第26話 好奇心は安寧の敵
ローエンとアルベールが一階に降りて来ると、ローエンはリアンがいないことに気が付いた。
「……あれ、リアンは?」
「先に帰った……って言っといてって言って帰ったよ」
ルーカスがそう言いながら歩いて来た。ザカリーも一緒だ。ローエンはザカリーが物憂げな顔をしているのを見て、大体のことを察した。
ローエンは屈むと、ザカリーの頭を撫でながら訊く。
「………何か言われたのか」
「……いえ。……大丈夫、です」
ザカリーはそう答える。しかし、横からルーカスが言った。
「おじさん、ザカリーの父さんのことキライだったって言ったんだ」
「!」
「ルー……!」
ザカリーは慌てたようにルーカスを見る。
「なんで? ザカリーの父さんはイヤな奴だったの?」
ローエンは首を横に振った。勿論、リアンにとっては許せない人間だっただろう。それは分かっている。でも。
「そんなことない。俺は好きだったよ。大事な友達だった。……ただ、ちょっとした事情があるんだ」
「ジジョーってなに?」
「………それは……」
「おれたちのためにならないから、何も教えてくれないの?」
「!」
リアンめ、余計なことを言ったなとローエンは心の中で毒づいた。
「……そうだよ」
そう答えるしかない。子供の好奇心から守るのは大変だ。
子供たちの目から逃れるように立ち上がると、アルベールの方を見た。これは、もう教えたっていい。
「………ルーカス。代わりに一つ良いことを教えてやる」
「何?」
息子一人に答える代わりに、ローエンは手を叩いた。皆の注目が集まる。
「みんな、聞いてくれ。大事な話がある」
ローエンの隣に、アルベールが並ぶ。皆の視線が集まると、急に緊張が走った。声が出なくなる。その肩をアルベールは優しく叩くと、代わりに口を開いた。
「みなさん、今日は寄せていただいてありがとう。スラム街のために、新しいことに取り組もうとしているみなさんを、私はこれからも応援したい。そのためにまず、私の身の上をきちんと明かしておきたい」
凛とした声だった。真剣な顔とその声に、自然と皆が聞き入ってしまう。社会での成功者。人を惹きつける力、それを彼は持っていた。
「私はここにいる、彼の父親です」
アルベールがローエンの肩を持って言った。部屋の中がざわつく。
「……やっぱり」
アントニオがぼそっと言う。ソニアも同じように思っていた。
「…………父さんの父さん……」
ルーカスはそう唱えたあと、はっとした。
「えっ、おれのじいちゃんってこと⁈」
「実はそうなんだ、ルーカス君。黙っていてごめんね」
申し訳なさそうに笑うアルベール。しかし、すぐに元の顔に戻ると続けた。
「事情があり、隠していたことを謝罪します。私があなた方に協力するに至ったのは、彼の要請あってのことです。私は過去に、彼に許されないことをした。だから、その贖罪のため……でもありましたが」
アルベールは少年少女を見渡した。
「あなた方の活動に感銘を受けたのは、嘘ではありません。私自身、この仕事をしているのは、多くの人の命を救いたいからです。私が彼の父であることは、きっかけに過ぎません。私は私の意志で、あなた方AFTの力になりたい」
アントニオは彼の視線を受けて、思わず姿勢を正した。一組織を率いる者として、試されているような気がした。
「レイモンド君。いずれあなた方はこのAFTを会社にしようとしていると聞きました」
「………はい。そうです」
「レイモンド君さえ良ければ、うちの子会社として立てませんか」
アントニオはそんなこと、思ってもいなかった。天上から突然照らされた、蜘蛛の糸を見たような気持ちだった。
「そっ……それは、出来ることなら……!」
「勿論、子会社は親会社から一部制約を受けてしまいますが。……事業内容からして、信頼はあった方が良いでしょう」
「………」
緊張。つまり、それは信頼を借り受けると言うことだ。下手なことは出来ない。急に、大きな責任感を負った。自分がしようとしていることは、それほどに大きなことなのだと。
ぽん、とその背中を叩いたのはブルーノだった。彼は人一倍、人の感情に敏感だ。
「トニー。君は一人じゃない」
「ブルーノ……」
「フィリアスさん。ご厚意に感謝します。僕たちはご覧の通り社会では右も左も分からない……僕に至ってはそもそも見えてませんけど。ぺーぺーの若者です。あなたのような方の協力があると、非常に心強い」
ブルーノは見えていない目をアルベールの方へ向ける。その意識がしっかりと自分に向けられているのを、アルベールは感じた。
「そうですか。それは良かった。……子会社を作ることには私たち側にもメリットがあります。ですが……新規の会社を、となると上層では反対をする者も出て来るでしょう。ですから、この準備期間に組織の名前を上げること、会社を立てる時にはきちんと経営方針をまとめていること。名と中身がはっきりしているものには、人は不安を抱かない。だから、それを念頭に……これからの活動を頑張っていただきたい」
