骨をかかとで蹴り骨折させると、その後ろにいる黒服と一緒にまとめて階段から突き落とした。


「ふーっ」と息を吐くとライは額の汗を拭った。シャワーを浴びたのに汗だくだ。「あーもう!くそ、あっっっついんだけど!」思わず叫んでしまった。廊下にはクーラーがない。モエギもうっすらと額に汗が滲んでいる。

上階から黒服が転がり落ちてきた。腹にナイフが突き刺さっている。オカダが処分したのだろう。

ビル内は概ね静かになったが、まだ手足をもぞもぞさせているものがいる。ライは近づくと、生きている黒服の額を目掛けて、順番に引き金をひいた。


ガチャガチャと玄関の扉が開く音がすると、「うおお、なんだよこれ!」とレンの声が響いた。

「なになに、なんか物騒なんだけど〜」とトモヤ。

三階に転がる死体の山を見て、トモヤとレンは文句を言った。

二人が夜のドライブから帰ってきたらしい。

「もぉ、おっそいよ。とりあえず、今日は寝るのは諦めて。で、死体の処分手伝って。モエギ、手伝ってくれてありがとう。助かったよ。後は僕らがやるから、もう大丈夫。ダイニングで、寝ててほしい」とライはたんたんと言った。モエギは空気を察し、階段を上がって行った。

ライは再びため息をついた。いち、にぃ‥‥ざっくり十五人か。レンとライで解体して、トモヤとオカダが袋詰めだな、と思った。

オカダが、階段を降りてくる。「チェーンソーとってきます」とそのままさらに階段を降りていった。


「タシロは?」とライが尋ねると、「ご飯が食べられなくなるとかわいそうですから、眠ってもらいました」とオカダが返事をした。

「まぁ、徹夜だな、こりゃ。とりあえず半分は、奥の部屋でナタで解体。残りは地下でチェーンソーで解体だな」

レンはゴーグルをつけながら死体を抱えて奥の部屋へ消えた。ということは自分が地下か。「トモヤぁ、運んで〜」と声をかけた。

「地下室、冷房ないんだよね‥‥レンのやつめ」とライは独り言を言った。シャワーは解体が済んでからだ。とりあえず自分もゴーグルと手袋をしようと、自室の引き出しを開けた。


レンは、「よっこいせっ」と言い、ナタを振り下ろす。一回では捌けない。「もう一回っ」といい再びナタを振った。男の右腕と左腕をトモヤに渡す。トモヤは二重にしたゴミ袋に腕を詰めて、袋の口を縛った。

足と胴体は嵩張るので旅行用のスーツケースにまとめた。「で、こいつらは誰なんだよ」と、レンは言う。冷房がついているが、効きは悪く、汗がポタリと落ちる。

「これは、モエギを取り替えしにきたか、殺りにきたかのどっちかだろうねぇ」

レンから受け取った胴体はスーツのジャケットを着たままで、ジャケットにはピンバッジがついていた。ピンバッジは、八丁堀の海運会社のシンボルマークだった。トモヤにも馴染みがあるマークだ。

「ライは質問しなかったのかよ。どのようなご用件ですかって。アイツも手がはええなぁ」

レンは肘で汗を拭うと、「二人目っ」と言って首を切り落とした。ナタでは、さすがに体力が持たなさそうだ。四人目に取り掛かる前に、レンは手を休めた。電動ノコギリがあったはずだ。「ちょっと俺、電ノコとってくらぁ」と言って、手袋を放り投げると、レンは階下に降りて行った。


ライも同様に、地下室でチェーンソーを使用して死体を捌いていた。男の脇下に刃を差し込み、ウォォンという音の中、脇下から肩に向けて刃を進める。ゴトンという音がして、腕がボトリと落ちる。オカダはその腕を拾い、ポリ袋につめた。冷房がないため、作業のたびに汗が噴き出してくる。ライは、チェーンソーをさばきながら、先ほどのモエギの様子を思い出していた。まるでお手本のような銃の構えだった。死体を見ても動揺した様子なぞ微塵もなかった。


