第39話 転がる水色
暗い中を歩いている。ひた、ひた。土に汚れた素足が、湿ったコンクリートを歩いて行く。ここはどこ。辺りは何も見えない。何かを探しているような気がする。でも、何か分からない。どん、と何かにぶつかった。
────?
見上げる。高い場所に、顔があった。
────フィンちゃん。
彼女が笑う。嬉しい。頭を撫でられた。優しい手だった。誰よりも、その手が好きだと思った。
────フィンちゃん、おれさ……。
何か言おうとした時、彼女が屈む。目線の高さを合わせてくる。いつの間にか……いつの間にか、その目には悲しみが映っていた。
────フィンちゃん? どうしたの。
『何でや。何で、こんなことしたん』
いつの間にか、何かを握っていた。ずぐりと嫌な感触が手に現れた。後ずさる。握っていたものを離して、後ずさる。彼女が倒れた。やけに赤い血が、足元に流れた。
─────フィンちゃん、ちがう、ちがうよ。
『自分がされて、嫌なことは、人にしたら、アカンねんで』
倒れた彼女の口が、ゆっくり動いた。見開かれた水色の目が責めてくる。その目から、目を離せない。
『レノ─────』
*
「────うわああぁ!」
飛び起きた。ハァ、ハァ、と息を吐く。汗でびっしょりだった。少年は自分の両手を見て、頭を抱えて、それから、辺りを見回し、そこがアジトの一角であることを認識し、無意識にポケットに手を伸ばした。
「……フィン、ちゃん」
ポケットの中には、飴玉が入っている。別れる時に、フィンリーがくれたものだ。まだ、一つも食べていない。心臓が激しく脈打っている。ポケットの中をまさぐり、飴玉を一つ取り出した。きゅっと結ばれた包み紙の両端は、くしゃりとしている。それを大事に伸ばそうとすると、包みが解けて飴玉が転がり落ちた。
「あっ……」
コロコロと転がる、水色の飴玉を追いかけると、その先に人が立っているのに気がついた。顔を上げると、それはアランだった。
「アラン」
「……どうした。叫び声がしたけど。怖い夢でも見たのか」
アランが先に、飴玉を拾い上げた。地面を転がったそれは、砂埃に汚れてしまっていた。アランは摘んだそれを月明かりに翳して不思議そうに見る。
「…………何だこれ」
「か、返して」
「これをどこで手に入れたんだ? 報告は聞いてないぞ。街の奴からくすねたのか。奪ったものは三割、俺に渡す約束だ。なぁ、レノ」
アランは優しげな笑みを浮かべながら、そう言った。だが、レノにはその目がギラギラとして見えた。後ずさりながら、訴える。
「返して。それは、もらったんだ、おれが……」
「貰った? 誰から」
「フィ、フィン、ちゃん」
「誰だそれ、知らないな。仲間じゃないだろ」
後ずさるのと同じだけ、アランが一歩近付いてくる。思わずレノはポケットを握りしめ───それを見たアランは顎で指す。
「他にもあるのか。全部出せ」
「…………」
ポケットにあるものを、掴んで出した。両手のひらの上で、色とりどりの飴玉が転がる。
「これ、おいしいんだよ。甘くて……アランも食べない? あげるから」
ほら、とレノは微笑んで、両手を差し出した。その瞬間、アランがレノの手を横薙ぎに叩いた。
「!」
ばらばらと、飴玉が転がる。最初に落とした一粒が地面にカツンと落ちて跳ねて、アランの足に踏まれて砕け散った。
「‼︎ ……やめて!」
「捨てろ、こんなもの。新市街の奴から貰ったんだろ! どうせ毒とか仕込まれてんだよ、アイツらは、俺たちを、殺したがってるんだから!」
地面に転がった飴たちを、アランは狂ったように踏んだ。堅い靴が飴玉たちを砕いて行く。それを、レノは止められない。へたり込んで、ただ、飛び散る破片たちを見ることしか出来なかった。
「……やめて……やめてよ…………」
「可哀想に。街の奴らに騙されかけてたんだな。よく逃げ出して来たじゃねえか。なあ」
アランの声は優しかった。彼の左手が、震える頭を撫でる。
