第32話 兆候
ハイデマリーは時折立ち止まって、写真を撮っている。随分年季の入った一眼レフだ。彼女が幼い頃から使っているのだろうか。
ローエンがそう思いながらじっとハイデマリーの手元を見ていると、彼女は視線に気付いたようで、にこりと微笑む。
「何ですか?」
「いえ……良いカメラだなと思って」
「そう思いますか? 私の大切な宝物なんです」
嬉しそうに笑うハイデマリー。
「これは父が使っていたカメラなんです。私の父はフリーの記者で……世界中を飛び回って、色んな写真を撮って、色んな記事を書いていました」
カメラを見つめながら話すハイデマリー。懐かしそうな、誇らしそうな顔をしていた。
「父は足を悪くして、記者を引退してしまったんですけど。私はそんな父に憧れて記者になったんです。このカメラと一緒に取材に行くと、父が見守ってくれているような気がして。怖いものはなくなるんです」
「………そうなんだ」
フッ、とローエンは微笑む。微笑んでから、あっと口を抑えた。
「……すみません」
「普通でいいですよ。私歳下ですし」
「えっ……」
「ローガンさんも」
彼女は振り向いてリアンの方を向いた。リアンは、眉を上げて笑う。
「じゃあ、俺もリアンでいいよ。ローガンだとローエンとややこしいだろ」
「そうですか。じゃあそうします。………ええと、ローエンさんは…」
「ローエンのままで」
「あ、分かりました……」
ハイデマリーは首を縮めた。何だかしゅんとしている。ローエンはそれを見て、少しだけ考えてから徐に口を開いた。
「………あー、えーと、名前、でも別に……」
「お前無理すんなよ……」
リアンが呆れたように言う。そして笑うとハイデマリーの肩に手を置いた。
「悪いね。ローエンは距離置きたくてそう言ってんじゃないのよ。こいつにとってはローエンが名前みたいなもんだから」
「……お前に説明されるとムカつくな…………」
「何でよ。親切でしょうが」
リアンのすぐ下で、ハイデマリーは目をぱちくりとさせるとローエンを見上げた。
「そうなんですか?」
「……まぁ。俺の名前はちょっと訳アリで」
「リタさんですよね。知ってます。良い名前じゃないですか、勿体ない」
「………」
純粋無垢。黒い瞳は、その言葉に他意がないことを示している。ローエンは頬を掻く。
「……慣れてないんだ、名前で呼ばれるの……家族は、そう呼ぶけど」
「名前で呼ばれたくない理由があるんですね。分かりました。そういうことなら……このままローエンさんで」
それ以上深くは訊いて来なかった。ローエンの様子から、何かを汲み取ってはくれたらしい。ローエンはホッとする。彼女の記者魂で根掘り葉掘り聞かれるかもしれないと思ったが、杞憂だったようだ。
……こればかりはどうにもならないことだ。父がつけ、母が呪いをかけたこの名前を、ローエンはまだ受け入れられないでいる。勿論、家族にローエンと呼ばせるわけにはいかないので、そこはそれ、でいるのだが。信頼のおける間柄ならまだしも、無闇に“リタ”と呼ばれると胸のどこかが疼く。その人にその意図が無くとも、今の自分を否定されているような気持ちになる。そういう風に刻まれてしまっている。
ハイデマリーが歩き出す。二人はそれについて行く。彼女は思うままに歩き、思うままに写真を撮っていた。写真を撮りながら、しばらくその場に止まって風景を目に焼き付けているようだった。真剣なその顔で、何を考えているのかはローエンたちには分からない。ただそこにあるのは憂いでも、憤りでもなかった。
「……何か声がしませんか?」
「ん?」
ハイデマリーの言葉に、ローエンとリアンは耳を澄ませた。啜り泣くような声が微かに聞こえて来た。
音を辿り、やがて路地で人影を見つける。その後ろ姿には見覚えがあった。声を掛けたのはハイデマリーだった。
「………フィンちゃん?」
「!」
薄暗い路地で振り向いたのは、フィンリーだった。足元で少年がしがみついている。聞こえて来たのはその少年のもののようだった。
「……マリーちゃん! こんなとこで何してん」
「取材だよ。ほら……」
そこでフィンリーはローエンとリアンに気がついたようだった。
「………午後からの依頼ってこれかいな」
「アンタこそここで何してる。ソニアたちと一緒じゃないのか」
ローエンが言うと、フィンリーは顔を曇らせた。足元で泣いている少年を見る。どう見てもスラムの子だった。
「……その子は?」