もう、モエギの正体は明らかなのに、その事実が、ライの心を苛んだ。まずもって殺されるべきは自分だ。なぜ、まだ自分は生きているのか。ライはチェーンソーを勢いよく差し込み、首を切り落とした。

三体ほど解体した所で「ライさん、お水飲みますか?」と、オカダがペットボトルの水を差し出した。

はぁはぁとライの息は上がっていた。

「‥‥オカダ、それ、僕の頭にぶっかけてくれる?頭冷やしたい」

わかりましたと言って、オカダはライの頭上からペットボトルの水をかけた。ライの髪の毛が濡れる。「もう一本頂戴」そう言って、ライは水を受け取ると、今度は自分で、勢いよく水をかぶった。


◾︎◾︎◾︎

一通りの片付けを終えた頃には、空はすでに明るくなっていた。予想通り徹夜作業となった。

各々は自室に戻り、ライはシャワーを浴びると、うつらうつらとし始めた。久々の重労働だった。

住処だと、爆薬が使えないのがつらい。爆薬であれば死体を解体しなくとも勝手に粉々になってくれるのに。


ライが再び目を覚ました時、空は紫色だった。寝る前の空も紫色だったため、ライは何が起こったかわからなかったが、自分が十二時間近く眠ったことを悟った。

上の階からは、レンたちの賑やかな声が聞こえる。すでに夕飯を食べているのだろう。だが、急いで合流する気にもなれず、ライはぼんやり天井を眺めていた。

クーラーの冷気が心地よい。


コンコンとノック音がして、ガチャと、ドアが開く。「ライ」そこに立っていたのはモエギだった。逆光で表情が見えない。モエギは扉を閉めると、ライが寝ているベッドに腰掛けた。

「ライ、起きてる?」

「‥‥今、起きたとこだよ。モエギ」

「ライ、私のこと、気づいてたんだね‥‥」

「んー‥‥そうだね‥‥三日前かな。仕事で忍び込んだ先に、写真があったんだ。モエギの写真。忍び込んだ先は、かつてトウゴウが幹部を務めていた海運会社だった。もちろん、会社は後継に引き継がれているけど‥‥それに、モエギの顔になんとなく見覚えがあったんだ‥‥あ、ごめん。もちろんモエギは美人だけど」


モエギは、フッと口角を上げた。

「ライ、あの日私が倉庫にいたのはね、私ね、売られたの。元々は、父の後継の奴がね、私を嫁にしようとしたんだけど、嫌だって言ったら、ドウジマって組に私のことを売ったの。あの倉庫で、お腹すいたなぁ、私、どうなっちゃうんだろうって思ってた。売春させられるのかな、とか、臓器を売られるのかなって。そうしたら、突然、ライたちが来て‥‥」くすくすと、モエギは笑った。

「こんな事が起こるなんて予想してなかった‥‥」


ライは体を起こすと、モエギに向き合った。モエギの髪にライが触れる。

外はすでに暗い。扉から漏れるかすかな明かりが二人の表情をぼんやりと照らした。

「君は、トウゴウの娘なんだね。そして‥‥君の父さんを殺したのは僕だ」

トウゴウの海運会社でライが見つけ、トモヤがスマートフォンに収めたのは、トウゴウとモエギが写った写真だった。


トウゴウとは、タシロをオーナー代行としてここに送り込んだ反社の人間だ。タシロが持つ情報欲しさにタシロを拉致して半殺しにしたので、ライはトウゴウを処分した。ちょうど一年前の夏のことだ。ライにとってはよくある仕事の一つだった。


「モエギが、ドウジマに売られる羽目になったのは、僕のせいということだよ」

モエギは、黙ってライを見つめた。

「僕はモエギの人生を狂わして、しかもお父さんの仇だ。僕の事、殺したいでしょ。それに、僕もそうすべきだと思う。メロンパフェくらいでチャラにしろなんて言わないからさ」

よいしょと、枕の下から銃を取り出し、モエギに渡す。

「これ、まだ、弾、残ってるから」

モエギは俯いている。

「もしくは‥‥トウゴウの後継の処分を望むなら、先にそっちを片付けてもいいよ。一応牽制の策は考えているけど、後継が生きてる限り、かつ、モエギが生きている限り、モエギは、監視されるなり追われることになると思う。