「お前を守ってやれるのは、俺しかいないんだよ。分かってるだろ、レノ。だから俺のところに戻って来たんだろ。言うことを聞いてくれよ、ちゃんと」
「……」
「泣いてるのか? 怖い思いをしたんだな」
「…………アラン、今日、おれ、人をさしたんだ」
「知ってるよ。ラビがお前が助けてくれたって言ってた。あの教会に入ったんだってな。俺だって避けてるのに、大した度胸だ」
ぽん、とアランはレノの肩に手を置いた。レノは顔を上げる。
「さけてる? ……なんで」
「あれは悪魔の巣だからだよ。いつか倒さなきゃって思ってるけど、機を伺ってる」
「………アクマ?」
「知らないのか? このスラムには、昔から悪魔が棲んでるんだ」
がおー、と両手を獣の爪のようにして見せるアラン。にやりと笑って、声を低くする。
「黒髪の、黒い目をした背の高い男だ。一番信用ならない奴だよ。いつか、俺が……殺さなきゃならない」
アランは憎しみの籠った目をする。レノは、不安に思った。
「……おれが、さしたから、死んじゃったかも」
「そんなくらいじゃ死にやしないさ。だって、悪魔だぜ。人間じゃないんだ、あいつは。だから、刺したことなんか気にしなくていい」
穏やかにアランは言う。波立っていたレノの心は静まって行く。その様子を感じたのか、アランは笑った。
「落ち着いたか? 大丈夫だよ、お前は何も悪いことをしちゃいない。ラビを守ったんだろ? 勇敢だよ。俺はお前を誇りに思う」
アランの手がレノの頭を撫でる。上書きされて行く。上書きされて、消えて行く。そこに元々何があったのかさえ、少年は忘れて行くようだった。
「……うん」
「眠れるまで、俺が側にいてやるよ。そうしたら安心して眠れるだろ」
「うん、ありがとう、アラン」
じゃり、じゃり。何かを踏みつける。月光の下に輝くそれが何だったのか、レノはもう思い出さなかった。
*
翌日の昼。リアンが病室に顔を出した。携帯を見ていたローエンは顔を上げる。リアンは手に持った紙袋を掲げながら言う。
「おう、来たぞー。……元気そうだな」
「退屈で困るくらいだよ。あまり動くなって言われてるから、じっとしてるだけだし」
「そうだろうな。……ったく、焦ったぜ……俺ちゃんてばよくここまでお前のこと運んで来たよなー」
丸椅子に座りながらガシガシと頭を掻くリアン。
「……街に着いてから救急車呼べばよかっただろ」
「パニックで余裕なかったんだ。……まぁ考えればそうなんだけど。お前がもっと重症だったら間に合わなかったかもな」
「死ぬ時は潔く死ぬよ。お前の背中で死ぬ前にさ」
「ひど。もっと感謝されてもいいと思うんだけど……」
ローエンは一つ息を吐いて笑う。
「冗談だよ。ありがとな。…………借り作っちまったのが不満だけど」
「借り? 借りなんてない、お前には世話になりっぱなしだし。俺の借金溜まりっぱなしだから返しただけだよ」
ブンブンと手を振るリアン。……なるほど、飯の件とか飯の件とか飯の件だ。
「…………お前に飯作ってる限り俺はお前に助けられるってことか…」
「そうなるね、お前が死んだら俺飯食えなくなるし」
「……複雑だ」
「何がだよ。ほら、差し入れ買って来たから食えよ」
と、リアンは持っていた紙袋をローエンの膝の上に置いた。そこに書かれたブランド名に、ローエンは目を細める。
「……いつもの菓子屋だな」
「好きだろ。いつも俺が買って俺が食ってるけど、今日ばかりはやるよ」
紙袋から箱を出して、包装紙を丁寧に開く。箱を開けると、見慣れた焼き菓子が並んでいる。一つを手に取り、食べる。
「……うん、美味い」
「…………食ってるの見たら食いたくなった。一枚だけくれ」
ひょい、とリアンがつまむ。結局食うのか、と眉をひそめる。
「で、昨日教会の確認したんだろ。どうだった」
「あぁ。無くなったモンはなかったよ。荒らされた後も無しだ。扉だけ開いてたけど……その時丁度俺たちが来て、咄嗟に教壇の裏に隠れたんじゃないか」
