第25話 その一歩は誰が為に
テーブルの上に、出来立てのガレットが並ぶ。学校終わりと、一働きして来た人たちには丁度いいくらいのサイズだ。
「いただきま〜す!」
「どうぞ」
元気なソニアの声に、いつものようにローエンは答える。自分の分と、アルベールの分を持って席の前に来ると、ローエンは父に言った。
「……ちょっと、来てくれ」
*
二階席。窓側のカウンター席に、一つ間を開けて並んで座る。正面の通りを行き交う人がよく見える。
「先ほどはすまない、ルーカス君の言葉に少し動揺してしまった」
「仕方ない。俺も動揺したからな。……ハァ」
子供というのはどうしてこう鋭いのか。こういう時は昔のようにイヤになる。ソニアに至っては察しが良すぎて、自分たちの本当の関係に気付いているかもしれない。
「リタ」
「……ん」
「もう、やめないか、こういうのは……」
ローエンは父の顔を見る。消え入りそうな声。俯いて険しい表情。彼の意図は分かっている。自分のために言っているのではない。だから、ローエンは怒らなかった。もう一つため息を吐いて、頬杖をつく。
「………俺とアンタって、そんなに似てるのか」
「さぁ。私はお前はメリンダ似だと思っているが」
「母さんにはアンタに似てるって言われたよ。……俺自身じゃ、全然分かんないけど」
アルベールは、吐き気がする程にお人好しだと思う。だけど、結局自分だってそうだ。あんなに許したくないと思っていたこの父を────あまりにも誠実なこの父を、もう、許してやってもいいと思っている。怒り続けることに疲れてしまった。彼ほど自分は誠実でも、善人でもないけれど、根底には彼から受け継いだものがあって────。
『……お前は逆だ。優しいようで…………その本質は冷たい』
リアンの言葉が蘇る。どちらが本質かだなんて分からないとローエンは答えた。今でもそうだ。
でも現に、今抱いているこの感情は。根底の魂が、あの時誰にも助けてもらえなかった幼い自分が、「もう良いよ」と言っている気がした。
それが、相手が実の父親だからなのか、そうでなくてもなのかは分からないが。
ローエンは深く息を吸い込み、口を開く。……だが、言葉は出なかった。それでもまだ、表面にいる自分が躊躇っている。そう、そう簡単に許していいものか。この“呪い”は一生付き纏って来る。この傷は、そう簡単に消えるものじゃない────。既に泣き止んだ子供を庇うように、大人の自分の心は過保護だった。
「……無理に私を許さなくていい。過去のことは変えられない。これからだって、私はお前の力になるよ。この身で出来ることならば、何でも」
息子の心内を察したように、アルベールは言う。
「だが……いつまでも過去に囚われ続けてもいられない。……私が言うべきことではないが。だが、私はそう思ってお前の前に現れたんだ」
「…………」
「ずっと、後悔していたんだ。私は───彼女とお前の元から逃げ出して、目を背けて、仕事のことばかり見るようにしていた。気が付いたらこの歳で、そろそろ一線を退くことを考えた時、本当に、このままでいいのかと思った」
ローエンは父の吐露を黙って聞く。アルベールは俯いたまま、己が過去を振り返るように続けた。
「後悔したまま死ぬ前に、私は私の罪に向き合うことにした。だから、私が姿を現したのはただの独り善がりだ。許して欲しいだなんて思わない。だが………だが」
「分かってる。……このまま膠着状態でもいられないって」
ローエン────リタは、ようやく言葉を返した。
「そろそろ、先に進んだっていい。……そうだろ」
「リタ……」
アルベールはようやく息子の顔を見た。その目に宿った微かな希望の光を、リタは見る。あぁ、なんて眩しいのか。つい手を伸ばしたくなる。己の中に既にあった、淡い期待を自覚する。彼の目に映っているのは、自分の中にあるそれなのかもしれない。
「一生かけて許さない気でいたんだ。でも、それじゃ誰も得しない。ただ疲れるだけだ。過去のことで疲れてなんかいられない。……俺は今、未来のために頑張らなきゃならないから」
スラムのため。子供たちのため。愛する人の希望に応えるため。後ろを向いて、足踏みしている暇などない。それらの実現のためには、彼の力も必要だから。
「頼みがあるんだ、父さん」
初めてちゃんと、そう呼んだ。体ごと彼の方を向いて、正面から父を見据えた。自然と、父も正面から向き合った。
「────何だね」
ぬかるんだ地面を抜け出して、固い地面へ踏み出すような、そんな気持ちだった。そこは知らない土地だ。でも、独りじゃない。
「この、AFTのカフェ事業がある程度軌道に乗って、資金が貯まったら───アントニオたちでAFTを会社にするつもりなんだ。父さんは、応援したいと言ったろう。その会社を、フィリアスグループの子会社にして欲しいんだ」