トウゴウの会社の人間は、ドウジマの倉庫にモエギの死体がないことに気づいて、モエギを探しにくるだろうなとは予想してたんだ」

ライは続ける。

「今日始末したのは下っ端だから、親玉をちゃんと片付けた方がいいのかなって悩んでたんだ。でも、モエギの意思も聞いた方がいいかなって。

ああ、後継を僕が処分した後、モエギが僕を殺る、のよくばりプランでいいよ。僕が自分で自分を処理するでもなんでも。ケーキだって、一個しか食べちゃいけないってルールはないからね。欲張っていいって、僕に教えてくれた人がいる。モエギが満足するまで、体が動く限りは付き合うよ」


モエギは、黙っていた。親指で銃のロックを外すと、ライの額に突きつけた。モエギの目は涙が浮かんでゆらゆらとしていた。「ライ‥‥」

「ん」といって、ライは目と口を閉じた。


◾︎◾︎◾︎

「ヒカルさん」

さんさんと輝く日差しのもと、トモヤは、サッカー生地のシャツを羽織って、車の前にいた。「急に、誘ったりして、ごめんね」と、トモヤはいい、助手席のドアを開けた。冷房の冷気が、ヒカルの素肌に触れ、体温を下げた。


ヒカルが、トモヤに声をかけられたのは一週間前だ。いつも通りトモヤとヒカルはそれぞれトレーニングに励んでいた。仮にトモヤに彼女がいたとしても、せっかく続いてるんだから、とヒカルはジムに通い続けていた。大体、自分のためにはじめたトレーニングだ。気に入った相手が、脈なしだからジムに行きませんというのもなんだかおかしな話だと、ヒカルは思っていた。

トモヤに声をかけられた時は驚いた。トレーナーのヤノが、週末に家族で江ノ島に行ったとヒカルに話していた時だった。夕陽が綺麗で、心が洗われたとヤノは言っていた。「へぇ、いいですねぇ」と、当たり障りのない返事をヒカルはしていた所、「僕も久々に海が見たいなぁ。ヒカルさん、よければ一緒に、ドライブ行きませんか」と、トモヤが話に入ってきたのだ。ヤノは、少し驚いた様子だったが、すぐにニヤリと笑って事務室に引っ込んだ。


かくして、ヒカルは淡いブルーのサマードレスを着るチャンスを得たのである。ピンク色の口紅を塗って、コインモチーフのネックレスをつけた。汗の匂いがしないように、シトラスの香りの香水も。トップノートはシトラスの香りだが、ラストノートはフローラルの甘い香りがするお気に入りの香水だ。


車は目的地に向かって走りだす。もちろん水漏れ一一〇番とかかれたバンではない。ワンボックスタイプの車をレンタルした。

「ヒカルさん、そのワンピース、すごく似合ってる。なんか‥‥照れるな」と、トモヤはハンドルを握りながらくしゃりと笑った。

ヒカルはきっと顔が真っ赤だろう。冷房が効いているはずなのに暑い。

「あああ、ありがとうございます‥‥」と答えるのが精一杯であった。


◾︎◾︎◾︎

タシロは、気まずいなーと、四階ダイニングで麦茶を飲んでいた。モエギと二人きりである。

トモヤはワンボックスカーに乗ってドライブデートに行ってしまった。オカダは商店街に買い出しに行ってしまった。レンとライは軽トラに乗って出かけてしまった。オーナーが購入した埼玉の廃村を見に行くらしい。なぜか、軽トラだったが、レンは軽トラの運転は好きだと言っていた。軽トラの荷台にはゴミ袋が積まれていたから、不法投棄でもするのかと尋ねたが、既にオーナーの土地なので不法ではないぞとレンに言われた。投棄については言及がなかった。


モエギと二人で何を話してよいか、タシロはわからない。とにかく早くオカダに帰ってきて欲しいと思っていた。

ダイニングテーブルの上には、トモヤが暇つぶしにどうぞと置いて行ったポータブルテレビが、ハワイから上陸したパンケーキの特集をしている。パンケーキの上にはプルメリアの花が飾られていた。

