02 走る少女と拾い物
運動は嫌いだった。嫌いというか、己という在り様に対して非合理的なものだった。
どうして他に時間を費やすべきことがあるのに体を動かさなければならないんだろう。
運動するくらいなら、その時間を本を読んだり、思索に費やしたりともっと他のことに使うべき。
風音はそういつも考えている。
……単純に運動が苦手なんでしょ、という友人の言葉は否定できない。
そんな運動が嫌いな少女は何の因果か喘いでいた。
勿論、喘いでいると言っても快楽や色艶とはまるで程遠い喘ぎである。
苦しみ、後悔し、瞳には涙すら浮かべている。
客観的により詳しく説明をすると、河川敷に沿って、まるで一場所終えた後インタビューを受ける横綱のような息遣いで走る女。
ゼヒーッ、ゼハーッと、まるで今にも倒れてしまいそうな勢いで空気を肺に送り込もうと口をわななかせ、無様ながら手足を振ってヨレヨレのジャージを汗に濡らしている。
それが風音という少女の現状だった。
喉の奥に乾いた空気が当たって辛い、なんだか甘ったるいような粘つくような鉄臭い唾液が大きく喘ぐ度に喉に絡まる。
踏み出す一歩。更にもう一歩。
もうやだ、足を止めよう、ゆっくり歩こう。これ以上走って何の得があるんだ、と風音は心中で叫ぶ。
勿論走ることに意味が無い、訳がない。
ダイエット。
世間一般に言う体脂肪を始めとするカロリーの素を燃焼させ、体をよりスリムに。健康的な状態に保つための努力という奴だ。
普段なら風音にとって、やらない要らない関わらないという三ない運動の対象であったはずの行為だった。
『あれぇー? もう走るのを止めるのかい? ダイエットにならないよぉ』
やおら走る速度を落としたとたん、彼女の頭の中に声が響く。
この運動をせざるを得ない原因となった憎い奴。
極度のぼっちの結果、脳内友人でも作り出してしまったかのような状態だが、それは彼女にとって妄想でもなんでもない。
悲しきかな【妄想】はただの脳内アナウンスから現実へ……ヨロヨロと歩みを止めた風音の目前に顕現した。
透き通るように朝の光を反射し、くりくりと動く緑色の瞳。細く、柔らかそうな薄茶色の毛皮。
まるでオコジョのような小柄な動物だが、オコジョに比べふっくらとした体と明らかに違う文様と毛皮の色。
獰猛な牙が口からは覗く。
所々に灰銀色の毛が混じり、太陽の光を浴びてプラチナのように白く色を変える。
そして特筆すべきはその動物の額に埋め込まれたような、青く、深く光を吸い込みつつも艶やかな輝きを映す宝石。
初めてみた時はあまりの驚きと恐怖と衝撃に、手に持った傘でフルスイングしてしまった動物だが、改めて見てもなんだこの動物といった感想を持っている。
そんな風音の視線に微塵も反応を返さずに、器用に後ろ脚で立ち上がるとすらりと伸びた尻尾を股下から通し、前脚で毛繕いしながら毛玉はのたまった。
「ねぇねぇ、もう走るの止めちゃうの? まだ3キロも走ってないよぉ?」
のんびりとした、少年のような舌っ足らずなトーンが平穏とは程遠い精神を殊更ささくれ立たせる。
「あ、あ、アンタねぇ……か、勝手に、人の体を改造しといて、よく、そんなこと、いえるよね?」
息をするにも肺が悲鳴を上げていた。言葉も途切れ途切れだ。
途切れるのは未だに心に燻る怒りによる震えも含んでいる。
「えぇー! 勝手にボクを身につけたのは君じゃないかぁー。困るんだよねぇ、そんなこといわれてもー」
その返答を聞いて、ランニング前にポニーテールに纏めていた髪が怒りに天を衝く。
ハァ!? クーリングオフができるもんなら私だって喜んでやってやってたっつーんだよォ!
