第27話 嵌まるピース
ソファが転ける。もつれるようにして二人は床を転がり、リアンはデスクにぶつかった。首をしめられる。目の前の男はすごい形相で睨んでくる。ほら、とリアンは笑った。
「……殺す、じゃん、俺の、こと」
「お前っ……‼︎ お前のせいで! どれだけっ………どれだけソニアがっ‼︎」
「ね、ぇ、まず、話を、しよう。ほら。短気なのは、良くない…だろ……」
リアンは精一杯手で抵抗するが、息苦しさは増すばかりだ。力を振り絞って、ローエンの腹を蹴飛ばした。ようやく解放され、リアンは大きく息を吸い込んで咳き込んだ。ひっくり返ったソファの上に転がったローエンは、再び立ち上がってかかってくる。怒りしか籠っていない乱雑な蹴りを、なんとか避ける。デスクが代わりに吹っ飛んで、上の書類やパソコンが崩れた。
「……おいおい、事務所壊すなって」
お構いなしだ。食らったら死ぬ。そう思った。多少殴られるくらいは覚悟していたが、死にたくはなかった。
すっかり酔いは覚めている。黙っているつもりだったのに、どうして話してしまったのだろうと後悔した。一生胸にしまっているつもりだった。であればこの男との関係も、それなりに友好的でいられただろうに。
「今までどういうつもりで見てたんだ、あぁ⁈ ソニアに近づいたのはいずれ名乗りを上げる為か⁈ 俺たちが家族ごっこしてるって笑ってたのか⁈」
ローエンの声が響く。ここまで怒った声を聞いたのは初めてだった。アルベールが現れた時より怖い。心臓が縮むような思いだ。相手を脅すためだけに発される声。
「………二児の父が出していい声じゃないよ……」
「それとも何だ、今さら可哀想になったのか。お前が捨てたのに。お前が捨てなきゃ……!」
「俺が捨てなきゃ、あの子はお前のところにいないよ」
「!」
虚を突かれたように、ローエンは固まった。リアンは首元を抑えながら立ち上がると、息を吐いた。
「……これは結果論、だけどさ。……そう。問題は……俺が、そう、名乗って良いのかって話だけだ」
「……………」
「…………いや。名乗るつもりは無いんだけど、俺は」
ローエンの目が少し、落ち着いて来る。だが少し刺激しただけでまた殺しに来そうで、慎重にリアンは言葉を選んだ。
「……いつからだ」
「え?」
「いつからそうだって気付いてた」
ローエンはまだ怒気の籠った声で言った。話を少しは聞いてくれる気になったのかと、リアンは少しホッとする。
「初めに菓子屋で会った時、だよ。直接見てようやくだ。……どうしても、どうしても彼女と似てたから。それから、メールのことを思い出した。名前が……そこで俺の中で一致した」
それまで、子供の存在すら忘れていた。そういう風に生きて来た、覚えていることは覚えているが、忘れようと思ったことは忘れる。でも、本当に忘れたわけじゃない。だから、きっかけさえあれば思い出す。
「………ソニアの」
「…………」
「ソニアちゃん、の、身の上のことは知ってた。お前の身辺を調べたから。オルラントさんにも聞いた。でも、スラムじゃよくある話だと、そう思ってた」
「……父親は自分のせいでいなくなったから、自分はいらない子だって母親に言われたと、ソニアは言ってた」
忘れもしない。幼いソニアが零した言葉。ローエンはその消えた父親自身にようやく突きつけた。リアンは目を伏せると、首を振った。
「……俺が悪いんだ。あの子は悪くない」
「当たり前だ」
生まれた子供に罪はない。あるはずがない。
「俺が、臆病でなけりゃ……こんなことにはならなかった」
悔いたって過去は戻らない。ローエンはもう、それを知っている。だから、それについての議論はもう無駄だと思った。
「お前はどうしたいんだ」
ローエンは未来のことを訊いた。同じことだ、己の父と。だがひとつ違うのは、ソニアには自分がいるということだ。
「……勿論、このまま隠し通すよ。……あの子は勘が鋭いみたいだから、もう会わない。カフェで人員が半分になるなら、俺がいなくてもなんとかなるだろ」
