第4話 家族の形
「…………リタ、あんた最近何か変よ」
「……何が」
ソニアとルーカスがすっかり寝静まった頃、深夜。二人の寝室。
「何かあった?」
自身に覆い被さるローエンに、ヴェローナは言う。ローエンはヴェローナの上を這わせていた手を止めた。
「……無い」
「嘘」
「無いってば」
「隠しててもすぐ分かるんだからぁ」
「そうホイホイ分かられてたまるかってェの」
「……子供達の事?」
「…………まぁ」
「ほら白状した」
「うるさい」
ごろん、とローエンは横に倒れる。「あら、もう終わり?」と言うヴェローナにローエンは「疲れた」と返す。
「もう、ケチ」
「前もこんな事あった気がする……」
「ちょっと」
「あれもソニアの事だったっけ」
仰向いてハァ、とため息を吐くローエン。ヴェローナは服のボタンを留め直しながら、聞く。
「ソニアの事?」
「……んー……まぁ、そうと言えばそう」
「どうなのよ」
「んぅ……」
ローエンは脇腹を小突かれて呻いた。くすぐったい。そこは少し弱い。
「……ソニアがさ、ボランティア団体に入りたいって」
「いい事じゃない」
「…………リーダーが、ソニアの昔の友達で」
「昔の?」
「教会でちょっと知り合った奴」
「そうなの」
「そいつに誘われたんだって」
「……それが何か問題なの?」
「…………いや……」
説明出来そうなのはここまでだ。ヴェローナに話すとますますややこしい事になりかねない。
「何も……」
「じゃあ何で悩んでるのよ」
「…………」
「だんまり?」
話すつもりはない、とローエンが目を瞑っていると、横でヴェローナが体を起こす気配がした。頰に髪の先が当たり、目を開けるとヴェローナが自分に馬乗りになっている。
「……ヴェローナ?」
「正直に言わない悪い子にはお仕置きしなきゃねぇ……」
「え、ちょ」
「次は私のターンよ、まーさかさっきので私が満足したなんて思ってないでしょ」
「…………あ、足りなかった?」
「全っ然」
「えぇ……」
だからって俺にするのは違うだろ、と心の中で突っ込むが口に出せない様な迫力だ。……しかし、これでもう追求されないのならそれでもいいか…………と思った途端、ヴェローナがその唇で口を塞いで来た。散々舌を絡ませた後離れた彼女は、コツンと額をローエンと合わせた。
「……今夜は散々虐めてやるんだから」
「…………おう……覚悟しとく……」
至近距離でかかる息。熱い。彼女の息も、自分の息も。
「……確認するけど、ピル飲んでるよな?」
「飲んでるわよ」
「へい……」
うっかりもう一人出来たら困る。ヴェローナは娼婦だった頃はずっとそれを服用していたが、結婚直後に一時期やめていた。ルーカスが大きくなってからまた服用を再開しているが、万が一という事もある。
「今日は主導権握らせてもらうわよ」
「……女王様の仰せのままに……」
「誰が女王よ」
たまにはいいか、とローエンは脱力する。彼女の鬱憤がそれで晴らされるのなら構わない。……元々そういうつもりで今夜は始めたのだから。
「……あまり大きな声出すなよ」
「あんたがね」
「いや……」
言ってる間に、ヴェローナがローエンの服を脱がせて行く。いつぶりか、彼女に勝手にやらせるのは。
素肌をヴェローナの手が這う。細い指は絶妙な力加減でローエンを刺激する。
「ンッ…」
「今夜は寝かせてあげないんだからね」
あぁそうだ、元々こういう女だったとローエンは思い出した。元人気No.1は伊達じゃ無い。彼女はこれ以上なく上手く快楽に陥れて来る。それはまるで、悪魔の様に。
(……初めはそれで好きになったんだろな)
と、彼はそんな事を考えた。きっかけはそうだ。刺激的だったから。ただ欲求を満たす為の相手だった。だが、今はそうではない。彼女の全てが、何もかもが愛おしい。たった一人の生涯の伴侶。
(…………ごめんヴェローナ)
快楽に溺れながら、ローエンはそんな事を思う。相談に乗ろうとしてくれている彼女。それは単に、ローエンを思うからこそだ。夫婦として。…………でも。
(それでもやっぱり、話せない)
「ほら集中して」
「!」
ぐい、とヴェローナが顔を近づけて来た。
「折角私が本気出してるのに」
「……ごめん」
「もう」
少しの気持ちの変化なら、彼女は読み取って来る。特にこうして、一体となる時は。
気付けばヴェローナも再び素肌を露わにし、妖艶な表情をしてローエンの上に乗っている。