タシロとモエギはじっとテレビを見ていた。

「では次は、この夏のお出かけ特集です。関東近郊の夏のお出かけスポットとイベントを徹底紹介します」

タシロはおや、と思った。そ、そうだと思いスマートフォンを取り出すと、オカダにメッセージを送った。


◾︎◾︎◾︎

トモヤとヒカルは、予約しておいたレストランで食事をとり、江ノ島を散策した。オカダが薦めてくれたレストランだ。ニジョウの名前を出すと、週末にも関わらず、海が一望できる特等席を用意してくれていた。

フレンチのプレフィクスのランチコースを頼んだ。ヒカルはシャンパンを、トモヤは炭酸水を飲んだ。

水族館で、クラゲに癒されたり、アイスクリームを食べたりした後は、浜辺に座って、ぼんやりと夕日を眺めていた。

海鳥の鳴き声と、波の音に体を預けながら、そろそろ、ヒカルを送り届けた方が良いだろう、とトモヤはヒカルを見つめた。気温が高いと体力の消耗も激しい。ヒカルは明日は会社のはずだ。少し車の中で寝てくれればいいけどと、トモヤは思っていた。


そうか、もうお別れか。楽しい時間があっという間というのはそのとおりだ。また一週間は会えなくなる。案件によってはジムを休むことにもなるだろう。

うっかり仕事で怪我をすれば、しばらくは会えないかもしれない。


二人を潮風が包む。海の香りと、ヒカルの甘い香水の香りがトモヤの嗅覚を刺激した。

「ずるいな‥‥」とトモヤは呟いた。

トモヤは、ヒカルを抱き寄せたい衝動に駆られた。体が触れてしまえば、止まらなくなるかもしれない。できれば、美味しいものは、最初の一口、二口はゆっくり味わいたい。だから、浅いところでヒカルを満足させて、しばらくしてから、深いところを味わいたい。ヒカルが、堪えきれなくなって、おねだりしてくれればもっといいけど、先に堪えきれなくなるのは自分かもしれない‥‥と邪な想像が、トモヤの脳裏によぎったが、慌てて妄想を取り消した。

まてまて、自分はレンとは違う、理性的な人間のはずだ、この衝動は、夕陽に煽られているだけだと言い切かせた。

「ヒカルさん、そろそろ帰ろうか」と声をかけ、ヒカルの前に手を差し出した。邪な考えと独占欲を悟られないように、トモヤはめいいっぱいの笑顔を作った。ヒカルも笑って、その手を握り、立ち上がった。


「独占欲でいっぱいだと知るとヒカルは、僕のことを嫌いになるかな。それでも、僕がどれほど、この手を離したくないと思っているか、ヒカルが思い知ればいいのに」と、トモヤは心の中で呟いた。


◾︎◾︎◾︎

「はー、あっちぃ。汗だくだわー」と言ってレンとライが帰宅した。レンはタオルを首に巻いている。埼玉への往復だが、山深い場所だ。朝から出かけて、大した休憩もとらず、アクセルベタ踏みで、どうにか夕飯には間に合った。「トモヤはまだ帰ってねぇのかよ。くっそ、アイツばっか楽しみやがって」とレンは車のキーをダイニングテーブルに放り投げ、悪態をついた。

「もぅ泥だらけだよ。シャワー浴びたい」とライも階段を上がりながらいう。二人ともTシャツや髪の毛が土で汚れている。


「レンさん!ライさん!」とタシロが声をかけた。「お、どうしたタシロ、ご機嫌じゃねぇか」とレンが言う。「へへへ‥‥見てびっくりですよ。モエギさーん!」とタシロが五階に向かって声をかけた。

階段を降りてダイニングに現れたモエギを見て、レンもライも声を失った。「うぉぉ、すげぇ、めちゃくちゃ綺麗じゃねぇか!」と、レンが叫んだ。


モエギは、生成り色の生地に、大小の緑色や黄色の古典菊で彩られた浴衣を着ていた。

「モエギさん、自分で着付けができるんすよ。オカダさんが、やろうかと言ったんですが、自分でできるって」

「綺麗だなぁ!なぁ、ライ!」と、レンがライに語りかける。ライは口角を上げて、「‥‥うん、本当に綺麗だ」と答えた。

「今日、花火大会があるんすよ!屋上に上がれば見えるらしいっす!行きましょう!」と、タシロはずんずんと階段をあがった。冷えたビールと枝豆、唐揚げとスイカをオカダが用意している。


