第16話 異変
「トニーが怪我?」
ある日。夕飯を作っていたローエンはソニアの話に手を止めた。
「そうなの。他のボランティア団体とトラブルになって……揉めて喧嘩になったんだって」
タオルで手を拭いて、ローエンは調理台に寄りかかると腕を組んだ。
「……仕込んだ体術が全然役に立ってないな」
「トニーが先に殴ったんだよ」
「どういうトラブルになったんだ?」
「えーと……その人たちがスラムの人に乱暴するところを見たの」
「………」
調査を頼まれた団体についてはローエンが調べた限り問題はなかった。とすれば他の……慈善団体を騙る何者かか。
────その正体はともかく。
「トニーは無事なのか」
「腕を折っちゃったんだけど、そんなに酷くないから1ヶ月あれば治るって」
「そうか……」
その日ローエンはどうしても外せない仕事が入って活動には参加出来なかった。だから活動班は一つにして、アントニオに護衛の役割を任せていた。よりによってその矢先の怪我。……彼がいずれはまともに身を守れるようになるとして、今、この現状は良くない。
「よし。分かった。もう一人助っ人を呼んでくるよ」
「ほんと?」
「怪我は俺のせいみたいなものだろ。だから責任は取る」
「そうかなぁ……」
腑に落ちない顔をするソニア。ローエンはフッと笑うと調理に戻る。
「今度栄養のある弁当作ってやるから持ってってやれ」
「はぁい」
助っ人……一体誰なのだろうとソニアは思った。思い当たる人がいない。ソニアが知る限り腕が立つようなローエンの知り合いは、今はいない。
気になるが考えたって仕方ない。それより今日の晩御飯が気になる。
「ねぇ、何作ってるの?」
「ん? 秘密だ」
「何で!」
「夕飯のお楽しみだ。ほら、まだ宿題やってないだろ。部屋に行った行った」
「う〜」
時たま父は創作料理をするのでそれかもしれない。ソニアはしぶしぶ自室へ向かう。ルーカスは友達と外へ遊びに行っていていない。母はまだ仕事。階段まで父の包丁の音が響いている。自室のドアを開けると机の上が散らかっている。……これでは宿題など出来ない。
「片付けからかぁ」
片付けている間に何かに気を取られて時間が溶けているのはソニアのいつものこと。そんな日常。
*
パン、と手を叩く音が礼拝堂に響く。講壇の前にローエンともう一人男が立っていて、その前にギプスをしたアントニオとソニアたちが座っている。
「────という訳で、アントニオの怪我が治るまで助っ人に来てくれる俺の同僚です」
「名前を紹介しろ名前を」
「自分で言えよ」
肘でローエンを小突く彼にローエンは横目で冷たい視線を送る。折角厚意で来てやってんのに、と彼はため息を吐くと口を開いた。
「えーっと、はじめましてこんちわー。リアン・ローガンでっす。気軽にリアンって呼んでねー。おじさんでもいいよ。うちのローエンが世話になってんね。まぁ……1ヶ月くらい? になると思うけど仕事の合間縫って手伝いに来るし、よろしくね」
ひらひらーと軽薄な笑顔と共に手を振るリアン。アントニオはじめメンバーの顔は明らかに警戒している。
「あれ? なんか歓迎されてないね」
「お前みたいなのを警戒しない方がおかしい。皆はそういうの鍛えられてるからな」
「何ぃ〜どゆこと」
不満そうな顔のリアンを無視してローエンは咳払いする。
「まぁ、こんな奴だが頼りにはなる。……多少」
「多少ってなんだよ」
「悪い奴じゃねェから安心しろ。何かあったら俺がコイツをしばく」
「何もないって〜」
しおしおとした顔のリアンを尻目に、ローエンはソニアの異変に気付く。
「……ソニア?」
「……………あの時の……」
「え?」
ぽかんとしたソニアの言葉を思わず聞き返した時、リアンがぱちんと手を叩いた。
