第5話 昔の話
アザリアには様々な店がある。高級店から、100均まで。レストランも雑貨も何もかもが揃っている。街の外からも、よく買い物客が訪れる。
そんな人通りの多い大通りに面した店に、ソニアはいた。緑色の看板が目印の高級菓子店、広い店内に中に並ぶものは全て良い値段がする。
「……何がいいかなあ」
焼き菓子の箱の並ぶ棚の前で彼女は顎に手を当て悩んでいた。ヴェローナからは贈り物には丁度いいくらいの額を貰っている。今目の前にある箱か、缶のものが良さげだ。
じっと悩んでいると、不意に横から声がかかった。
「お嬢ちゃん、誰かに贈り物かい?」
「!」
見上げると、立っていたのは中年の男だった。少し伸びた茶髪を後ろで束ねている。瞳は綺麗な青色をしていた。顔が良い、というかソニアは直感的に父と同じものを感じた。
「……まぁ、そんなものです」
誰だろうと思いながらもそう答えた。逃げ出しては失礼かな、とそう思ってその場に踏み止まっていた。
男はにこりと笑うと言う。
「そっか。悩むよねそういうの」
「……あなたも?」
「いんや、俺のは自分用」
ここのがお気に入りでね、と彼は言う。
「まだ悩んでる?」
「え?あ、はい」
「じゃあこれオススメ。量も丁度良いと思うよ」
と、彼は目の前の箱のクッキーをソニアへ手渡した。
「あ、ありがとうございます……」
「なんの。困ってるお嬢ちゃんを見たら放って置けなくてね」
下心が丸見えな気もするが、悪い人では無いなとソニアは思った。
「あの、お名前は?」
「俺?……それは今度会った時にしよう」
と、彼は意味ありげに笑う。
「え?」
「君とは縁があると思うんだ」
そう言うと彼は、じゃ、と言って自分で買う分を手にしてレジへと歩いて行った。
商品棚の陰で見えなくなるまで、その背中をぼうっと目で追っていたソニア。
「…………何だったんだろ、あの人」
ナンパかな?と思い、そして自分もこれを買わなければならない事を思い出して歩き出した。
レジに辿り着いた時には、もうあの男の姿は無かった。
*****
ローエンが事務所の扉を開けると、ソファに座ってリアンが寛いでいた。机の上にはクッキーの箱が広げられている。
「…………寛ぐなら下に行け」
「食べる?」
「……」
正直言ってローエンもその店の焼き菓子は好きなので黙って貰う。リアンの向かいに座り、クッキーを咥え、もごもごと言う。
「出掛けてたのか」
「おん。お前も疲れてんだろなーって思って買って来た」
「お気遣い感謝でーす」
「うわー棒読みィ」
もう一つ、と手を伸ばすローエンの手を叩き、リアンは「もうダーメ」と断る。チッ、と舌打ちし、ローエンは膝の上で頬杖をついた。
「んで?調査はどんな感じよ」
もぐもぐしながらリアンはローエンに聞いた。
「……別に何も。まだ全部は見切れてないけど」
「結構時間かかりそうだな。俺ちゃんも手伝う?」
「いい。お前は違う依頼をこなしてろ。一つの案件に全ての人員を割いてられない」
「……全てって、二人だけだけど」
「そうだよ」
ハァ、とローエンはため息を吐き、調査に使っていたメモを取り出す。
「…………まぁ、一つ言える事はこの10年、確実にスラムの状況は悪くなってるって事だ」
「はぁ。お前がいなくなったからか」
「…………俺だけじゃない」
「まぁ大元はあの神父さんだけど。……あの人アレでも一応スラムを守ってたって事だよ」
「でも全ての解決策にはならなかった」
「そりゃなぁ」
リアンはクッキーの箱を閉じ、机の角に置いた。まだ中身はいくらか残っている。
「……ボランティア団体の方がいくらかマシだ」
「でもよ、そいつらが襲われる事もあるだろ?」
「そりゃ、無法地帯に資源持ち歩いた奴らがいるんだからな……」
ソニアは危険なのは重々承知の上で入りたいと言っていた。彼女はその辺の不良なら体格差関係なく倒せるくらいにはなっている。あれはどうも、元からの才能らしい。
(……まぁ、AFTの奴らも弱い奴ばかりでもねェだろ)
スラムで活動するからには、悪意を退ける力も必要だ。……しかしローエンが見る限り、今まで見て来たAFT以外の団体はどこか心許ない。
(まぁ、暴力に頼らないのが彼らのやり方……だよな、普通は)
なかなか難しいものだ。正直者はバカを見ると言うやつか。現実的にはアクバールのやり方も必要だったのか、とローエンは思ってしまう。確かにあの時否定したのに。結局。
そうして落ち込んでいるローエンに、リアンはやれやれと肩を竦めた。
「荒廃した世界にゃ荒廃したやり方があるんだろうよ」
「!」
「大抵そうやって善意で外から来てる奴は、平和ボケした頭お花畑野郎ばかりだからな。…………それこそ目の前の人間が幸せそうにしてりゃ満足してる」