と、彼は不意にヴェローナの肩を掴むと、横に転がった。あっという間に元の体勢に戻る。
「ちょっと」
「やっぱりダーメ」
垂れる前髪の奥でローエンは笑う。
「本気出されるなら俺も本気出さないと」
「……珍しくやられてると思ったら」
「予定変更。俺がお前を寝かせない」
「えちょっと、ずるいわよあんたばっかり」
「……ずるいよ?俺は」
甘い声で彼は言う。それだけは変わらないのね、とヴェローナは心の内でどこか安心したようだった。
*****
翌朝。食卓の前で何故だかヴェローナは元気が無い。
「……母さん、どうしたの?」
向かいのルーカスが首を傾げる。ソニアはおおよそ事情が分かっているので知らないふりをして普通にご飯を食べている。
「……リ・タ・の馬鹿っ」
「早く食わないと冷めるぞ。じゃ俺は行って来る」
ヴェローナの悪態をものともせず、しれっとしてローエンはそう言うと家を出て行った。今日は日曜だが彼は仕事だ。
「行ってらっしゃーい」
ソニアが玄関に向かって言った。
「…………あいつ許さないんだから……」
と、ブツブツ言うヴェローナを心配して、ルーカスが言う。
「……大丈夫?」
「…………大丈夫」
「本当?」
「大した事ないわ」
ふん、とヴェローナは口を尖らせると、目の前の朝食に手をつけた。
「リタもさ、朝くらいゆっくりしていけばいいのにね」
「……母さんが起きて来るのおそいからだよ」
「ルーってばしっかりしてるのね」
「当たり前じゃん」
「あら頼もしい」
ソニアもルーカスもほとんど食べ終わっている。ローエンの皿は既にシンクの横で綺麗になっていた。
「ルーは今日どうするの?」
「ザックと遊ぶ」
「遊びに行くの?」
「うん。家に」
「昼から?」
「うん」
「……じゃあ何か用意しないと」
「じゃあおれ、昼まで部屋にいるー」
と、ルーカスは「ごちそうさま」と言って椅子から降りると二階へ上がって行った。
「……さてと、仕度しないと……」
「いいよ、私行って来る」
と、ソニアが言った。
「……いいの?」
「うん、お母さん疲れてるでしょ」
「……ソニア…………」
立ち上がり、自分とルーカスの分をシンクへ持って行くソニア。ヴェローナは顔を手で隠した。
「……もしかして、昨日の聞こえてた?」
「…………何の事?」
振り向いた娘の賢者の様な笑みに、ヴェローナは赤くなった。
「…………ごめん……本当にごめん……」
「別に、たまにはいいんじゃないの。リフレッシュに」
(大人……!)
「はい。じゃあお金ちょうだい。何買ってきたらいい?」
「うーんと、そうね……あなたに任せるわ」
「はーい」
思春期の娘に申し訳ない気持ちで、ヴェローナは小遣いを手渡した。鞄を手に取ってさっと出かけて行く娘を見送り、ヴェローナは昨夜の事を思い返す。
(……ったくリタったら久しぶりだからって)
折角好きにしてやろうと思っていたのに。結局主導権は向こうに握られてしまった。つまらない。
今日はゆっくりしよ、とヴェローナはソファへ移動した。そのままごろんと寝転ぶ。
(……リタの事、何だかよく分からなくなってきたなぁ)
10年前、彼が友と、友に近い人を失ってから。彼はその場で起きた事を多くは語らない。今、誰と仕事をしているのかも。
彼が返り血と彼自身の血に濡れて、ソニアと彼女の元へ帰って来た時。あの時の彼は、ヴェローナが見た事の無いような表情をしていた。それはまるでこの世の終わりを見たかのような、絶望に満ちた顔だった。ただ、不安になったヴェローナが彼の名を呼んだ時、少しだけ彼の表情に光が射した。紅く汚れたまま、血の臭いのする腕で彼はぎゅっとヴェローナを抱き締めた。そしてただ一言、「ただいま」と。その時の声が、まだヴェローナの耳に残っている。寂しそうな、悲しそうな、そんな声だった。
それから時が経つうちに、彼は元の様に戻っていたが、それでもどこか、「何かが違う」とヴェローナの心は感じていた。この10年、彼は自分と結婚して女癖は無くなったし、父親になったからか子供に嫌われる事も少なくなった。
……だが、そんな所ではない。変わったのはもっと、違う…………根本的な、何かだ。
昨夜も、何か隠し事をしていたようだ。ソニアがボランティア団体に入る事になったとは言っていたが、それに一体何か不都合があるだろうか。…………大変な事ではあるだろうが、別に悪い事でもないだろう。
「……ボランティア、ねえ」