「初めから会わなきゃ良かったろ」
「つい。最初に見た時に、声をかけたくなって。あぁ、生きてたんだって、少し嬉しかったんだ。………無責任なのは、分かってる、けど」
リアンは優しい人間だ。……ローエンはそう思っている。どうしようもなくクズなところはあるけれど、冷酷じゃない。
「お前が、AFTに協力してくれって言って来た時は、単純に……嬉しかった。お前が頼って来たこともそうだけど、少しの間でいいから、あの子を側で見ていたくて。……ただ、あの子の父親の同僚としてでも、側にいられれば良かった」
やっぱりそういうものなのか。ローエンは苛立ちを覚えた。どうして、どうしてそう。
「俺は……あの子が幸せなら、それでいい。温かくて美味い飯が食えて、愛してくれる家族がいて、頼もしい友達がいて、彼女自身が満たされているなら────俺のことなんてどうだっていいよ」
リアンは笑う。寂しそうに笑う。捨てられたソニアより、今は彼の方が孤独そうに見える。因果応報。ツキが巡り巡った結果だろう。
「ただ、一人の女を不幸にして、死なせたのには変わりない。ソニア……ちゃんの、幼少期に受けた傷だって、深いはずだ。だから──出来ることは、したい」
同じ顔。同じ顔だ。アルベールが現れた日に見せた顔と、同じだ。未練がましい顔──── 一度捨てたものを、もう一度拾いたがる顔。ローエンは、父のことは許した。でもそれは、彼が本当に後悔して、息子を愛していると、感じたからで。
「……ソニアの父親は、俺だ」
ローエンはそう言った。ソニアにとって、自分はその半生以上父親でいる。血のつながりはなくとも、紛れもない家族だった。ルーカスだって受け入れてくれた。今さら、元のところに返すだなんてそんなことは出来ない。あるべき場所は、既に自分の所だから。
「分かってるよ。“ごっこ”だなんて思ってない」
リアンは両膝をついた。首を差し出すように、項垂れる。
「お願い……しなくても、そうするだろうけど。俺のことは黙っててくれ。本人には名乗らない。それから……俺のことが殺したいくらい憎くても、この仕事は続けてくれ。一人にしないでくれ。……仲間だなんて思わなくていい。利用してくれ」
「……今さらだな」
ローエンは鼻で笑った。
「俺はハナからお前を利用する気だし、憎いし大嫌いだよ。一生、お前のことを好きになんかならない」
「………それで良い」
「でも、本当にどうするか決めるべきは、俺じゃないんだ」
リアンは顔を上げた。ローエンは壁の時計を見た。随分と時間は遅い。
「……少し、考えさせてくれ。今日は帰る」
踵を返し、大股であっという間にローエンは扉の向こうに消えた。
*
「なぁソニア、急に本当の父親が現れたら、どうする」
翌日、学校からソニアが帰宅すると、父が突然そんなことを訊いて来た。
「え? ……お父さんはお父さんでしょ?」
「そうじゃなくて……」
「あ、そっちか。……何で?」
父はキッチンで夕飯の準備をしている。背中を向けているのでどんな顔をしているのか分からない。
「………俺の父さん、本当に突然現れたんだ。その時、俺はどんな顔したら良いのか分からなくて。戸惑って、まず怒って、そんで、絶対許さないって思った」
「でも、お父さんは許したんでしょ?」
「……うん。許した」
ソニアは父の生い立ちを、そう深くは知らない。彼が小さい時に、その父はいなくなったんだな、とそんなくらいだ。
「フィリアスさん、良い人だもんね。……あ、おじいちゃんの方が良いのかな。ルーはもう、そう呼んでたけど」
アルベールの正体を知ったルーカスは嬉しそうだった。すぐに懐いた。前に家に来た時から、それなりに仲良さそうだったが。
「……おじいちゃん、には、私のことは言ってるの?」
「まぁ。……でも」
「分かってるよ。お父さんはそんな風に思ってないって」