「あ〜! ソニアちゃん! また会ったね。元気してた?」
「えっ……あっ、はい」
「驚かせてごめんね〜、お父さんから君の話は聞いてたよ。改めてよろしくね」
「はい…………」
ソニアはようやく腑に落ちる。だから名前を知ってたんだ。……でも、何か違和感がある。その時ソニアはただならぬ気配を感じて父を見た。────彼はものすごい形相で隣のリアンを見ている。思わず背筋が凍るような、殺気すら漏れるような。
「……おい」
ローエンの喉から低い声が発される。振り向いたリアンは笑みを崩さない。しかし空気が凍りつく。
「何?」
「ちょっとこっち来い」
「え、わ、ちょっ、なになになに」
リアンの襟元を掴んで強引に引っ張りながら、ローエンは奥の部屋に入って行った。二人のただならぬ様子に残されたAFTの面々は顔を見合わせる。
「……あいつどうしたんだ?」
アントニオがソニアに聞く。ソニアも不安のまま首を横に振った。
「………分からない……」
「あのおっさん、お前と知り合いだったのか」
「二回……お菓子屋さんで会っただけだよ。この前まで名前も知らなかった────」
たまたま? 偶然? それとも、何か思惑があるのか。ストーカーなどではなかったという安堵も束の間、何か別の、得体の知れない不安がソニアの中に渦巻いた。
*
どん、とリアンは小部屋の壁に打ち付けられる。いてっ、という声が漏れるも目の前で己の胸ぐらを掴んでいるローエンの迫力に声が引っ込む。
「うぉっ、なに怒ってんの……」
「……何でソニアに近づいた」
「何でって、たまたまだよ〜、ほら、俺のお気に入りの焼き菓子売ってる店にいたんだよ、たまたま」
「何でソニアの顔を知ってたんだ」
「……そりゃお前が写真を……」
「見せてない。仕事場にも置いてない。……お前にそこまでソニアのことも話してない」
「そう? 家族自慢はよく聞いたけどなぁ」
「何が目的だ‼︎」
「イテッ」
どん、と再びリアンは壁に打ちつけられる。思わず息が詰まるが、笑みを浮かべながらローエンの顔を見返す。
「……なんて顔してんだ。俺のことまだ全然信用してくれてねェのか。はは、まぁそれは自業自得か」
「答えろ。返答次第では…………」
「こーわっ、未だ悪魔のローエンは健在か? いや違うか、親としての責務か……」
「話を逸らすな」
「だーかーら、たまたまだって言ってるだろ。顔を知ってたことについては……ほらあれだよ。情報屋の力舐めるなよ。お前とまだ敵だった頃に知ったんだよ。随分と別嬪になったな……」
「………」
「だから怒るなよ。何も悪いことはねェって。俺は親切にしただけだよ。土産の菓子を悩んでたからオススメした。それだけ」
「……………」
ぱ、とローエンはリアンを解放する。まだ疑念は晴れないが────確かに悪意は感じられないのでひとまずは置いておくことにした。
「分かったよ。…………だがソニアに何かあったら……」
「大丈夫だよ。この身に変えても守るさ。ソニアちゃんだけじゃない。もちろん他の子たちも。かわいい子も多いしね」
そう言ってキザにウィンクして見せるリアン。ローエンはいつも通りの彼にげんなりする。自分は何をそんなに怒っていたのかと馬鹿らしくなった。急に頭が冷えて踵を返す。
「……悪かった。戻ろう」
「おう、気にしてねェよ」
とリアンは解放された胸元をさすりながら答える。敏感になりすぎたか、とローエンは反省する。リアンの言う通り、自分はまだリアンのことを信用してはいない。何だかんだここまで一緒に仕事をして来たが、相棒とは呼びたくない。そういう関係にはならない。あくまで自分たちは、薄氷の上に立っている。
