第2話 歪な探偵
時は少し戻り。朝。
アザリアの隅にある二階建ての建物。二階の窓には「依頼募集中」の文字。窓のすぐ下には「ストレイン探偵事務所」の文字がある。
階段を登り、ドアを開けたローエンは、顔をしかめた。
「うぃーっす、おはよ」
「……おはよ」
「何だよその顔」
入ってすぐ、ドアと垂直に並んだ接客用のソファ。その左手側にリアンが寝転んで新聞を読んでいた。裸足の足がこちらに向いている。
「…………事務所を私物化するな」
「何でだよ、ここ俺の家じゃん」
「居住スペースは一階だろ」
「そうお堅い事言いなさんな」
と、リアンはよいしょと身を起こし、靴を履いて机の方へ向いた。
「いいじゃん、お前は家で家族と団欒できて。独り身の俺の身にもなってみ?」
「……お前、昨日女と遊んで来ただろ」
「ありゃバレた」
「香水」
「…………またやっちまった」
リアンからは女物の香水の匂いがむんむんとしていた。かなりキツい。気付かないのがおかしい。
「もうお前54だろ、よく体力持つな」
「俺ちゃんの生理的欲求に年齢は関係ありませーん」
「……ハァ」
54、とは言うがリアンはあまり変わらない。10年前と変わった事といえば、少し髪が伸びて後ろでくくっているくらいだ。肩より少し下、というくらいでとても長い訳ではない。
服装は白シャツにジーパンと、少し落ち着いたような気がする。
「…………ローエンは?最近ヴェローナちゃんとは?」
「いつも通りですけど」
「あ、そう」
具体的には答えてくれないのね、とリアンは口を尖らせる。ローエンの左手には銀の結婚指輪が光っていた。それを見て、リアンは、やっぱりいいなぁと思う。
「そんで、今日の仕事は?」
「浮気調査が一件。ストーカーの調査と護衛が一件」
「ストーカーとか怖いから俺浮気調査」
「…………へい」
と、ローエンは棚にしまってあった資料を出して来て、リアンの目の前の机の上に置いた。
「目ェ通しとけよ」
「……この前の男のか。……はぁー、この女のコいかにも浮気しそう」
「…………馬鹿にならねェなその意見」
「お前も見て何となく分かんない?」
と、リアンはターゲットの女の写真をピラ、と見せてくる。リアンはこの資料は初見だが、ローエンはこの資料を作成する時に見ている。接客も資料製作もローエンが担当している。リアンはその辺りはアテにならない。
「……その子はしそう」
「だろ?」
「んじゃあとよろしく。……ターゲットに手ェだすなよ」
「出すわけ無いっしょ」
「…………」
信用出来ねェんだよなぁ、という顔をしてローエンは出て行こうとする。
「てかお前も!依頼人女のコなんだろ!」
「……俺が手ェ出したらそれは浮気だろ」
「そうだよ」
「するかってんだよ」
バタンとローエンは扉を閉めて出て行った。後に残されたリアンは、資料とにらめっこする。
「…………俺も結婚したりしたら浮気調査されそう」
浮気調査は初めてではない。リアンは独り身で、ガールフレンドは(しかも若い子が)たくさんいるので、あまり依頼主の気持ちが分からない。ただ一人に夢中になった事はない。だから、一生独身か、と思っている。結婚生活が羨ましい気持ちは少しある。だが、自分がそんな事を出来ない立場である事は…………。
「……ウィリアムもローエンも許されて、俺がダメってのもおかしいか」
ハァ、とため息を吐いて、リアンはいてててと腰を抑えながらソファから立ち上がった。近頃、やはり歳を感じる。20程下のローエンを見ていると、若いっていいなと思ってしまう。
「……さぁって、行きますか」
カメラを手にし、外へ出ると、リアンは事務所の鍵を閉めた。
*****
「今日はよろしくお願いします」
「はい」
ローエンの目の前には、小柄で清楚な女性がいる。彼女が今回の依頼主、サーシャである。
ここは彼女の家。顔を合わせるのは二度目である。
「俺は近くを付いて行くんで。普段通りでいて下さい」
「分かりました……」
ポストには大量の手紙が溜まっている。中身を見るのが怖いらしく、サーシャはそれを放ったらかしにしていた。
「毎日来るんですね?」
「えぇ、特に夜になると……跡をつけて来て」
「分かりました」
ローエンは頷く。アザリアは治安はいい方だが、ちらほらこういう事がある。特に人気の少ない、南部では。
「……ストーカーに心当たりは?」
「……分からないです、顔は見た事がなくて」
「そうですか」
「男の人だって事くらいは……」
「背丈は」
「と、遠目に見ただけなので正確な事は分からないですけど、180cm……前後でしょうか」
「これくらい?」
と、ローエンは立って頭の上で手を上下した。
「……多分、そうです」
サーシャは戸惑いながらそう答えた。体格は自分と同じかそれ以上、まぁ、ストーカーが強いという事はあまりないので、参考程度だ。
「では、行きましょうか」
「はい」