実の子ではないこと。でも、父はちゃんと我が子として愛情を注いでくれている。それを、この十年ちゃんと感じている。
「………私のお父さんはお父さんだけだよ。だから……そうだな、もし、自分が本当の父親ですって誰かが出て来ても、そっちに行ったりしないよ」
「……本当に?」
そう訊ねる父の声は、少しだけ不安そうだった。
「…………ねぇ。どうしたの?」
「何が。……どうもしてないよ。俺とお前は少し、境遇が似てるから。お前だったらどうするのかなって、そう思っただけだ」
誤魔化しだ。そう思った。ソニアは歩いて行って、父の腕を掴んだ。
「ねぇ。そういうの分かるってば」
「ソニア。………お前、実の母親の名前、覚えてるか」
「えっ」
手を止め、振り返った父は縋るような、そんな目をしていた。
「……ううん、知らない」
「顔は」
「えっ……と、私と同じ髪色で、緑色の目をしてた……」
父の目は一瞬だけ、絶望のような色を見せた。そしてまた、夕飯の作業に戻る。
「…………そうか」
「ねぇ、何なの? もしかして、本当に……」
「…………」
「お父さん?」
父はそれ以上何も言わなかった。トントンと包丁の音が響く。コンロで何かが煮立っている。
ソニアは静かに、後ずさった。あまり音を立てないように、静かにリビングを出た。階段を上がって、自室の扉を開ける。宿題をやらなきゃ。そんなことを思ってみるが、頭の中はさっきの父のことでいっぱいだった。
(……急に、もし、本当のお父さんが現れたら? ……分かんないよ、いるかもだなんて、考えたことないのに)
さっきの言葉に嘘はない。でもきっと、今だから言えることだ。本当の父親を知らない、今だから言えることだ。本当にその人を前にしたら、どう思うかなんて分からない。実感がないのだから。
(お父さんは、怖かったのかな。突然、知らないお父さんが現れて)
戸惑ったと言っていた。怒ったと言っていた。でも、きっと嬉しくもあったに違いない。そうでなきゃ、許したりしない。
(私は、本当のお父さんをどう思ってるんだろう?)
顔も名前も知らない。どうも思ってないのだろう。知らないものに焦がれようもない。今、目の前にいるその父で十分過ぎる。ソニアにとって、父親は彼以外にはいない。
でも、時々感じる寂しさのようなものを思い出した。疎外感。年相応でないような、父との関係性。父よりも、きっと自分の方が揺らいでいる。そこへもし、本当の父だと名乗る人が現れたら。
本来嵌まるハズだったパズルのピースのように、自分はそこへ、行ってしまうのだろうか────。
「姉ちゃん、帰ってるー?」
「!」
ルーカスの声が、扉の外でした。扉を開けると、ノートと筆箱を抱えた弟の姿があった。
「姉ちゃん、どーしても宿題が分かんなくてさ、教えてくれよ」
「………」
「姉ちゃん?」
ぼけっとしているソニアの顔を、ルーカスは不思議そうに覗き込んだ。ソニアはっと我に返る。
「ん、あ、ごめん! えっと、何の教科?」
「算数だよ算数、姉ちゃん得意だろ」
「うん、おいで」
ルーカスを部屋に招き入れる。父と同じ色をした髪が揺れる。母と同じ色をした瞳が笑う。自分にはないもの。
(あぁ…………)
どうして。自分が望んだことなのに。
────どうして、こんなに胸が苦しくなってしまうのだろう。
ルーカスが、ソニアのデスクの横の丸椅子に座る。ソニアは立ち尽くしている。いつも気にならなかったことが、気になる。無性に悲しくなった。ルーカスのことが、羨ましくなった。
「? 姉ちゃん?」
血の繋がらない弟は、そう自分を呼ぶ。その呼び方が、自分をここに繋いでいる。ルーカスは、事実を知っている。それでもなお、自分を姉と呼んでくれた。だから、ソニアもそうあるべきだった。彼は間違いなく自分の弟だ。でも、でも、でも。
はら、と雫が落ちた。視界が歪む。丸椅子が転ける音がした。自分の手で視界を覆う。足音がして、腕を小さな手に掴まれた。
「姉ちゃん? 姉ちゃん!」