礼拝堂に戻ると皆が不安そうな目で見て来る。それはそうだ。ローエンは気まずくなって、無理矢理笑う。
「何だ、心配そうな顔して。この後どうするか話してただけだよ」
「……大丈夫なのか?」
「何がだ。何も問題はない」
アントニオの言葉にローエンは肩を竦めてそう答える。
「さてと。じゃあ早速始めるか。班はいつもので、トニーの方にコイツに入ってもらう」
………とするとローエンはソニアとは別のグループになってしまうのだが。仕方ない。
「……任せたからな」
ローエンはリアンを睨む。対してリアンは「まーかせとけって」といつものへらりとした笑みを浮かべる。
ローエンはため息を吐いて、手を叩いた。
「さ、行こう」
*
「……リアンさんはいつから父とお仕事を?」
道中、ソニアは自分の後ろを歩くリアンにそう訊ねた。リアンはうーんと上を向いて考える。
「そーだなぁ、もう十年くらいになるね。色々迷惑かけちゃってるけど、二人で仕事回しながらなんとかやってるよ」
まじまじと……ソニアは彼の顔を見る。どうしてわざわざ近付いて来たのだろう、とそんな疑問が胸に渦巻く。というかそもそも父の知り合いといえば(女性関係を除いて)大抵ワケアリだ。しかも十年前からの知り合いともなれば、ソニアは嫌な予感がする。
「……父の前職を知ってるんですか」
ソニアは小声で聞いた。隣のトニーがピクリとしてこちらを見た。
「ソニア…!」
「………大丈夫。知ってるよちゃんと。……俺が知り合ったのはその頃だからな」
「!」
やっぱり、とソニアは思うがそれまでだった。
「……怖くないんだ?」
「………リアンさんもそうだったとしても……怖がる必要がないじゃないですか」
「────そう」
リアンはフッと青い瞳を細めると、手を広げる。
「まぁ確かに俺もその筋の人だけれど、何もない一般人を傷付けるような極悪人じゃないよ。君のお父さんもそうだろ?」
「…………勿論です」
アントニオもそれには頷く。
「あいつ、怖いけど俺たちのこと助けてくれたし……今も色々力になってくれるし。良い奴だよ」
「はは。ローエンは好かれてるんだな」
「好きじゃねーよあんなヤツ! 俺のこと殴るし」
「それはトニーを鍛えるためでしょ」
「厳しすぎるんだよアイツは〜」
ソニアの言葉にトニーはそう言って不満な顔をする。それにソニアはくすくすと笑う。そんな二人を見てリアンも微笑む。
「……なるほど。仲が良いんだね二人は」
言われて、アントニオは照れるような顔をしてそっぽを向く。
「そ、ソニアとは十年前に知り合って……それから会ってなかったけど、アザリアで再会したんだ」
「そう、びっくりしたよー。まさか会えるとは思わなくて。すごい人混みだったのによく見つけたよね」
「だってお前全然変わんねェんだもん。というかその髪色ってこの辺りじゃあまりないだろ。あの神父さんとかも同じような色してたけど……」
と、ふとアントニオは上に目を向ける。あ、と気が付いたように彼は口を開く。
「……そういやおっさんも……」
「うん? あぁ、俺はここの出身じゃないかんね。北の方の町の出だよ。冬になると雪がすごいんだ」
「へぇ……」
「神父さんも同じじゃないかな? 聞いたことないけど」
言ってからあ、とリアンは口を塞ぐ。
「………やっぱ今のナシ」
「……おっさんあの神父とも知り合いなのか……」
「色々あってね。……君こそそうなんだ」
「俺はあの人に助けられたんだよ。人身売買屋に捕まってたんだ」
「となるとスラム出身の子か。なるほどね」
「他の奴らもそうだよ。リノとルーシーとライリーは違うけど……」
「三人は私の学校の友達だからね」
その三人はローエン側の班だ。ここにはいない。こっちの班はソニアとアントニオの他、ブルーノとヴァージル、そしてローレルがいる。