舐めた口効く前に礼儀と口調を弁えろよこのクリーチャーが! 車道に紐で簀巻きにして投げ出した後川の中州に放置するぞ。大雨に溺れながら絶望しろ!
最後のとぐろを巻く、蛇の如き執念深さの混ざった怒気を感じたのか目の前の生物は小さく身を震わせ、
「まぁまぁ、カザネ落ち着いて。そんなに座った目をしないでよぉ。ボクらは運命共同体でしょ~仲良くやっていこうよぉ」
取り繕うように緑の瞳を向け首を傾げた。
あざとい。あざとすぎて憎らしい。
風音の眦を吊り上げた瞳には、憎らしいが確かに可愛らしい姿の動物が写り込んでいた。
この憎々しいクリーチャーと風音の邂逅及び事の起こりは2週間と9時間遡る。
高校生ともなると中学生時代の数学とはまた一味違った難しさがある。
中学では全国5位という成績で鼻高々だった風音も、高校に入学してみればその伸びた鼻は元の鼻すら無くなる勢いで微塵に砕け、校内の試験でさえ50位内に入るのが関の山。
必死に授業についていくために夜も塾に通っている日々が続いていた。
「あー今日も頭を酷使した一日だった! 余はもう限界じゃー」
幼馴染の友人、美華が顰め面を作って横を歩いている。
街頭の下にきらきらとゆれる蜂蜜色のショートカットはとても綺麗でそれを見て風音は頬を緩ませた。
「うん。疲れたねえ。あ、そういえば貸してくれるって言ってた本、明日忘れないでよ?」
ふと塾の休み時間に話していたことを思い出すと念押しをし、じっと見つめる。
「アハーッ! もう忘れちゃってた! アッブネー」
ぱっと花が咲くように笑みを浮かべ、クルクルと表情を変える美華は風音に比べると表情が豊かな少女だ。
「なにそれさっき話したことじゃん。もう忘れるとかありえないし!」
眦を吊り上げ、風音は怒ったように声を上げた。
「うっひゃー。風神様がおこってる! ゆるして!」
美華は大げさな動きで両手を合わせると、ニヤニヤ笑いながら頭を下げた。
風音自身全く怒ってなどいない。予定調和のやり取り。いつものことだ。
お互いに一呼吸おくと、どちらともなく笑いがこぼれる。
心地の良い時間だった。
腐れ縁とも言っていい友人である美華とはぽつぽつと喋り続け、そのまま十字路で分かれる。
笑顔で手を振る友人の姿に自身も手を振り、風音は自転車に跨り薄暗いベッドタウンの道路へと漕ぎ出した。
等間隔に点灯している街灯が小気味良く近付いては後ろへと過ぎ去ってゆく。
しん、と冷え切った空気に自転車の単調な機械音がカラカラと反響する。
空気はまだ春が遠い事を感じさせるくらい冷たくて、眼鏡にかかる吐息が時折レンズを白く曇らせた。
マフラーを口元まで引き上げてペダルにかける力を緩め、ふと空を見上げる。
電信柱から伸びる電線はやんわりとした曲線を、晴れ渡った空の下に黒いシルエットを描いていた。
いくら晴れ渡ってはいても星空の瞬きは弱々しく、それでも健気に光を地表に届けている。
「はぁ……もうすぐ二年生かあ」
何とはなしに思った言葉が口を出てマフラーにしみ込む。
あっという間の一年だった。
高校数学は中学数学と違い、概念的な問題が増えたという気がする。
正直、自分では理系だ、と中学の頃考えていたにもかかわらず、自信が少し揺らいでいた。
理系として進むなら物理か化学もしっかりと履修しなきゃいけない。
暗記も計算も嫌いじゃないけど思ったよりも脳味噌がポンコツなのかもしれない、と思い風音は表情を曇らせる。
「来年はもっと大変なんだろうな……」
専攻の希望も出して、クラス分けもそれを考慮するだろうし恐らく今以上に理系色は強くなるに違いない。
風音はどうしても理系がいいというわけでもなく、なんとなく数学も理科も得意だったからという曖昧な理由で理系を選んだのだが、それでも選んだ以上はしっかりと進んで自分がなりたいものを見極めたいと考えていた。
