第28話 二人の父親
いつの間にか眠っていた。いつも通りの時間に目を覚ます。階下から良い匂いがして来る。いつもの光景。一晩寝た頭はしゃっきりしていた。この日常を、変えることはない。変わることはない。
今日は休日だ。私服に着替えて、髪を整えて、階段を降りた。リビングに入ると、キッチンに父がいるのが見えた。他にまだ誰も起きて来ていなかった。
「……おはよう、お父さん」
「おう、おはよう」
僅かに緊張を含んだ挨拶に返って来たのは、いつも通りの挨拶だった。ソニアは、父へ向かって歩いて行った。気配に振り向いた父は、微笑む。
「……決めたのか」
「うん」
ソニアは大きく、息を吸った。
「────その前にひとつだけ、言っておくね。私の家はここだから」
「あぁ」
頷いた父に、ソニアは笑った。
「会うよ。会ってみる。……話したいことが、あるんだ」
*
父の仕事場である事務所に連れて来られて、ソニアはえっ、と思った。ローエンは娘の顔を見ると片眉を上げて肩を竦めた。
扉を開けるといつものようにリアンがいた。彼は目を見開いた。えっ、という……実に似た顔をして同僚の姿を見る。ローエンは少し意地悪な笑みを浮かべると、ソニアの背中を押して部屋の中に入れ、自分は外に出て扉を閉めた。ガチャンと音がして、その空間には二人だけになる。沈黙。こうなってるってことは、そういうことだとリアンは理解した。彼女はまだ戸惑った顔をしている。
「……えっ、リアン……さん?」
「…………中途半端なことするんじゃないよ、ローエン……」
リアンは頭を掻く。……くそ、言うなって言ったのに。
「リアンさん、が……えっ?」
「あー……違う、違うんだ、えぇと、その……」
後ずさる。彼女の反応はもっともだ。彼女はきっと、見知らぬ男が現れると思っていたのだろうから。でも、彼女もそれなりの覚悟を持って来てくれたのだろう。リアンは引いていた身を、正した。
「……うん、そう、です。ゴメン」
なんて情けない。アルベールの告白を横で見ていたリアンは、己が身を見てそう思った。
その後の言葉は出て来なかった。足が震えたのと、立ち尽くす彼女を見て、とりあえずリアンは笑った。
「……座ろうか、立ちっぱなしは嫌だし」
ソニアは何も言わない。これまでのことを思い出しているのだろうか。向かい側に座って、俯いた彼女が何を考えているのか、リアンには分からなかった。
「………えーと……何から話そう……」
気まずい。ローエンめ、とリアンは心の中で毒づく。嫌がらせのつもりか。一つため息を吐いて、リアンは顔を上げて言う。
「じゃあ。まずちゃんと言っておかないと。……俺が……その、君の本当のお父さん……です」
ソニアがようやく顔を上げた。あぁ、彼女によく似てる、とリアンは思った。瞳の色は自分のものだ。
「ローエンには……一昨日言ったばかりなんだ。なんて言うか、こうなってるのはものすごい偶然で────」
そう。たまたまだ。なぜ、彼女を拾ったのが彼だったのかと、考えてしまうほどに。これは運命のいたずらだ。
「知ってて、俺はローエンと一緒に働いてたわけじゃない。俺が、そうだって自分で気付いたのも、本当に最近のことなんだ。でも、名乗る気はなかった。……名乗る資格なんて、ないと思ってるからさ」
今度はリアンが俯く。ソニアは少しだけ躊躇ったあと、思い切って口を開いた。
「……どうして、母の前から消えたんですか」
きちんとした言葉遣い。ローエンの教育の良さを思う。……一昨日散々、汚い言葉で怒鳴られたが。
「俺が臆病だったから。俺にはローエンみたいに、父親になる覚悟なんてなかった」
正直に話した。どれだけ蔑まれたって構わない。自分にはそんなプライドなんてない。むしろ恨んでいて欲しかった。そんな目じゃなくて、軽蔑や侮蔑の目の方がいくらかマシだった。
「君のことも、君の母親のことも、ずっと忘れて生きて来たしょうもないクソ野郎だよ。思ってた通りだろう。君のお母さんを捨てたあとも、何人もの女の人と付き合ったし、寝たし、人だって殺したし────」
あぁ、人殺しはあいつもだったとそう思った。リアンが“そういう人”であることはもう、ソニアも知っている。だから彼女にとって、そこはそんなに重要じゃないのだろう。
「だから……あの日菓子屋で君を見かけて、この関係に気が付いて……それだけで、もう、胸にしまっておくつもりだった。これまで通りでいようと思った。女遊びに耽るしょうもない男でい続けようと、思ったんだよ」
