第38話 逕庭
目が覚めた。記憶が途切れている。目に飛び込んで来たのは真っ白な天井だった。徐々に、ピッ、ピッ、と一定のリズムを刻む電子音が聞こえて来た。
それから記憶がぼんやりと思い出されて来る。右手を上げて、握ったり開いたりする。
「………生きてる……」
「しぶとい奴やな。まぁ、それくらいでいてくれへんと困るけど」
「!」
声に驚いて、起き上がった。背中の傷が痛む。苦痛に顔を歪めながら、ローエンは壁際に立つ声の主へ目を向けた。
「………フィンリー」
彼女はため息を吐き、肩を竦めると笑う。
「何でウチやねん、て顔やな。娘ちゃんらは外で待ってるで。……綺麗な奥さんやな。悲しませたらあかんで」
「ヴェローナも来てるのか」
「当たり前やろ。旦那の一大事やねんから」
フィンリーは壁から体を起こすと、歩み寄って来てベッドの隣の丸椅子に座った。
「………レノが刺したんやってな」
低い、暗い声で彼女はそう言う。
「……リアンから聞いたか?」
「そりゃもう淡々と。何があったんか事細かに───」
目を伏せ、薄っすらと笑うフィンリー。それは自虐的な笑みに見えた。
「レノはええ子やって、思ってたけど。人を刺すくらいの度胸はあるんやな。思えば……大人の男から財布を盗み出すんやもんな。それくらいはするか。スラムの子供やもんな」
「フィンリー」
「そうせな、生きていかれへんのやもんな。自分の身は、自分で護らんと……誰も、護ってくれへんのやもんな」
それは、彼女自身に言い聞かせているようだった。顔は笑っているが、膝の上の拳は強く握りしめられていた。
「………ウチ、やっぱりあの時、レノを引き留めてれば良かったなって、思うんよ」
彼女は唇を噛み締める。ぱっ、と顔を伏せた。
「それはやっぱり、アカンのかな。ダミヤくんは、エゴやって言うんかな。そうしたらアンタも刺されへんかったし、レノは温かい家で暮らせたし、アンタを刺さずに済んだのに」
「……大したことない。俺は生きてるし、心配するな」
「そういうことちゃう。……アンタを、レノが刺したいうことが重要や」
フィンリーは顔を上げる。両手を浮かせ、ローエンに問う。
「アンタは、人を刺したこと、あるやろ」
「まぁ、あるな」
「その感触、よう覚えてるやろ」
「────」
肉を貫く、独特の、嫌な感触だ。ローエンは慣れてはいる。でも。
「そんな経験を、レノにさせてもうたんが、ウチは嫌や」
「今回が初めてとは限らない。………まぁ、あの感じは多分、慣れちゃいないけど」
レノは怯えていた。必死そうだった。慣れているなら、もっと冷静にやる。的確に急所を狙って来るだろう。
「……アンタの傷は、そんな深なかったで。まぁ、子供の力やしな」
「油断してたよ。一人だと思ってたから」
あの少年のことを、レノはラビと呼んでいた。ラビは恐らくアランの一味で、となるとレノもやはり……。
「俺たちに敵意はないって、伝えたけど……全然ダメそうだった。新市街の人間は全員敵だと思ってる」
「……でも、レノはちゃう」
「アンタだけだよ、多分」
「それだけで十分や」
フィンリーはぐっ、と目に力を入れた。決意をした目。彼女は強い人だと、ローエンは改めて思った。
「レノは、必ずウチが救う。ウチがやらなアカン……ウチにしか出来んのや」
「……アンタ、またおっさんに引っ叩かれないようにしろよ」
「二度とゴメンやわ。次は避けてカウンター決めたる」
「いや……」
そうじゃないだろ、と思うがフィンリーは笑う。彼女なりの冗談だ。
「ほな。いつまでもウチが占領してたらアカンな。呼んできたるさかい後は家族でゆっくり話しぃや」
立ち上がって、彼女は背中を向けて手を振り、病室を出て行った。彼女は随分、自分に心を開いてくれたものだと思う。
しばらくして、再び病室のドアが開く。ヴェローナとソニアとルーカス、そしてオフェリアが顔を出す。誰よりも早くにヴェローナが寄って来て、抱きついて来た。
「あいてっ」
「バカ……! 心配したんだから」
「……ごめん、全然平気だから安心してくれ」
「安心、出来るわけ、ないでしょうが!」
「痛い痛い痛い」
バシバシと叩かれ、腕で防御する。彼女の怒りはもっともだ。涙を浮かべたその目元を、ローエンは指で拭う。
「この前約束しただろ。必ず帰って飯作るって」
「したけど。いきなり破られたかと思った……」
「俺は約束は守るよ。破ったことないだろ?」
「うん……」
そしてローエンは、ヴェローナの後ろで大人しく立っているオフェリアに目を向けた。
「オフェリアちゃん、久しぶり」