「ソニアちゃんらに案内してもろてる途中で保護した子や。追っかけ回されてたんを助けたんや。お父さんおる言うから、連れて来たんやけど……」
フィンリーが見る先を、ローエンは覗き込んだ。何かを察したリアンは、ハイデマリーが行くのを止めた。
「……これは」
血の匂い。目の前では壁際で男が事切れていた。首から血が流れ、手元には尖ったガラスが。その掌は切れている。
「………こいつがこの子の父親?」
「みたいやね。……ウチらが来た時にはもう……」
ローエンは男の様子を覗き込む。虚ろに目は開かれている。随分と痩せこけていた。首の右側がざっくりと切れている。血はまだ乾ききってはいない。右手には力なくガラスの破片が握られていて、先端に血がついている。ローエンは眉をひそめた。
「お父、さん、もう、起きない、の?」
少年が涙声で言った。フィンリーは黙ってその頭を撫でる。
「なんで、お父さん、おれが、お金……持って来れなかったから」
「君のせいやない」
少年は声を上げて泣いた。それまでこの親子がどんな暮らしをしていたのか、ローエンたちには分からない。ただ、それだけ追い詰められていたということは分かる。
「……こんな小さい子置いて…………何でや」
フィンリーが呻くように言う。ローエンはそのまま、男の体を探る。だが、何もない。他に傷はないし、外傷で弱っていたわけではなさそうだ。
「……ん、これは……」
すぐ側に落ちていた何かの袋を拾い上げた。中身は空だが、わずかに何かが付着していた。
「……これって」
「なんか見つけたんか。見してみ」
フィンリーに言われ、差し出された手にそれを渡す。袋をじっと見て、彼女は目を細めた。
「………これは……」
「……違法薬物だろ。スラムじゃよくある」
ローエンは淡々と言った。フィンリーは目を眇めた。
「よくあったらあかんやろ。そんな所まで放置なんか」
「スラムでの二大商売……というか。人身売買と違法薬物売買、この二つが主に蔓延ってる。俺もいくつ潰したか分からねェくらいにな」
潰したって、いくらでもまた湧いてくる────それは昔から分かっていることだ。恐らく、大元が叩けていないのだろうとローエンは思っているが。
フィンリーは何かを考えていたかと思うと、徐ろに屈んだ。泣いている少年と目線を合わせ、肩を優しく掴んだ。
「……ごめん。一つ訊きたいことがあるんやわ。お父さんのことに関わる大事なことや」
優しく言うフィンリーに、少年は目を上げ泣くのをやめようとする。フィンリーはその目を見ながら、言う。
「何で、あの男から財布スッたんや?」
「………いつも、お父さんがあの人たちから買ってた。何か…よく分かんないけど。おれにはくれなかったよ。でも、それでお父さんはしあわせそうだったんだ」
「………」
「それで、お金がなくなったから、お父さんは、買えなくなって。食べものも、なくて、だから……」
「…………よう分かったわ。ありがとうな。おばちゃんと一緒に行こか。一人は嫌やろ」
「お父さん、は……? 一人になっちゃう?」
「大丈夫や。あとの事は任しとき。自分、名前言えるか」
「レノ……」
「レノ君か。ウチはフィンリー言うねん。フィンちゃん呼んでな」
「……フィンちゃん……」
フィンリーは笑う。子供には優しいのだなとローエンは思う。少年……レノもすっかり懐いているようだった。ふと、自分がソニアを拾った時のことを思い出す。………そうか、ソニアも心細かったのか、と、この少年を見て思った。
すっくと立ち上がったフィンリーは、目を細めた。
「……ウチは署に戻るわ。ダミヤくんたちも戻っとるはずやから……ソニアちゃんらも戻ったんとちゃうか。アンタらはどうする」
「俺たちはマリーさんの依頼で来てるから、彼女次第だ。……というか、それは警察の仕事だろ。協力が欲しいなら依頼を持って来な」
「冷たいやっちゃな。元々はアンタがしてたことやろ」
「今、彼女を放って話を聞きに行く訳にはいかないもんで。アンタの大切なご友人を護らないと」
ローエンは恭しく手を広げ、後方のハイデマリーを示した。
「俺はあくまで、警察の協力者って立ち位置だ。自主的には動かないよ。依頼があってようやく動ける」
「それも元からやろ」
言われて、ローエンは肩を竦めた。フィンリーはフン、と鼻で笑った。
「ほな。またよろしゅうな」
「あぁ」
「あ。マリーちゃんには、くれぐれも、傷を付けんようにな」
低めの声で釘を刺される。顔が怖い。信頼してるから紹介したんじゃなかったのか、とローエンは首を縮めた。