ドォォォンという音ともに、大輪の夏の花が夜空に咲いた。やはり外は暑かったが、冷えたビールの最高の飲み方だとタシロは思った。

ライとモエギは肩を並べて花火を見上げている。商店街の着物屋の店頭に浴衣と帯のセットが売っているのをタシロはとっさに思い出し、モエギに着せることを思いついた。本来ならライにも浴衣を着せて、美男美女で目の保養をしたかったが、贅沢は言うまい。タシロは、我ながらなんとファインプレーだろうと思った。


トウゴウを殺したのは自分だとライが告白した際、モエギは、銃口をライに突きつけた。

ライは目についたゴミが払われるのを待つかのように目を閉じた。

モエギは、引き金を引く代わりに腕を下ろし、頭をライの肩に預けた。「私‥‥モエギって名前気に入ってるんだ‥‥」と呟いた。そしてモエギは涙を流した。


なぜ泣いているのかライはわからなかった。父を失った悲しみに襲われたのか、父を殺した犯人を殺しそびれたのが悔しいのか、ただ疲れていただけかもしれない。

レンはモエギの震える肩にそっと自分の手を添えた。

「いいの?絶好のチャンスだけど」と、ライが言うと、モエギは鼻をすすった。

「ライは、まるで自分が全部悪いみたいな言い方をするけど、どうせライはライの仕事をしただけなんでしょ‥‥」

「僕の仕事が、モエギに降りかかった不幸の元凶であることは事実だ。きっと、ドウジマの倉庫にいた時、モエギは怖かったよね。もっと前から怖い思いをしていたかもしれない‥‥それは間違いなく僕のせいだ」

「私‥‥ライのこと殺したりしない。次にライにムカついたときのために、お楽しみは取っておく‥‥」とモエギは呟いた。

はははとライは笑った。「モエギの銃の構え、すごく綺麗だった。きっと、僕、避けられないと思う。

‥‥僕はモエギに今、命を助けられたことになるのかな。大した価値のない命だけど。まぁ、殺りたくなったら、いつでもどうぞだよ」


モエギは黙って首を振っていた。モエギは心の中で、ライはずるいと叫んでいた。

ライは自分の存在なんて、どうでもいいと思っている。罪を一人でかぶることになんの疑問も持たず、抵抗もしない。明日モエギが、食事中に、銃を突き付けたとしても、あっさり受け入れてしまうだろう。「気が変わったんだね」とかなんとか言って。

ライの命に価値がないなんて、モエギはとても同意できない。ライに、オーディオブックを渡した人間や、欲張りになれと言った人間は、ライに自分を大事にしろとは言わなかったのだろうか。他人の気持ちは尊重できるのに、自分のことはゴミみたいに扱っている。自分で自分を諦めているようだ。

でも、きっと言葉で説明したところでライは理解しないだろう。それがもどかしくて、モエギはただ首を振った。


オカダとタシロはモエギとライ、二人の小さな背中を暖かく見守った。

レンは花火を写真に収めた。普段、写真など撮らないのに、無意識にスマートフォンを掲げていた。そして、ミナミにメッセージを送った。来年は、一緒に見よう、と。


その後、モエギは、オーナーと付き合いがある神楽坂にある料亭の女将の元に引き取られることとなった。オカダの指示を受け、タシロが調整をかけていたらしい。料亭で働くか、女将が理事を務める着物教室で働くかするとのことだ。女将は娘ができたことを喜んでいた。女将のもとで有れば、簡単に命を狙われることもなかろう。


出発の日、モエギは、以前トモヤが渡したプラスチックのカゴを一つ抱えて、迎えを待っていた。タシロらと茨城の倉庫で遭遇した日と同じ、モエギ色のワンピースを着ている。手に抱えたカゴの中には、浴衣とピンク色のパジャマ、オーディオブック、わずかな日用品が入っている。