でも、出来なかった。携帯に登録していた女の名前は、全部消した。かかって来る電話も、メールも全てが煩わしくなった。それで、今までの自分が上書きされるだなんて思っていないが。
「……何で、自分を悪く見せようとするんですか」
「見せようとしてるんじゃない、悪いんだよ、俺は」
「そんなことないです」
はっきりと彼女は言う。慰めなんかじゃない。彼女はきっと、心の底からそう思っている。余計にそれが、リアンにきつく刺さった。
「ソニアちゃん」
「リアンさんのことを、よく知ってるわけじゃないですけど。私が見て来たリアンさんは、悪い人じゃないです」
「それは……」
「私のルーツになる人を、そんなに悪く言わないで」
「!」
ドキッとした。少し怒ったような声。ソニアは続ける。
「勿論……スラムの暮らしは苦しかったし、お母さんは悪い人たちに殺されちゃったけど。でも────後悔しているのなら、それ以上自分を責めないで」
そう言うのは、きっと彼女が優しい子だからだ。今がきっと、幸せでいるからだ。リアンは思わず、顔を逸らした。
「………やめてくれよ、ほんとに。俺が、惨めになる」
「ほら。本当に悪い人は、そんなこと思わないです」
ソニアは微笑を浮かべる。リアンは目を合わすことが出来なかった。
「お母さんは、どんな人でしたか」
ソニアはそう訊いた。穏やかに。ただ思い出話をするように。リアンは俯いたまま、答えた。
「……名前は、アンジェリカ。アンジェリカ・ノールズ。だから……ソニアちゃんの本来の名前は、ソニア・ノールズってことになる。……北の生まれの、緑色の瞳をした綺麗な女性だった。俺は、当時殺し屋だったけど────彼女はそれを知らなかったし、聞こうともしなかった」
自分の正体を、相手に明かしたことはなかった。それだけは上手く隠していた。
「彼女はちょっと、気が強くて。そういうところが良かった。それから少し、聡かった。俺に事情があるのを察して、何も聞かないでくれたんだろう」
一つ、リアンは息を吐いた。彼女の困った様な笑みを思い出す。
「………俺は、誰一人として本気で好きになったことがなかった。女付き合いは、俺の生きる術の一つだったし…………恋愛を楽しもうとか、将来家族を持ちたいとか、そんなことは思ってなかった」
そうやって生きて来たからかもしれない。今、寂しいのは。誰も、自分を好きでいてくれない。でも、一人は寂しいから。例え自分のことが大嫌いなローエンにでも、しがみついているしかなかった。
「だから、君のお母さんに……君が出来たと言われた時、焦った。そんなつもりはなかったから。俺は、万が一がないようにしていたのに。彼女は……俺に黙って、こっそり穴を開けた」
それは裏切りだ。でも、そこまで彼女を誑かしたのは、自分だ。
「アンジェリカは、どうしても俺が欲しかったんだろう。気の強い彼女らしい……強行だった。それには覚悟があったはずだ。馬鹿な人ではなかったから。でも、俺はそれに応えられなかった」
身をソファに預ける。その時は、その後二つの命がどうなるかなんて、考える余裕なんかなかった。
「彼女は強い人だったから。俺が会わなくなっても、しつこく追っては来なかった。メールも電話もして来なかった。……しばらくして、一通だけメールが来た。君をいつか、探して欲しいって。それで君の名前を知った。それが、最後だった」
その後、きっとスラムに流れ着いたのだろう。幼い子供を抱きかかえて、ボロボロになった彼女を想像する。
「………俺が知ってるのはそこまで」
手を広げる。わざと、演技らしく大袈裟に肩を竦めた。ソニアはそれを静かに聞いていた。
「……君が知ってる彼女のことを、訊いてもいい?」
「………」
酷なことだと分かっていた。彼女には、辛い記憶もあるだろうから。だが、ソニアは首を横には振らなかった。
「お母さんは、あなたを待ってた」
「………」
「いつか、あなたが迎えにくるのを待ってた」
怒っているわけじゃなかった。ソニアはただ、淡々と告げた。
「あなたがいなくなったのは、私を生んだからだって、そう、私を責めたこともあったけど。リアンさんの話だと、母の自業自得ですよね。あなたの同意を得ないまま────勝手なことをして、私を抱えたままスラムに辿り着いた。そんなこと、その時の私には分からなかったけど。お母さんの目にあったのは、私への愛じゃなくて、あなたが来るかもしれないっていう、希望だったのかも」
ぎゅ、とソニアは手を握りしめる。