決心を新たにハンドルを握り締めたとき、視界の端に街灯の光を反射して輝く物があった。
何が興味を引いたのかも分からない、ただその輝きを目にしたとき鈴の音が響いたような気がして、風音は思わずブレーキを握り締めていた。
奔放に葉を伸ばす草が夜露に濡れ、星の光を鈍く映している。
街灯と曲がり角、取り壊されても驚きがないほど朽ちた廃屋、それを囲む木製の柵の間隙にできた影に輝きはあった。
露の反射にしては何とはなく色が写りこんでいるような不思議な輝きで、思わず眼鏡を浮かせて目を擦る。
眼鏡をかけなおし、再び視線を戻す。暗がりの中で、重さを感じるような輝きは一層存在感を増している。
自転車のスタンドを立て、たすきがけしていたカバンを邪魔にならないように前の籠に放り込み暗がりに歩み寄った。
少し狭まる柵の間に、身体を密着させ手を伸ばす。
「……ん、しょ……っ」
色のついた輝きを手のひらに握り込む……手に納まる乾いた空気と硬質な感触。
引き寄せた手からこぼれ出しているのは精緻な鎖。
右手の指先でつまみあげる。ブレスレットのようだ。
彫刻の施された白金色のメダルに青くも妖しく輝く宝石が埋め込まれている。
宝石の周りには細い何条もの金属が曲線を描き、宝石の固定台兼装飾として緻密な彫金が調和の取れた美しさを描き出している。
チェーン部分は縄のような形に鎖があしらわれ、絡みつく蛇のように三重になり輪を形作っていた。
一つ一つにじっくりと手が加えられ、大きさも重さも美しさもあった。
多少影が差して全体は見えないが、精細な加工技術と高い価値を感じさせる。
ぶら下げたそれを目前に掲げるが、ためつ眇めつするには街灯から外れた闇は濃い。
「こんな高そうな落し物はじめてみた……」
改めて細かい部分を見ようと風音はブレスレットを左手に握りこみ街灯の下を目指したその時。
「……! いたっ……」
左手に小さな痛みが走り思わず風音は手を開いた。
もしかしたらブレスレットの壊れた部分が尖っていたのかもしれない。
落としてしまった、と反射的に地面を見るがどこにもブレスレットは落ちていない。
目が丸くなる。じゃあ一体先ほどの刺すような痛みはなんだったのか。
左手に視線を移した風音は驚愕した。
「え、ナニコレ」
呆然と呟く。
ブレスレットが左手首に巻きついていた。しかも、巻き付いたチェーンは僅かだが肉に食い込んでいる。
「ま、マジで……? なに、この、ホラー」
急激に汗腺が開き、暑さとは違う汗が体中に吹き出す。
ふらつくようにして立ち尽くす風音の背筋に冷や汗が流れた。
「ハァー……ただいま」
風音は帰宅の挨拶もそこそこに、手に提げたバッグを玄関に投げ出す。
コートを着る程に寒いのにもかかわらず、溢れた汗が背中にじっとりと浮かび下着を肌に貼り付ける。
玄関に冷たく溜まる冬の空気も相まり、気持ちが悪いことこの上ない。
だが、気持ちが悪い原因はそもそも別にある。
左手首に収まるブレスレット。その違和感によるものが一番大きい。
コートの袖を乱暴に捲り上げる。
そこには先ほど拾ったブレスレットが玄関の明かりを柔らかく反射していた。
「存在感半端ないわぁ……」
思わず胡乱な口調になる。焦りが口調を変える。
絡まり付いたブレスレットはまるで生きているように肉に食い込んでいる。
そもそも、風音の手首は肉肉しくて輪ゴムでも何でも食い込む、とは妹の談ではあるのだけれどそれはまあどうでもよい。
いや良くないが。今はそれどころではない。
カリカリと右手の指先で鎖部分を引っかく。