「モエギ」ライが名前を呼んだ。

振り向いたモエギに、「これを」といって、ライはモエギのカゴに小さな箱を置いた。

白い箱に、エメラルドグリーンのリボンがかかっている。「僕、一つ気づいてたことがあるんだ。モエギのその、胸元を触る癖。それは、ネックレスを触る癖だったんだね」

モエギが、箱を開けると、そこには金色のチェーンに一粒の小さなストーンが添えられたネックレスがあった。モエギはライを見上げる。

「これ‥‥」

「写真のモエギも、似たネックレスをしていたから。ま、餞別だね」

モエギの目にまた涙が浮かんだ。

「ドウジマの車に押し込まれた時に、切れて落としたちゃったんだ。ネックレス‥‥気に入ってたの‥‥いつもつけてて‥‥」涙の滴が、ポトリと落ちるとネックレスを濡らした。

「どうして泣くの。えぇと、嫌なことを思い出させてしまったのかな。それとも、買うんじゃなくて、落としたネックレスを探した方がよかった?たぶん、拉致場所がわかれば辿れるかもしれないけど‥‥」と、ライは困った顔をした。

「そんなこと、頼まないよ‥‥」と、モエギは鼻をすすりながら笑った。

嬉しくても人は泣くのだという事をライは知らないのだろうか?でも、ライなら、かすかな手がかりをもとにネックレスを見つけてしまいそうだとモエギは思った。


「んー‥‥ライ。ライが僕に送った、クソ気分の悪いラインのお返しに、いいことを教えたげよう」

と、二人の様子を見ていたトモヤが声をかける。

「きっと、少女漫画なら、そのネックレスを、ヒロインの首につけてあげると思うよ」

「えっ‥‥かっこつけすぎじゃない?それは‥‥僕のキャラじゃないなぁ」と、ライは眉を潜めた。

「ふぅん。じゃあ僕が代わりにつけようか」と、トモヤがネックレスを手に取ろうとするが、モエギはひらりとかわした。「私、トウゴウの娘ですよ?男の人にネックレスなんてつけてもらわなくても大丈夫。自分でつけますから!」と、大きな笑顔を作ると、

手早くネックレスを身につけた。一粒ダイヤと金色のチェーンがモエギの鎖骨でキラキラと輝いた。

「ライ、ありがとう。これで、私の首が吹っ飛んでも身元の特定ができるね」

「爪の形でも、ホクロの位置でも特定できると思うけど。気に入ってもらえたなら、よかった」

ライも口角を少しだけ上げて笑った。


◾︎◾︎◾︎

モエギが去って一週間。元々モエギは静かであったため、賑やかさはさほど変わらない。だが、やはり男だけだとむさ苦しいなと、それぞれが実感することとなった。


ライのスマートフォンが、メッセージ受信の旨を伝えた。

「モエギです。女将さんが携帯電話を買ってくれました」

「よかったね。うまくやってる?」

「はい、お仕事を早く覚えて、役に立てるように頑張ります」

メッセージは続く。

「神楽坂に美味しいわらび餅のお店があるそうです。良ければ一緒にいきませんか?」

「いいね、行こう」

そうして、ライは、ウサギが、OKと掲げているスタンプを送った。ライは初めてラインでスタンプを使ったな、と一人で笑った。


◾︎◾︎◾︎

翌朝早朝、トモヤとレンは八丁堀の海運会社のビル前にいた。二人とも段ボール箱を抱えている。

段ボール箱にはポリ袋に詰められた十五個程度の首が入っている。ドライアイスをオカダが詰めておいてくらたが、夏なので痛みが早い。既に腐敗臭がしている。まぁ、嫌がらせなのだから、別にいい匂いをさせる必要はない。

訪問客は無事、処分しましたよ。つぎはお前だぞ、の意味を込めて、二人は段ボールをビル入り口にそっと置いた。


トモヤとレンは車に乗り、来た道を帰った。

「ねー、レン、ロイヤルホスト寄っていかない?」とトモヤは運転席に向かって声をかけた。


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