第15話 ブラインド・ファクト
ある日の平日。子供たちは学校、ヴェローナは仕事で昼間一人で家にいた時、突然インターホンがなった。誰だろう、と訝しみながらローエンは席を立つ。宅配の予定も誰かに会う予定もなかった。そして、玄関を開けて驚いた。
「こんにちは」
そこに立っていたのは、学校に行っているはずのザカリーだった。
*
「……学校は?」
「抜け出して来ました」
静かなリビングで二人は向かい合って座っていた。小さな思わぬ来客は、ローエンの問いに淡々として答えた。
「怒られるぞ」
「……」
後ろめたさはあるのか、ザカリーは俯いた。ローエンは一つため息を吐くと立ち上がって冷蔵庫に向かった。入っていたオレンジジュースを開け、グラスに二つ注ぐと戻って来て自分とザカリーの前に置いた。
「……ジークのことか」
黙ったままのザカリーに言うと、その肩がびくりと震えた。ゆっくりと顔が上がってくる。見覚えのある紫の瞳が不安そうな光を持ってこちらを見ていた。
「母は」
吐き出した息と共に、そんな小さな音がザカリーの口から出た。
「母は、何に苦しんでるんですか?」
「…………」
相談に乗ると言ったのは自分だ。答える義理がある。……だが、どう答えて良いものかローエンには分からなかった。
「……忘れたくても、忘れられないものだ」
考えた末に、そんな答えが出た。
「父のことですか」
「……」
「ぼくの父を知ってるんですよね?」
逃げられないな、とローエンは思った。それは問いのようであって問いではなく、確信を持った「確認」だった。……元から、この質問がしたかったのだろう。
「……あぁ、知ってる」
知ってるなんてものか。ローエンは蘇る記憶に手を握りしめた。凄惨なあの場面を。冷たく、軽くなっていく友と、何かが自分から消えて行くようなあの感覚を……。
「教えてください」
「……まだお前には早いよ」
「どうしてですか」
「もっと大きくなってから教えてやる。ジークもきっと」
「ぼくはもう二年生です」
「…………本人達は皆そう言うな」
先日の、学校でのルーカスとのやり取りを思い出した。あの時は、ただ成長を嬉しく思っていただけなのだが。
ローエンは深く息を吸って、吐いた。
「……お前の父親は……俺よりも10歳上で」
顔……記憶が、薄れて行く。彼の死に際、初めて見たあの涙も、時と共に鮮明さは失われていた。だが、心象として残っている。
「お前と同じ髪の色と、瞳の色をしてて。……雰囲気もそっくりだな」
ローエンは微笑む。ザカリーは少し照れ臭そうに自分の頭に触れた。
「それからすごく酒に弱くて、そんで……優しい奴で」
グラナートは。優しい人間だった。きっと、生きていたら良い父親になっただろうと思う。
「頭が良くて……それから、強い奴だった」
「……何をしてた人なんですか」
「医者だよ。命を救う医者だ」
「お医者さん」
嘘は言ってない。本当のことだ。
「俺の大事な友人だった」
「……どうして死んだんですか」
「それは……」
嘘は吐きたくなかった。でも、あったことをそのまま話すわけにも行かない。彼には、あまりにも現実離れした話だ。それに、彼の父が『殺人鬼だった』などと言えるはずもなかった。
「……事件に、巻き込まれて」
「事件?」
なんて雑な誤魔化しだ、と我ながら思った。でも、他に形容するとするならばそれくらいしか思いつかなかった。
「……死んじまった」
そんなあっさりとした言葉しか出て来なかった。
きっとザカリーは納得しない。それは分かっていた。だがもう、これ以上は話すまいと口を閉ざすことにした。
それを感じたのか、ザカリーもそれ以上聞こうとはして来なかった。──沈黙。それを破ったのはローエンの方だった。
「……ジークはあいつの亡霊に取り憑かれてる」
亡霊。それは比喩でも何でもなく。彼に対する愛と、後悔と、悲しみと、いろんな感情に取り憑かれて前へ進めなくなっている。明るかったジークは呪いに蝕まれて、今にも消えそうになっている。
あの日……グランを見送ったあの日、雪の下で彼女は確かに決意していたのに。
「お前に父親の影を重ねてるんだ」
「……ぼくのせい…」
「お前のせいじゃない」
きっぱりとローエンは言った。それだけは違う。そうとだけは思って欲しくない。だってジークは。