もう一度、よろしくお願いしますとサーシャは頭を下げ、そして二人は玄関から外へ出た。
*****
職場への通勤途中には、何も起こらなかった。そして仕事も終え、帰ろうと職場出てサーシャはローエンを探そうとキョロキョロするが、見当たらない。一体どこにいるのだろう、本当に近くにいるのだろうか、と不安になったが歩き出した。
仕事の間も、ローエンはどこかで見張っていたのだろうか、とサーシャは不思議に思った。
辺りはもうすっかり暗い。表通りに面していないので、道は街灯がポツポツと暗闇の中を照らすばかりだ。空には星が出ている。今夜の月は細く、そのお陰で余計と星が見える様だ。
何事も無く、星を見上げながらサーシャは歩く。だが、ふと彼女は足を止めた。目の前に、黒い人影が佇んでいた。それはローエンではない。いつも、彼女を追い回している男だ。
「…………!」
彼女は回れ右して歩き出す。遠回りになるが、仕方ない。彼の横を通る事など出来ない。
肩越しに振り返ると、男はついて来ていた。顔は影になって見えない。サーシャは恐怖心に、足を早める。しかし、男は段々と追いついて来ていた。
「あっ」
足がもつれ、転んだ。痛い、と思いながら顔を上げると、男がすぐ近くにいる。街灯に照らされた顔が見えたが、知らない男だった。
「どっ、どなたですか!」
「酷いよサーシャさん……俺はこんなに君の事を思っているのに……」
サーシャは鳥肌が立った。粘っこい声が、男の口から発された。彼が自分の名前を知っている事が、何よりも恐ろしかった。
サーシャは立ち上がって逃げようとした。だが、腰が抜けて動けない。
「可哀想なサーシャさん……そんなに怯えて……今楽にしてあげるよ」
「いやっ」
男が手を伸ばして来る。だが、彼は次の瞬間どこからか現れた影に吹き飛ばされていた。
「……⁈」
「無事?」
「!…………ローエンさん!」
ローエンが自分に手を伸ばしていた。立てる?と聞くローエンに、サーシャは首を振る。
「腰が……抜けてて」
「分かった。じゃあちょっと待ってて」
と、向こうでは何が起こったか分からない様子で男が立ち上がっていた。
「な、何だお前ぇ」
「ありゃ、手加減し過ぎたか」
と、ローエンは右手をブラブラと振った。一般人を殺さない程度に殴るというのは難しい。
「お前……サーシャさんの恋人か⁈」
「そんなモンじゃありません。ただの護衛です」
「はぁ?」
「……お前が典型的なストーカーで安心したよ」
ローエンは指を鳴らす。次は、気絶させる。
「俺と……サーシャさんの邪魔をするな!」
男がローエンに襲いかかって来る。手にはナイフがあった。ローエンはそのナイフを突き出した手を左手で抑えると、男の鳩尾を強く突いた、
「うごっ」
そんな声を上げて、男はどさりと倒れた。ふう、とローエンはため息を吐き、気絶しているのを確認し、その手を持っていた結束バンドで縛ってからサーシャの方へやって来た。
「お、遅いです……」
「すみません、証拠を録ってたので」
と、ローエンは携帯に録画された動画を見せる。男がサーシャを襲う一部始終がばっちり音声と共に録られていた。
「あとは警察に突き出せば終わりです」
「…………はぁ」
「サーシャさん?」
「あ、いえ、何だか力が抜けて……」
胸に手を当てているサーシャ。ローエンの顔を見て、苦笑する。
「まだ、ドキドキが収まらないです……」
「……わざと危険な目に遭わせるような真似をしてすみませんでした」
「いえ、どれもこれも私を助ける為にして頂いた事ですから……」
と、サーシャはまだ気絶している男に目を向けた。それに気付いたローエンが、言う。
「知ってる男でした?」
「いえ……全く」
「そうですか。……まぁ、そういう事はよくあります」
「世の中怖いですね……」
「本当に」
緊張が解け、あははと笑う二人。
「あの、お強いんですね?」
「あ、えぇ、まぁ」
「……何が起こったのか分かりませんでした」
「気絶させるのは簡単ですよ、ここを強く殴ればいい」
と、ローエンは鳩尾を指差した。
「へ、へぇ……」
「……よければ簡単な護身術くらい教えましょうか」
「えぇ、いや、そんな」
「本当に簡単ですよ。股間を蹴るだけでいい。それだけで動けなくなるんで、しばらくは」
と、ローエンは苦笑する。
「あっ」
「でもまぁ、さっきみたいに動けなくなる事もあるんで。言葉で撃退出来るのが最善ですかね」
「……声?」
ローエンは一呼吸置いて、サーシャに優しく言う。
「……毅然として、相手にNOを突き付ける。相手は勘違い野郎ですから、その勘違いをやめさせなきゃいけない」
「……でも」
「怖いのは分かります。でも、怖がってはやられるだけ」
「あ……」
さっきの恐怖を思い出し、口に手を当てるサーシャ。
「かと言って怒らせてもいけないので、難しい所ですけどね。また何かあれば言って下さい、力になりますよ」