「……襲う気満々だったのか」
「そうかもね。俺たちを殺してから、ゆっくり漁ろうと思ったのかも」
ナイフ片手に飛び出して来た少年。殺意は確かに感じた。それを、ローエンがものともしなかっただけで。
「…………レノも、殺すつもりで俺を刺したと思うか」
「さぁ。そういうつもりなら、二人同時に飛び出したんじゃないか。彼は竦んで動けなかった。でも、もう一人の少年を助けるために、動いた……俺は、そう思うけど」
「そう、だよな」
いずれにせよ、彼をあの環境に置いたままにしておくのは、明らかに悪影響を与える。
(────いつの間にか、彼を守らなきゃと思ってる)
たまたま出会っただけの少年。ローエン自身は、実はそこまで彼に思い入れはない。だが、こうして思ってしまうのは、彼に執心するフィンリーのことが心配だからだ。
出会いは最悪だったけど、彼女には報われて欲しかった。レノのことも、そしてダミヤのことも────。
「……ローエン?」
「リアン。レノの……アランの居場所を探せるか。何をしてでもいい。見つけ出せ」
「あえ? おん、言うなら探すけど」
目をぱちくりとさせながら、さらりと言うリアン。
「俺が退院する前に見つけろ」
「今日と明日中ってこと? 無茶言うねー、まぁ、無理とは言わないけどさ」
リアンは笑う。口元は笑ったまま、目を細める。
「……必死だね」
「………俺が変な方向に行きそうになったら、お前が俺を引っ叩け」
「やだよ。俺の手が届く前に俺が死ぬ」
リアンは目を閉じ、よいしょと立ち上がった。
「俺は止めたりしないよ。あの人と違ってね。なぜなら俺たちは、私情で動きまくっていい人間だからだ。今までだって、そうして来た。そうだろ?」
「…………」
「まぁ、俺たち自身の私情じゃねェか。でも俺たちには柵がない。止める必要なんかないよ」
彼は笑う。何かあれば一蓮托生だと、そう言っているようだった。
「それじゃ、また二日後に。良い知らせが出来るように、頑張るよ」
「……気を付けてな」
「心配してくれんの。ありがとね」
手をヒラリと振って、リアンは去って行った。
*
拳と蹴りが、空気を裂く音がする。わざと大きく足を踏み鳴らす。目の前の見えない敵を粉砕するがごとく、彼女は拳を繰り出す。
一人、道場にいる。帰って来た日、ダミヤが刀を振っていた場所で、一人体を動かしている。動いていないと、落ち着かなかった。
動きと共に、汗が舞う。もう何時間かこうしている。こうしていればダミヤが来るかもしれないと、そう思っていたが彼は来ない。自分の他に誰もいない空間は静かだった。しんとした耳鳴りがする。こうした場所は、自分の精神を研ぎ澄ますようだった。
父が言うには、自分の先祖は村を作ったという侍の一人らしい。町に住んでいた人間はその伝説の誰かしらの子孫だと伝わっていた。外から人間が入ってくることは滅多になかったし、近所の人間が親戚というのはそう珍しいことではなかった。
ダミヤは親戚でない友人の一人だった。彼はまた別の侍の家系と言われていて、年頃になると彼の家では刀を持たされその鍛錬をしなければならないようだった。
だから、彼が刀を使うのは必然だ。外では目立つけれど、彼の中では刀は自分の手足のようなものだろう。
でも、自分は古臭いと思う。フィンリーの家では特にそんなことはなかったし、強くなることを強要されたわけではなかったけれど、体格に恵まれたことと、体を動かすのは好きだったことで、野山を駆け巡りながら武術を極めていた。町には格闘技を教えてくれる師匠もいたし、町の仲間と切磋琢磨しながら────その中で、自分に流れる武人の血を感じながら、強くなって、ダミヤを追って町を出た。
外に出てから、自分の膂力が人並み外れていることに気が付いた。その辺の男よりも力が強い。そうして向けられたのは、憧れや尊敬よりも忌避や恐れだった。