あの時仲直り……のようなことはしてみたが、少しだけまだお互い棘がある。それは多分、闘争心的な何かだ。
振り向くと、フィンリーはハイデマリーの頭にポンポンと手を置いて笑っている。ハイデマリーの方も嬉しそうだった。二人は友人だと言っていたが、親子のような歳の差だ。実際、背の高いフィンリーと小さなハイデマリーが並んでいると、その身長差も相まって親子のような図に見える。そのすぐ横にリアンがいて、ふとローエンは嫌なことが浮かんで首を振った。
フィンリーがレノを連れて去って行く。それを見計らって、ローエンはハイデマリーの側に寄った。
ハイデマリーはホクホクした顔をして、ローエンを迎えた。
「フィンちゃん、元気そうで良かったです。何かお話しされてました?」
「君のことをよろしくだってさ。………行こう」
「あ、待って下さい。何か見つけたんですよね?」
「………良いものじゃないよ。わざわざ見るものでもない」
「そうですか。………フィンちゃん、男の子を連れてましたけどあの子はどうするんですかね?」
「さぁ。警察で保護するんじゃないかな。空いてるところがあれば孤児院が引き取ってくれるかも」
「親がいないんですね、可哀想に……。そんな子供が、たくさんスラムにはいるんでしょうか」
「………そうだな」
ローエンはリアンを見る。リアンは目を逸らした。ローエンは一つため息を吐いて、続けた。
「たくさんいるよ。ここではたくさん人が死ぬ。自分じゃどうにもならない理由でここにいて、人として扱われないまま死んで行く。……だから、ここを出られたあの少年が、可哀想かは考えようだ」
「……親がいなくても、良いって言うんですか」
「それもあの子次第だよ」
死んだ父親を見て、レノは泣いていたが。父親は薬に溺れていた。辛い現実から一人逃げ出した。幼い息子を置いて、父としての責務を放棄した。どんな父親だったのか、それはあの子に訊かなければ分からないが。子供は親以外の世界を知らない。縋る場所を失えば、不安になる。そこがどんな場所であっても。
「あの子次第……そうですね」
ハイデマリーは、俯いた。そして、少しして顔を上げる。
「私、あの子のこと……気になります。しばらく追ってみることにします」
「……熱心なのは良いが………本人が嫌がるようならやめろよ」
「はい。プライバシーは守りますよ、私。でも、スラムのことを知るためには、必要だと思うんです」
彼女は、彼から何かを感じたのだろうか。ローエンも少しだけ気になっていた。でもそれは、少年のことというよりも、あの男の死体のことだ。とりあえず、今はそれより優先することがある。
「………で、これからどうする。まだ続けるか、そろそろ帰るか」
「そうですね、今日のところはこの辺りで。ありがとうございました」
「礼を言うのはまだ早いよ。新市街に戻るまで安心はできない」
「あ、そうですね」
ローエンはハイデマリーの背中を押す。リアンはその後ろを静かについてくる。彼も彼なりに、思うところがあるのだろう。
しばらく歩いて、スラムと街を隔てる壁を抜けた。空気を吸い込み、ハイデマリーは言う。
「なんか、別世界みたいですね。この壁一枚を越えただけの場所なのに……」
「同じ世界にするよ。その為に、君の力も貸して欲しいんだ」
ローエンの言葉に、ハイデマリーはその顔を見上げた。
「なんか……告白みたいですね」
「えっ、そう……?」
「ふふ。分かりました。ペンは剣より強しと言います。私の力があの街を助けられるのなら。何より、私自身興味があります。スラムで何が起こっているのか、どんな人がどんな風に暮らしているのか……」
ハイデマリーは、首から提げたカメラを片手に、ガッツポーズをした。
「一度本社に戻って、今日、見たこと聞いたことをまとめて、一度記事にしようと思います! 明日の朝刊、楽しみにしてて下さいね」
「あぁ」
それでは、とハイデマリーは踵を返して歩き出す。その背中を見てリアンは言う。
「……なんか心配だから駅まで送って行って来るよ……」
「そうしてくれ、まだ暗くはならないが人通りの多いところまででも……」
「んだな。お前は先事務所帰っててくれ」
「いや。ちょっと警察署寄ってくよ。気になることがあって」
「そう? 分かった」
リアンは大股で走って行くと、前方のハイデマリーに呼び掛けた。彼女が振り向く。一緒に歩き出した二人の背中を見て、ローエンは少し安心する。そして、一つ息を吐くと警察署の方への足を向けた。
#32 END