「えらいね。まだ皆んな若いのに」
「俺たち、保護される前は普通にスラムで暮らしてたからさ。ここの苦しさはよく知ってる。だからこそ、自由に暮らせるようになったからこそ力になりたいんだよ」
「へぇ」
リアンは目を細めて笑う。
「なるほど。良いじゃないか、うん。嫌いじゃないな」
「何だよ」
「同じ目線でってことだろ。君たちにしか出来ない」
そう言うと、彼は空を見上げた。青い空に雲が流れて行く。
「……俺たちは、無責任だ」
「え?」
いつの間にか横に並んでいたリアンの顔は、ソニアにはよく見えなかった。その時ふと、この人は父とほとんど同じ身長だな、ということに気がついた。教会で二人が横に並んでいた時には、彼は少し猫背で父より小さく見えたのかもしれない。
何でもないことだ。でも、その時なぜか────ソニアの心は騒ついた。そしてその先は考えてはいけないような気がして、ソニアはぱっと視線を下ろした。
「無責任じゃ、ないです。お父さんだって────」
はっとして、リアンはソニアを見た。
「お父さんも、リアンさんも、こうして助けてくれてますし、実際、私たちは助けられたからここにいるんです」
あの神父さんも、と言うソニアに、リアンはふっと笑った。
そのどこか悲しそうな青色の瞳が、ソニアは忘れられなかった。
*
夕方。活動を終え、帰路に着いたソニアとローエン。茜に染まった父の顔はどこか疲れていて、そして何やら不機嫌そうだった。
「……大変だったの? そっちは」
「んあ……いや、まぁ。いつも通りだけど」
夕陽すら吸い込んだ闇色の瞳がいくらか逡巡して、何かを決意したかのように娘を捉えると彼は口を開いた。
「…………リアンと何か話したか」
「リアンさんと? うーん、色々」
「何を」
「えっと……お父さんとのこととか……」
「……」
「お父さんが殺し屋だったこと、知ってるって」
「……それで?」
「アクバールさんのことも知ってるその筋の人だって」
「…………あいつペラペラと…」
「あぁ大丈夫、私とトニーしか聞いてないよ!」
はぁ、とローエンは大きなため息を吐いた。
「……リアンさんと仲悪いの?」
「良く見えたか」
「ううん……」
父の顔は相変わらず不機嫌そうだった。さっきよりもますます険しくなってすらいる。
「……十年一緒にやってるんでしょ?」
「そうだよ。あの日からずっとな」
「あの日……」
言わずとも分かる。何もかもが変わってしまった日だ。そのことをソニアがちゃんと理解したのはいつだったか。あの日から……父はどこか変わってしまったようだった。そしてあの日帰って来た時の目を今、父はしている。ソニアはどきりとして、その薄暗いものの正体を探ろうとする。それは───。
「俺はあいつを───……」
スーッ、と、息を止めるように父は深く息を吸ったかと思うと、大きく息を吐き出した。目に宿っていた薄暗いものも、その吐き出した息と共に虚空へ消えて行った。
「いや。何でもない。ただ気に食わねェだけだよ。あるだろそういうの」
「ないよ」
「はは。お前は良い子だなソニア」
屈託のない笑みを浮かべて、ローエンはソニアの頭を撫でる。
「もう。子どもじゃないんだからやめてよ」
「悪い悪い」
父の手を払いのけ、その顔に張り付いた笑みを睨む。これは彼が本心を隠す時に見せる顔だ、とソニアは直感的に思った。
「………子どもじゃないんだから誤魔化さないでよ」
「……悪い」
父の声が沈む。彼はそれ以上何も言わなかった。どこか不安そうな父の横顔を見て、思わずソニアは父の手を握った。父は動じなかった。ソニアはその硬くて温かい手を強く握る。彼が、どこにも行ってしまわないように。
#16 END