ソニアも変わったものね、とヴェローナは思った。あの子も元はスラムの出だ。助けたいという気持ちはあるに違いない。しかし、決して楽なものではない事は、ヴェローナにも分かる。かつてローエンが、あの神父の下で人々に害なすものを殺し回っていた場所だ。それでもなお、悪意は消えない。そんな所に、娘を。
(ソニアなら大丈夫そうなところあるけど)
この前練習でローエンを投げ飛ばしていた。一度きりだが。彼も油断していたのだろう。
(…………家の中でやるのはやめて欲しいわ)
はぁ、とヴェローナはため息を吐いた。ソファがなかなか気持ちいい。このまま寝れそうだ。
静かなリビングで、ヴェローナはうとうととして寝息を立てる。穏やかな春の日、窓を通して伝わって来る陽気は、彼女の不安を全て柔らかく包み込み、その意識をあっという間に夢の世界へと誘って行った。
*****
ローエンはスラムにいた。コッソリと壁際に立ち、通りの様子を伺っている。
視線の先には、富裕層らしき男二人が。大きな荷物を持って、この街を回っている。時折スラムの子供が駆け寄って来て、その荷物の中からパンを受け取っていた。
(……普通の活動。問題なし)
と、ローエンは手にしたメモに書かれたリストにチェックを入れた。団体名の下には目撃した活動内容が。
(…………悪質な団体とかあるのかよ)
そういえばアクバールも言っていたような気がする。良いものばかりではないと。だがそれはボランティア団体の事だったろうか、それともただの人攫い達の事だったろうか。
(……忘れたけど、まぁいいや)
善人の皮を被った悪人など、特にこの辺りにはザラにいる。無垢な子供をそうやって攫って行くのだ。
(とりあえず全部、一旦回ってそれからもう一回探ろう)
見比べれば何か見えて来るかもしれない。そう思い、歩いて行くボランティアの人間を目で追った。ふと、その姿にアクバールと、医者姿のグラナートが重なる。
(……あいつらもこうやって歩いてたんかな)
チクリと胸が痛んだ。……いつまで経っても、彼らの事を考えると寂しくなる。
(…………アクバールを殺したのは俺なのに)
そうだ。他の誰のせいでもない。自分だ。自分でやっておいて何が“寂しい”だ、とローエンは己を嗤った。だが分かっている。自分はただ、“そうなってしまった事”が悲しいのだと。だが、あの神父は自分に言った。「君のせいだ」と。
(……結局全部、俺の自業自得かよ)
自分が苦しいのはそういう事だ。過去を切り捨てられない自分のせいでもある。
と、そう思っていた時、彼は近付いて来る足音を聞いた。見れば、大柄な男が二人立っていた。スラムの住民ではない。
「……こんな所で何してやがる、兄ちゃん」
男の一人が言う。ローエンは笑うと、答える。
「……見ない顔だな」
「あ⁈」
「ここでは何でもやり放題と聞いて来たか」
困った奴らだ、とローエンが笑うと男はカチンと来たらしい。ローエンの胸倉を掴むと凄んで言う。
「ナメやがって……オラ、金目のモン全部出せや」
「……変わんないなココも」
「あ⁈」
「いや、ちょっとまた悪くなったか」
しれっとしたまま言うローエンに、男は怪訝な顔をする。だが次の瞬間、男の腹に膝蹴りが一発入った。
「…………お……⁈」
「てめ!」
動けなくなった男の後ろからもう一人がローエンへと殴りかかる。解放されたローエンは軽く、しかしなかなか強力な蹴りをその男のこめかみへと叩き込む。
「…………⁈」
あっという間に気絶し、バタリと倒れた相方に、うずくまっていた男は顔面蒼白になる。
「あっ、えっ、ちょ、ま、待てって兄ちゃん……」
「大丈夫、死んでやいねェよ。ちょっとお寝んねして貰っただけだ」
「ゆ、許してくれ!何なら俺らの手持ち全部やる!」
「いらねェよンなもん、俺が貰っても仕方ないだろ」
「ひぃ!」
「…………俺からは一つだ。もう、二度とココへは来るな」
「わ、分かった!だから命だけは!」
「さっさとそいつ連れてココから出て行け」
深い闇の様な瞳に睨まれ、男は恐れて気絶したもう一人を引きずって去って行った。
それを見送り、前髪を直しながらローエンは呟く。
「俺も優しくなったもんだな」
ため息を吐いて、彼は再び通りの方へ顔を出した。追跡していたボランティアの二人の姿はない。今の間へ見失った様だ。まぁいい。
ローエンは次の調査へと歩き出す。それは少し、かつての“ディアボロ”の姿とは異なっていた。
#4 END