「ジークはお前を愛してるよ。だからこそ……というのか。……とにかく誰も悪くはないんだ」
──────違う。悪いのは俺だ。
ローエンはそう思った。二人を引き合わせたのは自分だし、グラナートが死ぬことになったのにも自分は無関係ではない。
でもそれは、ザカリーの存在自体を否定することにもなる。
「いいか。何があったって、お前は自分を責めるな。お前が自分を責めたらそれこそジークを苦しめる。お前がお前でいれば、きっといつかジークはお前のことをちゃんと見てくれる。お前が前を向いていればジークも一緒に前を向いてくれるさ」
「……よく分かりません」
「今は分からなくたっていい。お前はまだ2年生だからな」
ふ、と穏やかに笑ってみせるとザカリーはムッとしたようだった。可愛げのある反抗心である。
「────早く学校に戻りな。先生にバレたらどうなることだか」
「……」
「送ってくから」
アザリアは治安が良いとは言え、目の前にいる以上一人で戻らせようとは思わなかった。学校では特に下級生の登下校は生徒同士3人以上、あるいは保護者の同伴をと決められているので自分が連れて行くのが妥当だろう。よく一人でここまで来たものだ、とローエンはややヒヤリとした。これで彼に何かあったらジークに責められるのは自分だ。
「もう一人で来ようとするなよ。危ないからな」
「……はい」
ザカリーは俯いて頷いただけだった。きっと得られた答えに納得していないのだろう。そりゃそうだろうな、と思う。しかし、ジークに対してどうしてやればいいのか分からないのは自分も同じだ。
(───……グラナートに関して正直に答えたところで何も変わらないだろうしな)
子供の好奇心に真摯になり過ぎて、地獄に突き落とすような真似は出来ない。そういうことから守ってやるのも大人の仕事だ。
「ほら早く。行くぞ」
無言のザカリーの手を引く。小さな手が自分の手を握る。少年の手は冷たかったが、確かに生きている人間の手だった。
(ザカリーは生きてるんだよジーク。でもグランはもういない)
顔すら薄れた友を想う。記憶は薄れても、手に感じた死人の冷たさは忘れられない。今この手にある冷たい感触とは全く別のもの。生きてる者の体温さえ吸い込んでしまうような、独特の冷たさ。
「……失くしたものに気を取られて、今あるものを見失わないでくれ」
「……え?」
気付けばそんな言葉が転がり出て、ザカリーがこちらを見上げた。
ローエンはそんな彼の方を見て少しだけ笑うと、玄関の戸を開けた。
*
ザカリーが再び教室に戻った時、6時間目のチャイムが鳴った。クラスメイトたちは5時間目にいなかったザカリーのことを気に留めなかった。普段からいるのかいないのか分からない、そんな存在なのだろうとザカリーは思った。クラスに馴染んでいないのは自分で分かっていたし、時折体調不良で保健室に行くことも多いので、担任の先生も彼がいなかったことについて何も咎めなかった。
(……ぼくって“かげがうすい”のかな)
はぁ、とため息を吐きつつもお陰で助かったとも思った。それなりの覚悟をして学校を抜け出したが、やはり怒られるとなると怖かった。もし抜け出したのがルーカスだったら、きっと誰かが気付いて騒ぎになっていたかもしれない、と思った。
(ルーはぼくがいなくてもきっと気付いてくれるよね)
窓際の席から外を見る。明るい昼の風景の中に、うっすらと窓ガラスに自分の姿が浮かんでいた。
*
「ただいま」
「おかえり」
ザカリーがリビングに入ると、キッチンで母が洗い物をしていた。手を止めた彼女はザカリーを見て微笑む。しかしその表情に力がないことにザカリーは気付いていた。
「今日はどうだったの?」
「うん……まぁ、いつも通りだよ」
鞄を置いて、母の後ろに立つ。すると彼女は不思議そうな顔をする。
「どうしたの? お手伝いしてくれるの?」
「……手伝える?」
「あら。そうね、じゃあちょっと待って」
母はキッチンに掛かっていたタオルで手を拭くと、椅子を持って来た。そしてそれを置くと、笑う。
「これで届くわね」
「うん」
『気をつけてね』と言う母の隣、椅子の上に立つ。いつも遥か上に見える彼女の顔が近く見える。すると……キッチンの窓から差し込む光に照らされた母の顔が、より一層青ざめて見えた。
「母さん?」
呼びかけると灰色の瞳がこちらを向く。穏やかで、そして揺らぐ水面のような光がザカリーに届く。