アルベールは胸に手を当て、お辞儀するように目を伏せた。顔を上げると、アルベールは傍らのローエンへ目を向けた。
「……すまない。私が全て話してしまった。何か言いたいことがあったかい?」
「いや……助かったよ。俺、アンタみたいには話せないからさ」
父のすごさを思い知る。それはそうだ。相手は、大企業の主なのだから。そんな人を、利用しようだなんて、自分は。
「……と、いうわけなんだ。その、隠してて、ごめん」
「隠しきれてなかったけどな……あんまり」
アントニオは言う。ソニアもうんうんと頷いた。
「家に来た時、なんか変だなーって思ったよ」
「………あぁ……」
「あぁそうだ、ヴェローナさんにはすぐにばれてしまった」
「そうみたいだな……」
その日の夜を思い出す。彼女は昔から何かと鋭い。
「本当にお父様だなんて。……私は全然分からなかったわ」
「僕も……」
ルーシーとライリーが言う。リノも頷く。
「でも、すごい縁だね。これならなんだか、色々実現しそう!」
「そうだぜ、やー、オレたちの夢が叶うかもって思ったらやる気出て来たな」
ローレルが小さくガッツポーズをする。
「まぁ、姉さんたらやる気なかったの?」
「そ、そんなことはない! もっと出るって意味だよ!」
ヴァージルのツッコミに慌てるローレルに笑いが起こる。アントニオもそれで緊張が緩んだ。
「……フィリアスさん、ありがとうございます。俺……俺たち、頑張ります。だから、応援しててください」
深々と頭を下げた。アルベールは微笑んだ。
「ええ、勿論。期待してますよ」
*
真っ暗な事務所の扉を開ける。電気のついていない部屋のソファに転がっている人影を見つけた。
ぱちりとローエンは電気をつける。みじろぎひとつしないその姿に、ローエンは目を細めた。
「……おい。閉めるぞ」
「いいよ……俺ここで寝るからさ……」
眠そうな声がする。むっと酒の匂いがした。テーブルの上に空いたビニール袋と酒瓶が転がっているのにローエンは気付く。それを手早く回収して、ローエンはうつ伏せで寝たままのリアンの腰を蹴った。
「いった!」
「起きろ。……全く……荒れすぎだろ。ザカリーを連れてったのは俺の不注意だったよ。ゴメン」
「……今日は素直だなお前。何なんだ。くそ、晴れ晴れとした顔しやがって」
「は? ………まぁ、確かにわだかまりがひとつ解けたけど……」
「へぇ。良かったですね」
むくりとリアンは起き上がる。いつも無造作に束ねている髪がばらりと解ける。見るからにやさぐれている。
「………呑み過ぎだ」
「ローエン。俺のことを心配するなよ。俺をこんなところに置いておいて、心配なんかするな。俺が苦しんでるのを見て笑えよ。なぁ。その為に生かしたんだろ」
「……何言ってんだ」
────初めはそうだったのかもしれない。崩落の堰を切ったリアンを、許さないために生かした。あのまま勝ち逃げみたいなことをさせたくなかった。でも、自分もある意味では共犯者だ。自分の好奇心だって、崩落のきっかけだった。
リアンのことは好きじゃない。出会った時から、今までずっと。それでもここまでやって来た。同じ記憶と罪を有した者同士、やって来た。
ローエンは向かい側のソファに座った。リアンは目を合わせない。荒れた前髪から覗く青い瞳は揺れていて、泣き出しそうに見えた。
「………笑ったりしない。思ってることを話せよ。今日は聞いてやる」
「お前は……お前の大事な子供に俺が何か吹き込まないかって、心配なんだろ。心配なのは俺じゃない。俺のことなんか信用してない。……安心しろよ、そんなことするもんか。これ以上、イヤな連鎖を続けたくない。俺はお前に嫌われたくない。また一人になるのはゴメンだ」
リアンは元々饒舌な方だが、今日はもっとよく喋る。酒のせいか、いつもよりもっと、本音に近いところで喋っている。
「だから……俺は、“何でお前だったのか”って、ずっと考えてる」
「………」
前も言っていた。その言葉の意味を、考えたが分からない。リアンが一体、何を抱えているのかも。
「俺が、気が付かなきゃ良かった。気が付いてないフリをしていれば良かった。……それだけのことだ。だけど、無理だった。あの少年が、どうしても俺の大嫌いな奴を思い起こさせる様に…………俺には」
息が切れて、リアンは言葉を切る。何度か呼吸を繰り返したあと、彼は続けた。
「………俺が何で情報屋なんてやってるか、知ってるか。俺は記憶力が良いんだよ、昔から。下らないことでも、少し興味があって聞いたことなら覚えてる。根無し草の俺は女の間を渡り歩いてた。ちょっと愛想を見せたら、皆んな俺を可愛がって養ってくれた。何人かは忘れたけど、何人かは今でも顔と名前をちゃんと覚えてる。……そういう能力を買って、あの人は俺を拾ってくれた」