「……人間が全ての人間を救うのは不可能だ」
「そうだよ。だが、無意味じゃない。0よりは1のほうがマシ。それだけの話だ」
「…………」
「その1を潰そうとする奴らがいるなら、そいつらを排除する役が必要だ。それが俺達だっただけ。……だろ?」
ローエンは顔を上げる。
「……かもな」
「本気で全員救おうなんざ、ただの一般人に出来る訳ねェだろ。本当にそうしたいならデモでも何でも起こして政府に直接訴えるべきだ」
そう言うリアンの顔を、ローエンはまじまじと見つめ、そしてまた一つため息を吐くと俯いた。
「…………お前って意外とマトモな事言うよな」
「意外って何だ意外って。人生経験はお前よりずっとありますよって」
出来る訳がない。誰もそんな事、初めからやろうだなんて思っていない。だが、それをかつて夢見た男がいた。本気で夢見た人がいた。それはただ一人、非力で、それでいて偉大な男だった。…………だが、世界はその“夢”を否定した。だから叶う事がない。それを彼は苦しんでいた。誰も、肯定してやらなかった。してやる事が出来なかった。
……孤独だったろう、あの、神父は。
「お前はアクバールの事、どう思ってた」
唐突なそんな質問に、リアンは驚いて目を見開いた。そしてうーん、と考えると言う。
「…………さぁ。どうだったかね……胡散臭い人だとは思ってたけんど、ルチアーノはやけに信頼してたし、俺もそれに乗っかってただけ……仲間もほとんど……まぁ、ラファエルはルチアーノと同じようなモンだけど、テオちゃんもハルも俺も、真のボスとしてはあまり認めてなかったような」
「……そうか」
「あとは、歳の割に精神が老けてんなーとか、変な人だなぁとか。…………恐ろしい人だと思った事もあったっけ」
「……恐ろしい」
「んだ。逆らったら消されるような、ね。実際俺、あの日怒られたし」
と、リアンは傷痕の残る腹の左側を抑えた。
「分かんだろ、お前も。いつも飄々としてて、何考えてるか分かんねくて、うっかり踏み込んだら戻って来れないような」
「底なし沼」
「そう。そんな感じ」
ローエンの言葉に、リアンはピッ、と人差し指を差した。
「……善悪じゃ区切れない様な混沌とした人。そんな印象かな。見る人によって色が変わる様な。良い人なのか、悪い人なのかね」
「…………お前にとっては?」
「……そうさなぁ」
リアンは首を傾げ、目を瞑った。
「……俺には空っぽに見えた。透明。何でもないんだ。寂しそうな人だな、と、ただそう思った」
目を開け、遠い目をしてリアンは続ける。
「初めて……そんな人を見た。善意と悪意が混ざって、何にも無くなってる。何にも無いから、よく分からない」
それでいて、彼が死んで10年経った今も、彼の顔や人柄は深く胸に残っている。グラナートの事は、ザカリーを見ると思い出す。だが、そういう面影がどこにも残っていないのに、鮮明に、記憶の中に確かにアクバールは生きていた。
ローエンの中にも、リアンの中にも、等しく。
「お前はどう思ってたんだよ」
今度はリアンが訊き返して来る。
「……大体同じ……だけど」
「けど?」
「悪い奴じゃなかった」
「!」
「ただ、可哀想な奴だったんだって……今は、そう思ってる」
俯くローエン。リアンは眉を寄せる。
「……今は、ね」
(お前も十分、可哀想な奴だよ)
リアンはそう、心の中で思った。彼は覚えている。自分を死の淵から無理矢理引きずり出したあの時の、ローエンの目を。普段通りの闇の様な瞳の奥に、さらに深い深淵があった。それは一体何だったのだろう。リアンはそれ以前のローエンの人柄をよく知る訳ではない。だから、その何か不穏なものの正体を掴めてはいない。
彼は自分を、決して友とする事は無いらしい。当たりはキツい。だが、決して悪くされている訳でもない。普通に仕事仲間として過ごしている。だが、もし自分が少しでも彼を裏切るような事をすれば、彼は何の躊躇いもなく自分を殺すだろうと、そんな気はしていた。
……はて。果たしてリアン自身はローエンについてどう感じているのだろう。
恨んではいない。生ある事は良い事だ。初めの頃は、確かに仲間が死んだ寂しさもあったが、今はそれもない。今の暮らしも悪くはない。時々、自分が薄情者な様な気がして心苦しくなる事もあるが、まぁ、今はそれは置いておく。
これは一体、どういう関係なのだろう。リアンは、出来れば仲良くしていたい。だから出来るだけ明るく振舞っている。しかし、彼は心を開いてはくれない。
もし、とリアンはそう考える。
ローエンが、命の危機に晒されて、自分に助ける必要が出来たら?……その時は、助けに行くだろうか。