フィリアス製薬。この国でも有数の大企業。傘下の子会社は既にたくさんある。そこに、AFTも加えて欲しいというわけだ。どうしても、ローエンはAFTに強力な後ろ盾が欲しかった。
「………会社ぐるみ、となると私の一存では難しいが。分かった。レイモンド君のことは私も気に入っているよ。だから……そうだね。そうなると、会社方針を詳しくまとめて持って来て欲しい。それから、実績もね。この類のことは、口先だけではないと証明出来なくては協賛はなかなか得られない」
そう言うアルベールの顔は、一人の父ではなく大企業をまとめる社長だった。しかしローエンが頷くと、すぐにふっと顔を緩め、優しい声で言った。
「心配いらない。彼らと、お前ならきっとやり遂げる。頑張りなさい。私は、絶対に味方だから」
父の言葉ほど、心強いものは無かった。その時ローエンは、失われていたものが埋められていくような気がした。
湧き上がってきた明るい感情を恥ずかしさと共に押し込めて、ローエンはカウンターに向かった。
「……ガレット、食べてくれ。冷める前にさ」
「そうだな」
*
リアンは他に誰も座っていないテーブルで、ぼうっとしていた。ガレットはもう食べてしまった。物足りないなと思う。もっと食べたい。
少年少女はワイワイとお喋りをしている。50代の自分は、今の若者にはあまりついて行けない。若いっていいなと思うと共に、自分が18の頃を思い出した。あぁ、あの反りの合わない眼帯野郎と出会った頃だ、と片眉を上げた。喧嘩ばかりしていたが懐かしい。仲良くあの人の拳で両成敗されていたのも懐かしい。……白の髪と紫の瞳。それはアイツだけじゃなくてあの人もそうだった、とリアンは気が付いた。どうせならあの人そっくりに育てばいい、とリアンはザカリーへ目を向けた。……と、そこで彼とルーカスが近づいて来ているのに気付いた。
「んお」
「なぁ、おじさんって父さんのドーリョーなの?」
ルーカスが座りながら言った。まぁ、とリアンは頷いた。
「そうだね」
「じゃあさ、おじさんも強いの?」
好奇心の目。大きな瞳はローエンの色とは違う。目元のほくろと合わせて、リアンはヴェローナの面影を感じた。遠目に見ると小さいローエンみたいだが、間近で見ると母親の方によく似ている。
「君のお父さんほどじゃないけど、それなりにはね」
「じゃあおれにさ、“ごしんじゅつ”ってやつ教えてよ」
「それは………勝手にやると君のお父さんに怒られるから、断るよ」
「なんで!」
「ごめんね」
ぶー、とルーカスは年相応の不満げな顔を見せる。父がダメなら他の人に、という考えだったのだろうが大人はそんな甘くないぞ、とリアンは心の中で微笑んだ。
「ルーカス君は、強くなりたいの?」
「うん。だってそうしたら、母さんとか、姉ちゃんのことも守れるし、怖いことがなくなるだろ」
「そうだね」
「悪いやつもぶっとばせるし」
男の子はヒーローに憧れる。彼もまたそういう目をしていた。父がそういう事をしていると聞いたのか。でも、それがそんなに良いものじゃないことをリアンは知っている。
「……ルーカス君は、何が怖いの?」
そう聞いた。意外にも、少年は神妙な顔をして考えた。少し迷って、さっきより不安そうな顔をしてルーカスは答えた。
「………父さん」
「え?」
「父さんだよ。いつもは、怖くないけど。ときどき……なんか、知らない人みたいな感じがして」
躊躇いがちに言うルーカスに、彼は父のことが大好きなのだろうとリアンは思った。だからこそ、怖い。ローエンは自分が殺し屋だった事なんてこの少年に言っていない。でも、どうしても、スラムに関わるとその片鱗は見える。子供は聡い。親のことをよく見ている。
「おじさんは父さんのこと、よく知ってる?」
「…………知ってるよ」
何なら────その隣で静かに座っている少年の父が、どうやって死んで行ったかも知っている。ローエンと自分しか知らない。それくらい、ある意味密接な仲になる。敵だった頃に、ローエンがまだ神父に拾われて間もない頃から、彼についての情報は少しずつ集めていた。だから、よく知っている。
でも、それは少年に言うべきことじゃない。昔の自分なら言っていたかもしれない。相手をただ絶望させたくて、恐慌させたくて。信じていたものが崩れる瞬間を────宿敵の寵児が、暗闇に堕ちていくのを見たいと思ったかもしれない。
隣に座る白い少年を見る。彼はきっと、もっと父親のことを知らない。まつ毛が長いなと思った。そういえば、なんだかんだでアイツが付き合ってた女のことは突き止めたんだった、と思い出した。金髪で長いまつ毛の女。なるほど。この二人は母親から良いところを継いでいる。
リアンが黙っていると、ルーカスはその顔を覗き込んで来る。
「なぁ……」
「お父さんは何で、君にそれを教えてくれないんだと思う?」
リアンは意地悪げに笑う。ルーカスはたじろいだ。