ローエンはそう言って、にこりと笑う。
「あ、ありがとうございます……」
「いえ。……もう立てますか?」
「あ、はい」
ローエンの手を取り、サーシャは立ち上がる。温かい、力強い手だ。そういえばこの人いくつなんだろう、とサーシャは思った。空いた左手には結婚指輪がはまっている事に、サーシャは気付いていた。奥さんいるんだ、と思うと何故だか心がモヤッとした。……何故だろう。
「今日はこれで。俺はコイツを警察に届けて来るので」
ローエンがそう言った。サーシャはローエンの手を取ったままだという事に気付いて、ハッとして手を離した。
「……ありがとうございます」
「出来るだけ、表通りを歩くようにして下さい。遠回りでも」
「はい」
「では、お気を付けて」
ローエンは気絶したままの男を頰を軽く叩いて起こし、立たせて連れて行った。
その後ろ姿を見送るサーシャは、ぼうっとしていた。その頰が赤らんでいる事には、誰も気付くはずがない。
しばらくして、我に返ったサーシャは、急ぎ足で帰路に着いた。
*****
「ハイご苦労さん、ったく仕事が早いのぉ」
警察署の前、そう言うのはダミヤである。ローエンから連絡を受け、ここで待っていたのだ。
辺りはすっかり暗い。署にもあまり人は残っていないらしい。
「証拠はお前の携帯に送ったから。後よろしく」
「………毎度毎度、全部俺の手柄になるけどええん」
「いいよ。俺一般人だし」
ローエンはサラッと言う。と、ダミヤの後ろから金髪の若い女が出て来た。
「お父ちゃ……じゃなかった、オルグレン班長」
「おう、来たかロジー」
「……誰?」
彼女に見覚えのないローエンは、ダミヤにそう訊いた。
「……娘のロジー。先週から俺の班に来たんや」
「ロジー・エイマーズです、よろしくお願いします」
「……苗字違うじゃねェか」
てか娘いたのか、と言う風な顔のローエンに、ダミヤは頭を掻く。
「色々事情があんねや。ロジー、コイツはローエン。ちっと協力してもろてる探偵や」
「どうも」
ローエンは軽く会釈する。
「んで、ロジー、コイツ頼むわ」
「はい!」
「セリンとアーチボルトにも言うたあるし」
「分かりました」
親子だという事は感じさせず、上司と部下、という感じでロジーは受け答えし、ローエンが連れて来た男を署内へ連れて行った。
「……俺が殺し屋だった事は言ってないんだな」
二人になって、ローエンはそんな事を言う。
「言わへんわ。ええやろ、そんなん」
「まぁ、そうだな」
「んで、すまんけど一件頼みたい事があんねん。今こっち手ェ離せへんくて」
「お前からの依頼なら金は貰うぞ」
「構へん」
「……スラムの方、忙しいのか」
「せやな。お前らがおらんようなって、余計と」
「……………」
「そんな怖い顔せんとってや」
「いざ辞めると必要とされるのは、おかしいだろ」
「……やけど犯罪には変わらん」
「あー、言っとくけどもう俺殺しはしねェからな」
「ま、俺が黙認したら終わりやねんけど」
「……おい」
「冗談やって」
それで、依頼って何だと言うローエンに、ダミヤは封筒を渡した。
「……何だよこれ」
「頼みたいのは調査や。……スラムの中で動いてるいくつかの団体の」
「団体?人攫いとか?」
「ちゃう。……いや、近いっちゃ近いか」
「?」
「ボランティア団体の調査や」
「!」
「知ってるやろ、スラムでいくらか活動してる団体がいるて」
「まぁ……聞いた事は」
だが、直接彼らの活動を見た事はない。
「でも、悪い奴らじゃねェだろ?」
「さぁな。悪質なんもあるかもしれん。そういう噂もちょこちょこ聞くし。……その実態調査を頼みたい訳や」
封筒を開け、ローエンは中身を出す。そこには三枚、三つの団体の資料が入っていた。
「……こんな奴ら見た事ねェけどな」
「そうなん?……まぁ、とりあえずどんな活動してんのか調べて欲しいんや」
「何か怪しい事が?」
「無けりゃそれでええねんけどな」
と、ローエンは三枚目の資料を見て、目を細めた。リーダーの顔写真が載っている。黒髪に、翡翠色の瞳。……それは、どこか見覚えがあった。
「……アントニア・レイモンド?」
「ん?なんや、知り合いでもおったか」
「…………あぁ、いや」
どこかで聞いた名前だな、と少しモヤッとしながらローエンは資料を封筒に片付けた。
「あー、そや、出来れば勘付かれへんようにやってくれるか。万が一の時にその方がえぇ」
「請け負った。ゆっくりでいいか?」
「構へん。報酬は後で」
「了解。んじゃあ」
「お疲れさん」
ダミヤは手を軽く上げ踵を返し、欠伸をしながら署内へ戻って行った。遅くまで仕事とは、恐れ入る。
「さて、俺も帰ろ」
ローエンも欠伸をこぼす。今は何時だろう。夕飯は食べていないので、腹が減っている。
「……俺の分のカレー、残ってるかな」
ローエンのカレーは、大量に作ってもしばしば売り切れる。
#2 END