行くだろうな、と彼は思った。でなければ、自分はまた独りになる。
「さて。いねェ奴の事を考えても仕方ない。あっちの事が気になるんなら、何かしら行動を起こすべきだ。俺も協力する」
「……だが」
「一人で解決しようなんてのは愚かだ。あの人もそう。じゃあどうするか?決まってる、国を動かす他ない」
「…………」
「この国にゃ、アザリア以外にもスラムがある。そりゃ目も当てられないような、ココよりもさらに酷い所もある。俺はそういうのを見て来た。彼らを完全に助けてやるのは、国の力を持ってしても不可能に近い」
「じゃあ……!」
「だが、言ったろ、0より1の方がマシだって」
「!」
「全員を富裕層には出来ない。だが、最低限、人の生活が出来るようにくらいはしてやれるだろ」
スラムで暮らすほとんどの人が、家も無く、食べ物も得られず、服も買えず、風呂にも入れない。病院にも行けない。戸籍すら無い人は大勢いる。
「警察ももう少し動いてくれりゃあな。無法者も出てくだろうに」
「……警察上層部はスラムにはあまり関わりたく無いと」
「クソか。……まぁそれも、政府が動きゃあなんとかなるだろ」
「おい、本気で何かする気か」
「いんや、まだ何も策は思いついてないし。でもお前がやりたいってなら考える」
と、リアンはソファの背にもたれかかった。ローエンは考える。……どう、したいのだろう。
「まぁ、まずは今動いてるボランティア団体にくっ付いてみるとか……ちょこちょこ悪者を懲らしめとけば」
「!」
「殺しはしない程度に、コテンパンに。そしたら逃げ出して、仲間にも伝えるかも」
リアンがそう言うので、ローエンは笑う。
「……今日のが一つ、役に立つといいな」
「何?今日何かやっつけて来たの?」
「絡まれたから」
「はぁん」
ナメられやすいのかどうなのか。不良時代からよく絡まれた記憶がある。
「最近はディアボロを知らないお馬鹿ちゃんが増えてるんだねェ」
「仕方ねェだろ」
「だけど、何となーく都市伝説的に残ってるのは聞いたぜ」
「都市伝説?」
「んだ。『スラムの住民に悪さをすると、悪魔がやって来て魂を喰ってく』とか何とか」
「…………はぁ」
「でもまぁ、それが浸透してるのもほとんどスラムの住民とかその辺を巣にしてるしょうもないチンピラとかで」
「……余所者は関係なしと」
「そゆこと」
意図的に流したのではなく、スラムの中で勝手に広まった噂だ。外へはなかなか広まらないようだ。
「軽い気持ちで手を出す、カタギの調子乗った馬鹿が多いんだよ」
「……学校とかでやる虐めをスラムでやる感じか」
「うん、まぁ、そんな感じ」
実際は相手は大人なのだが。たまに悪ガキが入り込んでる事もある。だが、彼らは大体他のチンピラにやられたり、あるいは切羽詰まったスラムの住民に逆に喰われたりする。
弱肉強食。まさにそれだ。
「…………しょうもない……」
「そ。本当に下らない。馬鹿馬鹿しい」
リアンはそう言って肩を竦めた。
「理由なんてありゃしない。だから抑えるのが難しい」
「強いて言うなら、“何をしても許される”からだ」
「公的にはな。だが、人道的には許されないし、何より実際、許さない人達がいる」
「……俺達も」
「そう」
リアンは前屈みになり、何か悪巧みをしている顔になる。
「そこで一つ提案だ」
「…………何だよ」
「俺は街の依頼で手が離せなくなる。お前はボランティア団体の調査でいっぱいいっぱい。……警察にはボランティア団体に調査してる事は勘付かれるなって言われたんだな?」
「……あぁ」
「じゃあ、お前もそれに参加して来い」
「…………は?」
「潜入捜査。気になるトコ一つどこでもいいから参加して来るといい。そしたら、楽に調査対象と接触出来る。他の団体ももしかしたら」
「……面倒くせェよ」
「ンな事言うなよ、効率的だろ?」
「…………」
AFTか。そこならまだ接点は無くもない。……だが、現状ではすんなり入る事は難しい。
「……考えとく」
「そっか。まぁ無理強いはしねェけど」
ふぁ、とリアンは欠伸した。
「…………もう昼か、腹減ったな」
「今菓子食ってただろ」
「あれで腹膨れる訳あるか。何か作れ」
「命令すんな」
「材料は下に揃ってっから」
「……ハァ」
事務所の一階部分はリアンの居住スペースになっているので、キッチンはある。
「お前、本当に料理出来ねェのかよ……?」
「むふん、俺っちゃん女のコ頼りの生活してたかんねー」
「……キモい笑い方するな」
「キモいたぁ失礼な」
降りるぞ、と言ってローエンは立ち上がり、ドアを開けて外へ出て行く。二階と一階は直接繋がっていないのだ。リアンも鼻歌交じりにその後に続いた。
#5 END