「……わ、わかんないよ」
「知られたくないからだ。それが、君のためにならないから」
ルーカスは怪訝な顔をする。すると、ザカリーが口を開いた。
「ぼくも…………父さんのことをローエンさんに聞きに行った時、あまりくわしくは教えてもらえませんでした。それも、ですか」
「そうだね」
凪のような声だ、とリアンは思った。この子は将来どうなるのだろう。父親のようにはならないで欲しいと、切に願った。ローエンが黙っているのは、それでだろうか。
「………あいつは根が優しいからさ」
先日言った言葉と矛盾した言葉が出る。あぁ確かに、分からない。
「君たちはまだ────何せ幼い。もう少し大きくなればいずれは、話してくれるかもな」
「大きくって……」
「守られてるんだよ、君たちは。だからそう、まだ守ろうとしなくていい。今はね。そのうち、誰も守ってくれなくなるからさ」
大人だから分かること。子供には分からないこと。だから、教えなきゃならない。でも、教えたって彼らにその実感は湧かないだろう。すぐに分からなくてもいい。きっと、分かってくれる。
ルーカスはじっとリアンの顔を見ている。はたと気が付いたように、ルーカスは言った。
「……おじさんって、姉ちゃんと同じ色の目してる」
「ん?」
「おれの姉ちゃん、ほんとの姉ちゃんじゃないからさ。……あ、いや、姉ちゃんは姉ちゃんだけど。………一人だけ、ちがうから、なんか、うーん、気になる、色なんだ」
一生懸命言葉を選んでいる。ありのままを話そうとすると、思っていることと違うようになるみたいだ。それを、リアンは微笑ましく思う。
「………ここから北の方に行くと、俺とか君のお姉さんみたいな髪と目の色をした人が、たくさんいるんだ。だから、そうなんだと思うよ」
この前、ソニア自身にも同じ話をした。知っている人と似ているところがあると、気になるのだろうか。
「……そうなんだ」
ふーん、とルーカスはテーブルに突っ伏した。それを見てか、今度はザカリーが口を開いた。
「おじさん、さっき……ぼくに何か言いかけましたか」
「……ん? あ、あぁ、知り合いに似てたからつい……」
最初に見た時のことだ。あれだけ見たら、怪訝に思うだろう。
「ぼくの父さんを知ってるんですか?」
「…………うん。まぁね」
でも、リアンの口から言えることはない。彼の祖父のことの方がまだ話せる。それはもう、胸の中にしまっておくことにしているが。
「何でもいいんです。教えてください」
それでもやはり、少年は聞いてきた。リアンは少しだけ悩んで、ぽつりと言った。
「君によく似てた」
「……それは聞きました」
「俺は、嫌いだったよ」
少しの苛立ちと共に、そんな言葉を吐いた。少年はショックを受けたようだった。リアンは揺れる瞳を見て立ち上がる。
「だから、俺には訊かないで。もう忘れたいんだ。忘れないと……」
あぁ、イヤだ。終わったのに。この感情はもうとっくに捨てたのに。
「………俺は先に帰ったって、ローエンに言っておいてくれるか」
「おじさん……」
ザカリーの声にはもう応えなかった。これ以上はいけない。心が乱される。あの少年が彼ではないのは分かっている。分かっているからこそ、リアンは今すぐここを離れる必要があった。
ガラゴロとドアベルが鳴る。通りに出る。行き交う人々。詰まっていた息を大きく吐き出した。なぜ、自分だけ生きているのかと時々考える。最近はあまり考えなかった。でも……でも。
心臓が跳ねている。この苦しみを感じるくらいなら、いっそ。あの時そのまま、皆と一緒に死ねば良かった。
それを許さなかったのはローエンだ。無理やり死の淵から引き上げて、この地獄に残ることを選ばされた。
「………俺には眩しすぎるよ」
目を背けたくなる。この建物の中で未来に生きる若者たちは、あまりにも眩しくて、焼かれるような思いだった。
だからって、ローエンを恨みはしない。自業自得だ。あの時死ねれば良かったと思うが、今死にたいわけじゃない。まだ、逃げるわけにはいかないからだ。
事務所へ向かって、一人歩き出す。
昔からよく一人で行動していた。特定の誰かに依存せず、フラフラと渡り歩くのが自分だった。移り気の自分が得た、一つの巣が“あの人”だった。そして、リアンから、リアンたちから“あの人”を奪ったのがその子供である“アイツ”────“アイツ”の子であるザカリーは、恩人と仇の二人の血を引いている。複雑だ。仇である“アイツ”もまた、“あの人”の血を引いているというのに。
(………そんなもので、情が湧くなんて)
理屈じゃない。だから考えれば考えるほど分からなくなる。この胸のつっかえた感じはそれでだ。それは、あの少年のことだけじゃない。
手を握りしめた。足を早める。一人で向き合うには辛かった。早く帰って、酒でも呑んで早く寝てしまいたかった。
#25 END