要領を得ないリアンの話。でも、ローエンはそれを聞かなければならない気がした。ここで去れば、二度と話してくれないような気がして。
「俺が、26の時……この街に来てしばらくした頃だ。……オルラントさんと出会う少し前かな。同郷の女と出会った。俺と同じ髪色をしてた。綺麗な緑色の目をした女だった。………俺はその頃も何人とも付き合ってたけど、彼女を一番頼ってた」
リアンの目はどこか遠くを見ている。それからしばらく、リアンは口を閉ざした。静寂が部屋を覆い尽くす。やがて、彼はゆっくりとローエンの方を見た。
「……俺はこの先を、お前に話す勇気がないよ。お前は俺を蔑む。嫌いになるし、殺すかもしれない」
「…………なんで」
「お前が一番怒ることを、俺がしたからだよ」
「……知ったようなことを」
「殺さないって、言わないんだ」
リアンは嘲るように笑った。でも、それはローエンだけに向けたものではなかった。
ローエンは、一呼吸置いて口を開いた。
「……安心しろよ。俺はお前のことが嫌いだ」
「あ、そう。じゃあきっと俺のことを殺すね」
「おい……」
「いいよ。話の続きをしてやる」
リアンはさっきより、どこかぎらついた目をしていた。薄っすらと笑みを浮かべて、その先を続けた。
「彼女の名前はアンジェリカ…………俺が一生、絶対に忘れない女だよ。……いや、一度は忘れたけど。それでも思い出した。思い出さなきゃいけなかった。忘れてなんかいられなくなった。あの子に会ってしまったから」
「……あの子……?」
ローエンの問いに、リアンは意地悪そうな笑みを浮かべただけだった。
「アンジェリカは良い女だった。俺の愚痴を何だって聞いてくれたし、美味しい料理も作ってくれた。決して裕福じゃなかったけど、優しかった。俺のことも、あまり深くは知らないでいてくれた」
でも、とリアンは顔を曇らせる。
「ひとつだけ間違いだったのは、俺と違って彼女は本気だったってことだ」
ローエンも、数多くの女性と付き合うに当たって細心に注意を払っていたことがある。リアンの目にゾッとした。表情じゃない。いつも見ていたその色が、急に別の意味を持ったからだ。
「………お前」
「──────付き合い初めて十年くらい経ったある日、彼女が言って来た。子供が出来たって」
薄っすらとした笑みを浮かべたまま、リアンはそう言った。
「まだ大きくない腹を摩りながら、すがるような目をして、言って来た。依存してたのは俺じゃなかった。向こうの方だった」
リアンは項垂れ、頭を抱える。青い瞳が見えなくなる。ローエンは心臓が跳ねているのを感じた。今すぐここを立ち去るべきだと思った。立ち上がって、ドアに鍵を閉めて、帰るべきだと思った。でも。
「でも……でも、俺は、逃げた。逃げたんだ。怖くて」
逃げることは、悪いことだ。そんなこと、許せない。逃げるなと、初めに襟首を引いたのは自分だった。だから今、ここにこの身を留まらせているのは自分自身だ。
「────アンジェリカと、その子がどうなったのか、俺は知らなかった。……いや、正確には知ってたんだ。ただ、繋がらなかっただけで」
リアンは目を上げた。その時ローエンは確信した。自分はその色を他に知っている。
「アンジェリカは、俺と籍を入れるつもりだった。ある時から急に、俺に対してたくさんプレゼントをするようになって……それから、その話をされた。子供が出来た。結婚して欲しい。私のものになって。……そうはならなかった。俺は、彼女の前から消えた。やがて、彼女は子供以外の全てを失って────流れ着いた先はスラムだった」
ローエンの顔を見て、リアンは嫌な笑みを浮かべた。出会った時のような、敵意のこもった笑みだった。
「……お前はこれに似た話を知ってるはずだ」
「────────」
言葉が出なかった。リアンが話すのを渋っていた理由を悟る。でも、もう遅い。────いつでも好奇心は、身を滅ぼす。
「お前は────」
「そうだ。リタ・ローエン。俺はお前がきっと、『見つからなきゃいい』と思ってた男だ」
目の前の男は笑っている。自分自身と、ローエンに向けた嘲笑。そこにいるのは、愚かな二人の男。
リアンは、そして、一瞬だけ憂いの目を見せ、その口を開いた。
「アンジェリカから、最後に届いてたメール。思い出したよ。“いつか必ず、娘を探して。娘の名前を覚えていて。娘には─────”」
一瞬、一呼吸置いて、試すような、覚悟をしたような目をした男。その口元が、ローエンにはスローに見えた。
「“ソニアと、名付けるから”」
事務所全体が揺れたような気がした。それくらい、勢いよくローエンは立ち上がって、リアンに掴みかかった。
#26 END