「なぁに?」
「……ねぇ。父さんってどんな人だったの」
今まで聞けなかった言葉がすんなりと出て来た。すると一瞬母の瞳が揺らぐのが見えて、ザカリーは後悔した。だが、ジークは手を止めて優しくザカリーの頭を撫でた。
「………お父さんはね。あなたみたいに優しい人だったわ」
「……母さん。ぼく父さんじゃないよ」
どこか母と視線が合わないのを感じて、ザカリーはそう言った。無意識に母は父と息子の面影を重ねているのだと、そう理解した。
自分が父の代わりになろうと、そんなことを思いもした。でも、それが母のためにならないことはローエンに教えられた。自分だって嫌だ。自分は自分だ。
通り抜ける母の視線を捕まえようとザカリーは一生懸命彼女の目を見た。僕はここにいる。今、ここにいる。
「ねぇ。父さんの話をぼくにして」
自分は影が薄いのだと、学校でそう感じたことを思い出した。ちがう。自分が薄くしてるんだ。自己の希薄さをザカリーは認識した。ならば、強くだって出来る。
段々と、どこか違うところを見ていた母の視線が自分とぶつかる。見た。
「母さんが知ってる父さんのこと、教えてよ」
母はようやく“ぼく”を見た。そう感じた途端に抱きしめられる。細った腕がしっかりと小さな体を抱きしめた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
母は震えた声でそう言うと、ザカリーの体を放して目線を合わせた。
「そうね。話すわ。私が知ってるお父さんのこと、あなたに」
「うん」
ザカリーは頷いて微笑んだ。きっと大丈夫だと彼は思った。
ジークはゆっくりと想い人のことを話し始めた。それは過去と向き合う時間。彼女の知る優しい彼の話────。
ローエンが知るかの死神の話を、この少年が知るのはもう少しあとの事。
*
ソニアは街を歩いていた。父に頼まれたお遣いである。今日の夕飯の材料と他に必要なもの。買いたいものがあれば買って来て良いと言われていたので、頼まれたものを抱えながら店の並ぶ通りを歩いていた。
特に目的があるわけでもない。新しく可愛い服でも買おうかな、とそんなぼんやりとした考えの下、通り過ぎて行くショーウィンドウを眺める。
「……あ」
足を止める。前に来た菓子店だ。結局、前に買ったあれはルーカスとザカリーが全て食べてしまってソニアの口には入らなかった。……美味しそうだったな、とそんな思いで店の中に入ろうと足を進める。
「あれ、この前の」
「!」
後ろから男の声が掛かった。驚いて振り向くと、あの時話しかけて来たいかにも軽薄そうな男だった。
「……あっ」
「また会ったね。君も買い物?」
「はい。この前買ったものをもう一度買おうと思って……」
「気に入ってくれた? 美味しかったでしょあれ」
にこりと笑う男に、ソニアは申し訳ない顔をして首を横に振る。
「あぁいえ……自分用じゃなかったので食べれなくて」
「あぁそうか。贈り物だって言ってたね。……今度も?」
「今度は自分で食べたくて」
おお、とリアンは嬉しそうな顔をする。
「そうか! 絶対気に入ると思うよ」
と、リアンはさっさと店の中に入るとあの菓子の箱を二箱手に取る。
「そこで待ってて」
ソニアを置いて彼はレジの方へ消え、そして戻って来ると二つの袋を持っていた。その片方を差し出すと彼は笑って言う。
「はい」
「えっ」
「プレゼント。大事に食べてね」
男はそう言ってウィンクする。ソニアは無意識に受け取りながらも困惑する。
「そんな、悪いですよ、その……全然知らない人なのに」
「そう? あぁそうか、まだ名前を教えてない」
しょり、と彼は顎髭を撫でると踵を返した。
「俺はリアン。これでもう知らない人じゃないでしょ?」
振り返る青い瞳が優しく笑う。
「じゃあね、俺は行かないと。またねソニアちゃん」
「…………えっ?」
あっという間にリアンは人混みの中に消えて行った。
(……どうして、名前……)
胸が騒つく。まさかストーカー? あんな堂々として?
しかし、先刻の目を思い出す。……違う。あれは。あの目の正体を自分は知っている。
(………何? どうして?)
夢幻の様に消えて行ったあの男。ただ、ソニアの手には彼が渡して来たお菓子の袋が確かにあった。
#15 END