「うん。……お姉ちゃんから聞いて飛んで来ちゃった。もっと元気な時に会いたかったけど」
あはは、と彼女は困ったように笑う。ローエンは笑みを返す。
「全然元気だよ。ごめんね、忙しいのに」
「ううん! それは気にしないで。ローエンの方が大事だもん。何かあったら……って思ったら、仕事も手につかないよ。無事で良かった」
彼女は相変わらずローエンのことは『ローエン』のままだ。『リタ』と呼ぶのは彼女なりにもしっくり来ないらしい。……『義兄さん』というのも。
ぴょこ、とルーカスがヴェローナの隣にやって来る。
「……父さん、大丈夫なの? いたくない?」
「平気だよ。心配かけたな」
ルーカスの頭を撫でる。彼は心配そうな顔をしていたが、やがて安心したように笑った。
「………お父さん」
ソニアが、やや険しい面持ちで声を発した。ローエンは顔を上げる。
「……見てたよな」
「うん……。小さな男の子が、教壇の陰から飛び出して、あっという間に……」
そっと近付いてきたわけじゃなかったのだ。もしそうだったら、入口の方にいた誰かが警告を発してくれていたはずだ。ローエンは目の前の少年のことで背後への警戒を怠っていたし、悪いとしたら自分自身だ。
「………ごめんな。嫌な場面……見せて……」
「スラムにいたら慣れるよ。……昔よりマシだよ、へへ」
ソニアは笑う。無理に笑っているように見えた。昔、ソニアを助け出した時に、二度、ソニアはローエンが殴られたり刺されたりしたところを見ているわけで。……ヴェローナも一度、見ているのだが。
極力、家族にはそういうところを見せたくない。彼女たちの大きな精神的負担になっているに違いないからだ。
「相手はスラムの子供だったんですってね。……やぁね」
ヴェローナが言う。相手が子供でなければ、ローエンもあんなに手加減はしなかった。もっと冷静に対処できただろうし、刺されることもなかったかもしれない。
「……どうすれば良かったんだろうな」
「どうしようもないでしょ。助けたい相手に、牙を向けられるなんて」
相手は助けるべきスラムの人間。しかも非力な子供たちだ。でも、あの様子だと戦いは避けられないのかもしれない。
「誤解を……解ければいいんだが」
「行動で、示すしかないよ。時間はかかるかもしれないけど……でも、諦めたくない」
ソニアはそう言う。彼女は手を握りしめた。
「私たちみたいに、助けられた人だっていっぱいいる。嫌な人ばかりじゃないって、教えてあげたい。だって、そんなの……悲しいよ。誰も、信じられないなんて」
「ソニア……」
「危ない、かもしれないけど。怖くないって言ったら嘘になるけど……私たちが歩み寄らなきゃきっと、何も始まらないと思うから」
笑うソニア。しかし、父の姿を見て再び顔を曇らせる。
「………お父さんを刺した子、フィンさんが一度保護してた子だった……」
「あぁ」
ソニアはレノのことを覚えていたようだ。恐らく一瞬しか顔は見ていないはずだが。その後の経緯はソニアには話していない。
「お父さんも、知ってた?」
「レノ……彼を連れて、フィンリーが父親の元へ行ったら、父親は何者かに殺されてて────仕方ないから一度警察署へ連れ帰ったけど、彼は帰りたいって言って、スラムに戻ったんだ」
「……そう、お父さんのところに戻れなかったんだ、あの子……」
「どうして帰したの? 母親もいないんでしょ?」
ヴェローナが言うのはもっともだ。……だから、フィンリーはきっと、間違ってはいない。ローエンは少し考えながら、答えた。
「彼が、自ら帰りたいって言ったんだ。帰りたいって言うなら、引き留める必要はないって────担当の警察官の、判断だけど」
その言い方は、人のせいにしている。自分に決定権はなかった。なぜなら、その件は警察の管轄で、自分はその協力者に過ぎないからだ。……本当に、そうだろうか。フィンリーが私情で動いたように、彼女を後押しするくらい出来たはずだ。
「……俺も、彼女と一緒に殴られれば良かったな」
「え?」
「何でもないよ。俺も、そう思うよ。頼れる親がいないのなら、無理矢理孤児院に入れてでも助けてやった方が良かった」
過ぎたことだ。あの時ああすれば、なんていくら考えたって変わらない。それを踏まえて、これからどうするか、だ。
「彼はレノっていうんだけど……レノは、スラムにまだ頼れる存在がいるってことだった。そいつが、アランっていう……18歳前後の青年だそうだ」
「私と変わんない……」
ソニアが呟く。ローエンは頷いた。
「そうだな。そいつは、スラムで孤児たちをまとめてるリーダーって奴で……新市街の人間に敵意を抱いてるって話だ」