「……ひっ、うっ……」
「どうしたんだよ! なぁ!」
床に泣き崩れた。じっと、堪えていたものが溢れて来るようだった。弟の顔を見れない。声を上げて泣いた。何も考えられなくなった。ただ、どうしようもない悲しみが頭を支配する。
ルーカスが慌てた様子で自分を揺さぶる。弟の前で泣くなんてみっともない、とかそういうことを考える余裕もなかった。
後ろで扉が開く音がした。ルーカスがはっとして動きを止める。
そっと、後ろから抱きしめられた。その温かさに、ソニアは目を開ける。見慣れた手だ。安心する匂いだ。
「ソニア」
これ以上ないくらい、安心する声がする。
「………ごめん。不安にさせたよな」
波立っていた心が、落ち着いて行くような気がした。
「……ルーカス。ご飯出来てるから母さん呼んで下で待っててくれ」
「う、うん」
弟はバタバタと部屋を出て行った。二人になる。ソニアは顔を上げられなかった。急に、恥ずかしさがやって来る。
「……お、お父さん」
「ソニア。お前は俺の娘だよ。忘れるな」
父が離れる。優しい指がソニアの涙を拭った。その目はとても穏やかだった。
「………分かってる。分かってるから、辛いんだよ」
ソニアはそう、零れるように言った。青い瞳が揺れている。ローエンは、その揺らぎに覚えがある。……あぁ、本当に。
「ソニア。これはお前に決めて欲しい」
「……何?」
ローエンは覚悟を決めた目をした。ソニアは思わず、姿勢を正す。彼が何を言うのか、何となく、分かった。
「────お前は、本当の父親に会いたいか?」
*
答えは保留した。一晩考えさせて欲しい、とそう言った。
(……見つかったんだ…………)
ぼんやりと、そう思った。晩ご飯はあまり喉を通らなかった。どこか、いつも見ている家族が遠いような気がした。
ベッドに入って、暗い天井を眺めている。ずっと、自分はこの家でどこか疎外感を抱いていたのだと自覚した。
スラムで共に過ごした母親の顔は、もうはっきりとは思い出せない。暗がりの中で光っていた、緑色の瞳はよく覚えている。最初は穏やかだったその瞳は、段々と翳って行った。そのうち、ソニアを罵るようになった。母はずっと、いなくなった父親の影を追っているようだった。いつか戻って来ると信じていた。そんな日が来ることはなく、いつしか人攫いの男たちに捕まって、母は度々連れて出られて、戻って来るごとに元気を失くしていた。父親の名をぼやいていたような気もするが、思い出せない。毎日が怖くて、不安だった。自分が死ぬことよりも、母が死ぬことの方が不安だった。
あの日。ローエンが来た日。男たちは大騒ぎして、商品の女たちを始末した。母は自分を、木箱の中に押し込めた。母には嫌われていると思っていた。だけど、今際の際にああしたのは、他でもなくソニアを愛していたからだ。ソニアは今、そう思う。
静かになって、木箱から這い出した時に、テントの外で気配がして息を潜めた。暗闇の中に差し込んだ光。彼は少し中を覗いて、立ち去ろうとした。その時自分は物音を立てて、彼に見つかった。決して穏やかな声ではなかったけれど、一人で心細かったソニアは、導かれるように彼の前に姿を現した。
父を知らなかった。だから、あの神父の提案もあって彼を“父”と呼んだ。あの時は、まだ明確な意味を持っていなかったと思う。便宜上、自分が付き従う対象として「おとーさん」と呼んでいた。
……多分そう。そうだった。今の自分なりに、当時の自分を分析しただけだ。
自分が今ここにいるのは、きっと、本当の父を知らないからだ。顔も名前も知らない父親が、母と自分を捨てて行ったからだ。
「…………会いたい、のかなぁ」
会って、何を話すのだろう。もし……もし、彼がアルベールのように苦悩しているのであれば。自分は大丈夫だと、言ってあげればいいのだろうか。……それとも。
布団を頭まで被る。眠れそうになかったが、無理やり目を閉じた。
#27 END