当事はそれなりに女らしい女だった。だけど、それからダミヤに会って、女としての絶望を経てから、長かった髪をばっさり切った。短くするとスッキリした。自分のあるべき姿を見つけたような気がした。
同郷のダミヤは、自分と渡り合えるくらいの強さがあった。その辺の男たちより俄然強い。二人で組んでから、自分たちはたくさん活躍した。そのうち、多少変な目は向けられながらも、好意的な目も増えて来た。
ここに帰って来てから、自分がいない間にダミヤが何をしていたのか、彼が残している事件ファイルを覗き見た。いくつかの交戦記録。ダミヤが傷を負わされたという────“ホワイトリッパー”やハル・レニという人間のことが気になった。今はもういないらしいが、恐ろしく強い人間が、他にも存在していたのだと思うと、今はもう戦えないことを惜しく思った。もし、そこに自分がいたなら。ダミヤに怪我を負わせることもなかったかもしれない。
そんな中で出会ったあの、記録にもあった“悪魔”と呼ばれた男はフィンリーに少なからず衝撃を与えた。
自分には及ばなかったけれども、あそこまで渡り合えるだけでも十分だった。何なら、まだ彼は伸びる。彼は無意識だろうが手を抜いていたような気がするし、本当の本気で────相手を本気で殺すつもりの彼なら、自分を凌駕するのではないかと、そう思った。
(それでなんかな、気ィ許して色々喋ってもうたの……)
動きを止める。止まると、息が切れた。ハァハァと息を吐きながら床に座り、そのまま後ろに倒れた。
一目見た時、嫌いだと思った。見るからに女慣れしたキザな男だった。隣にいたリアンも合わせて、軽薄な男は嫌いだった。出会い頭に、50手前の自分に対して『お嬢さん』などと……。
(────久しぶりにちゃんと女扱いされたんや、自分……)
天井を仰ぐ。手を翳す。しわが入って来て、歳を感じる手。傷だらけの手。……ほんの少しだけ、その時本音の部分で嬉しさを感じていたのかもしれない。
彼は一目で自分の強さを見抜いた。敵じゃなくて良かったと言われた時、フィンリーは敵の方が良かったと思った。フィンリーはフィンリーで、彼が“ホワイトリッパー”などに類する人間であると感じたからだ。……彼に八つ当たりしたのは、そういう理由も多少はあった。勿論、『自分がいない間にダミヤくんをスラムなんかに繋ぎおって……!』という怒りが根底ではあったのだが。
初めは嫌いだった男に、いつの間にか絆されている。女慣れした彼に女として懐柔されているのか、それとも元孤児の親としての共感なのか。いずれにせよ、一回りも歳下の若造に少なからず心奪われているのは確かだった。……恋とかではなく。
(……やっぱりあの男は悪魔や。間違いなく……)
目を手首で覆う。ため息を吐いた。息が整って来る。その時、足音を聞いてフィンリーは体を起こした。
「!」
「フィンちゃん、こんにちは」
「マリーちゃん!」
立ち上がる。道場の入り口に、にこりと笑って立っていたのはハイデマリーだった。疲れも忘れて、駆け寄る。
「どないしたん、こんなとこまで……」
彼女は長身の自分と比べて随分と小さい。見上げてくる、小動物のような黒い瞳。彼女が時たま羨ましくなる。可愛らしい、誰が見ても愛らしいと思う、その容姿が。
「フィンちゃんに話を聞きたくて。あの男の子のこと」
「…………」
「フィンちゃん?」
言葉を失くす。そうか、彼女もその件を知っていて、そして伝えていなかった。
「……もうおらん……」
「え?」
「あの子は、スラムに帰ったよ。せやから……」
「そうだったんだ……。今、どこに?」
「分からん」
首を振るフィンリー。ハイデマリーはしゅんとした。
「そっか……」
「取材するつもりやったん?」
「うん。でも、仕方ないね。他のネタを探すよ」
顔を上げたハイデマリーに、フィンリーは少し考えてから、言った。
「少年一人のことは、無理やけど。……もっと美味いネタがあんで」
「え?」
#39 END