「………その、レノ君はアランって人を頼ってて……だから、あの子も私たちに敵意を抱いてるってこと?」
「彼自身は、どうなのか分からないけど」
実際、レノはローエンの背をナイフで刺したわけで。
「俺が刺されたのは……もう一人の仲間の少年を助けたかったからだろう。あの少年が、俺に殺されるかも、って思った。……そんなつもりはなかったけど、ちょっと、痛いことはしちゃったし」
「襲われたのはお父さんだもん、それくらいは仕方ないよ。手加減だって、してたでしょ?」
ソニアは言う。よく見ているし、さすがスラムに慣れていると言うか、そういう倫理観だ。
「………でも、少なくとも彼には俺がそういう存在に見えたってことだよ。保護してる時に、そこまで話さなかったから……俺のこと、分からなかったのかもしれないけど。街から来た大人を怖いと思ってた」
もう一度、会わなければならない。アランを探し出せば、必ず会えるだろう。
「……俺、何日で退院出来る?」
「そんなに深い傷じゃないみたいだから、大事を取ってでも明後日には……ってことだったわ」
「そうか」
「でも、それで傷が治るわけじゃないから安静にね」
ヴェローナが、めっ、という顔で言う。ローエンは首を縮めた。手で背中を探る。左の肩甲骨の少し下の辺りに傷がある。触ると痛い。
「………ちょっとズレてたら危なかったな」
「そうね。もう、ヒヤヒヤよ」
肩を竦めるヴェローナ。本当に、申し訳ないとローエンは思う。ふと、ソニアが深刻そうな顔をする。
「………でも、どうしよう。お父さんがいないと……AFTの活動も危ないよね。リアンさん一人に頼っても、いいのかな」
「あ」
「……リアン?」
ヴェローナがピクリとする。ローエンはしまったと思った。
「……って、あの?」
「お母さん、知ってるの?」
「────あー、いや、黙ってる意味もないか……」
リアンの存在は当初は隠しておきたかった。でも、ここまで来たらそういうわけにもいかないし、そういう必要性もない。ただ、何と言うか、気まずいだけだ。
「……あのリアンだよ。今の俺の同僚……」
「────呆れた! それで黙ってたの⁈」
「お母さん、リアンさんと知り合い? いつから? どこで……?」
複雑。ローエンは頭を抱える。ヴェローナはローエンとリアンの本来の関係性を分かっているし、何ならリアンは嬢時代のヴェローナと一度寝ているし、それでもってリアンは実はソニアの実の父親だし……と関係あるのかないのかよく分からないことが頭を巡って、ローエンは思考を放棄した。
「………」
「リタ……」
「……あまり深くは訊くな。そんなに悪い関係じゃないよ。隠してたのは……うん、なんとなく。何でこんなことになってるのか、上手く説明出来なくて……」
「アンタってほんと……隠し事ばっかり。まぁ、仕事のことなんて、そんな聞くことじゃないけど。でも、なんか腑に落ちたわ……」
「顔合わせたら、気まずいだろ?」
「気まずいのはアンタだけよ。お客さんなんてごまんといるんだから」
「………あっ、そういう」
ソニアは何か察したらしい。意味が分からなさそうなのはヴェローナの横にいるルーカスくらいだった。
「……まぁ、そういう訳だよ。……今度改めて……」
そういえば、とローエンはソニアに訊く。
「そのリアンはどうした」
「お父さんを運んで来たあと、すぐにフィンさんたちに連絡してそれから……教会の確認に行くって言ってたよ。もう、多分事務所に帰ってるんじゃない」
レノたちは逃げる時、何も持ってはいないように見えた。大きなものは盗られていないはずだ。恐らく、侵入してすぐにローエンたちが来たのだろう。
「……そうか」
ヴェローナと鉢合わせないようにさっさと戻ったのか。いずれにせよ、後でリアンには礼を言わねばならない。
(……借りつくっちまったな)
はぁ、とため息を吐く。彼がいなければどうにもならなかったかもしれない。
「もう遅いから、そろそろ帰れよ。しばらく飯作れないけど……」
「私がなんとかするよ。お母さんには作らせられないしね」
「うっ……」
ソニアの言葉に、ヴェローナは首を縮めた。オフェリアはクスクスと笑う。
「あたしも手伝いに行くね。だから安心して休んでよローエン」
「……出来るだけすぐ帰るよ。ごめんな」
「いーよ。たまにはローエンの役に立ちたいしさ」
笑うオフェリア。そして、じゃあね、と皆が病室を出て行く。
一人になって、ローエンは横になる。仰向けだと傷が痛んだ。仕方がないのでうつ伏せになる。今はとにかく休もうと、彼は静かに目を瞑った。
#38 END