「それも段々なくなって。私を責めるようになったのは、それからだったと思います。………あの日、私たちを捕まえてた人攫いのところにあなたじゃなくて、お父さんが来て。男の人たちが女の人たちを殺し始めたのを見て、お母さんはその光景を私に見せないようにして、それから、私を木箱の中に隠しました。………それも、私のためじゃなかったのかも」
「ソニアちゃん……」
違うよ、とも言えなかった。故人の思いなんて、考えたって推測にしかならない。ソニアもそして、首を振った。
「……いくら考えたって、分からないです。今の私がそこにいたら、分かったかもしれないけど。記憶の中の母が、何を考えてたのかなんて分からないです。でも、事実として今、私はここに生きています」
胸に手を当てるソニア。そこに波打つ心臓は、穏やかだった。
「……それだけで、十分。私をここまで繋いでくれた人だから。リアンさんの言うように、母はきっと強い人だった」
ソニアは立ち上がった。リアンはその姿を見上げて、アンジェリカの面影を見た。長くてサラサラした栗色の髪も、その顔に浮かべた笑顔も。かつて見た彼女を想起させた。その娘もまた、強くて、聡い子だ。
「私は、私のルーツが分かって良かったです。何だかちょっと、寂しかったから。ちゃんと、私は繋がって来て、生きてるんだって思えたから」
自分が何者なのか、よく分からなかった。それが、これまで感じていた疎外感と、不安の原因だったのだと思う。でも、もう大丈夫だ。
ソニアは机の横を回って、リアンの隣に来た。ぽす、と座る。
「……ソニア……ちゃん」
「────会いたかったよ、お父さん」
小さな声で、遠慮がちにそう呼んで、肩に寄りかかる。リアンはどきりとした。温かさが右半身に伝わる。彼は応えられなかった。
「今だけ、こうさせて。…………少しだけ」
怖い夢を見て目覚めた幼い少女のような声で、ソニアは言った。リアンは、おずおずとその頭を撫でた。
「………ゴメンね」
リアンはなんとか、それだけ言葉を絞り出した。ソニアはそれから、何も言わなかった。
*
ガチャリと玄関で音がした。キッチンで夕食の支度をしていたローエンは、包丁を置いて振り向いた。リビングの入り口にソニアがいる。どこか晴れ晴れとした顔をして、彼女は笑った。
「ただいま、お父さん」
「────おかえり」
ローエンは笑みを返す。小走りに駆け寄って、娘を抱きしめた。
「色々、話せたか」
「うん」
ソニアは、あぁ、やっぱり安心する匂いだと、そう思った。自分の居場所は、ここが一番しっくり来る。
「お父さん、お願い。リアンさんを嫌いにならないで」
自分を離した父に、ソニアはそう言った。ローエンは少し困った顔をした。
「………うーん、それはちょっと」
「なんで。……じゃあ、私のことでリアンさんを嫌いにならないで。いい?」
「…………それなら、分かったよ」
「約束ね」
ソニアは笑う。相変わらず、彼を名前で呼んでいる。何を話したかを聞こうとは、ローエンは思わない。今のこの彼女の態度が全てだ。
「………お母さんと、ルーには話した?」
「いや。話してない」
「そっか。じゃあ、三人の秘密だね」
ソニアはキッチンへ目を向けた。まだ袋に入った材料たちが目につく。
「晩ご飯、何?」
「カレーだ」
「やったー! 私も手伝っていい?」
「勿論」
キッチンへ駆け寄り、包丁とジャガイモを手に取るソニアに、「手を切るなよ」とローエンは微笑みながら言った。大きくなったものだ。昔は、調理台を覗くことも出来なかったのに。
十年間、彼女の成長を見守って来たのは間違いなく自分と、ヴェローナだ。何より彼女は、自分の足でこの家に戻って来た。それがローエンは嬉しかった。当たり前だ、と意地を張りたい気持ちもあるが。
ジャガイモの皮を剥くソニアの横で、肉のパックを開ける。彼女は器用に皮を剥いていく。実の父親とは似ても似つかない。俺に似たんだな、とフッと笑った。鍋へ肉を投げ込む。火を付けて、胡椒を振りかけた。ジュゥゥと焼ける音がして、いい匂いがした。
「………ソニア、綺麗に剥くのはいいがジャガイモは最後の方がいい」
「え」
「包丁がねばつくからな。まぁいいよ、支障はない」
「先に言ってよ!」
ヴェローナが帰って来る。今日もモデルの仕事で疲れた様子でリビングに入って来た。匂いに釣られて、ルーカスが降りて来る。二人は何も知らないまま、キッチンに立つソニアを見て首を傾げた。今日は元気そうだな、とそんな顔だ。
ローエンはそんな二人を見て、笑って肩を竦めた。
#28 END