明かりの下で見ると、ブレスレットのチャームの部分は宝石と、宝石を包み込むように紋章のような渦巻を意匠化したものが彫られたメダリオンになっている。
手首の内側はまだ隙間があるが、痛みを感じた時に比べるとじわじわと全体が一体化するように食い込んでいるように見えた。
どうすればいいかわからず、風音の思考は混乱の極みにあった。混乱しすぎて逆に気絶するでもなく焦って鎖をカリカリと引っ掻いてしまう。鉈だか包丁だかを手渡されたらそのまま左手首に振り下ろしていたかもしれない。
「さっきから玄関でなにやってるの。早く上がりなさい」
風音の母親である蓉子がひょいと玄関に顔を出す。帰ってきてから随分と長い間玄関に立ったまま自分の左手を見ていたらしい。
虚ろな表情をして風音は蓉子に視線を向けた。
帰ってきて玄関にバッグを置いたまま、靴も脱がずに居た風音に蓉子はいぶかしむ。
「お、お母さん、わたし、手が……」
風音の視線が左手に集中しているのもあるが、何よりも顔色の悪さに気付いたのだろう。
蓉子は心配するように風音に歩み寄る。
「どうしたの、そんなに青い顔して。大丈夫? 気分でも悪い?」
言葉少なく風音は首を振り、左手首を差し出す。この異常な現状は一目見ればわかるはずだ。が。
「左手がどうしたの? 怪我でもしたの」
と顔色も変わらず左手を見る母親に風音は愕然とした。
「手……にくに、食い込んで……」
「もう、瑞希の言うことを気にしてるの? 風音は充分痩せてるから。それよりもほら、早く上がって手を洗いなさい。ご飯の用意はもうできてるから」
と優しく笑顔を見せ、労わるように肩を叩き風音の左手を引いた。
風音はもう何も声を出せなかった。母親には左手のコレが見えていない。
あと少し元気があったら癇癪でも起こしただろう。あと少し怖くなっていたら手首の肉を掻き毟っていたかもしれない。
もう一度手首を見た。そこにはブレスレットが存在している。
痛みも違和感も感じなかった。
それが何よりもおぞましく、自分の命が吸われているような気がして風音の背中は一瞬で粟立った。
「ははっ、やべぇ。はんぱねぇわ」
朝、洗面台の前にに立った風音は鏡に映った自分の姿に力なく笑う。
目の下には隈が浮き出し、血走った瞳とザンバラ髪は山姥といわれても遜色ない。
こんな姿では学校には行けない。
切羽詰った状況でもそういったことは考えれるんだな、と鏡に手を伸ばして風音は思った。
「おはおーおねーちゃぁぁああああああああ!?」
洗面所の扉を開き入ってきた妹の表情が瞬く間に変化してゆくのを鏡越しに見つめる。
「おはよ、瑞希」
鏡越しに右手を軽く上げる。
いつもは憎まれ口を利く妹も、姉のこの状態には眉を寄せ心配そうに口を開いた。
「だいじょぶなの? 昨日以上に顔色悪くなってるよ?」
「ん~、なんだろね、気分悪いっつーより寝れなかったんだ」
目の下の隈を指先で摩りつつ、風音は肩を竦めた。
昨日は結局、自分に起きたことを風音は口にしなかった。
ただいつも以上に短い時間で食事と入浴を済ませ、部屋に戻った風音はタブレットを片手にパソコンを立ち上げ検索ワードを打ち込み、検索しまくった。
だがその結果は肩透かしもいい所で、アイドルと役者の不倫やら、どこそこでの変質者の事件やら、巨大集配施設の火災やら大きなゴシップや事件ばかりが取り上げられているだけ。SNSを探してもコンビニのフライヤーに入ったバイトの話やら、パパ活やらなんやらかんやら。そんな話題以外には特に目立った情報は無かった。
恐くて意識から外していた、あえて見ていなかった左手を見る。もうブレスレットの鎖の部分は見えない。
あまりのストレスに風音の胃はキュッとなり、吐き気がして洗面台にえずいたが、口から出るのは苦しみに掠れた声だけだった。