第12話 過去の遺物
バシッ、バシッと、肌を叩く音と風を切る音が礼拝堂に響く。入り口近く、逆光の中、黒い人影が二つ動いている。片方はもう一人へ攻撃を繰り出しているが、もう一人の背が高い方はそれを躱したりいなしたり、防御に徹していた。
「腰!腰が入ってない!」
「うー……あぁぁ!」
「馬鹿、目ェ瞑るな!」
「べっ!」
ベシッ、と今まで防御に徹していた男が手を出した。頰を殴られたもう一人は床に倒れる。
「いってぇ‼︎」
「ったく駄目だな、ソニアの方が大分マシだぞ」
「うるっせ!大体教え方が下手なんだよアンタは!」
転けたまま抗議するアントニアとそれを指差しているローエン。……その様子を、少し離れた長椅子から見ているのはルーカス。何故彼がこんなところにいるのかと言うと。今日はヴェローナは仕事で、ローエンはアントニアとこの約束。そしてソニアはリノ達と街で遊ぶ約束があった。するとルーカスが家に一人になってしまう、それは良くない、という事で一番融通の利きそうなローエンのところへ連れて来た、という訳だ。
(……おれにも教えてくんないかなぁ……)
何だかうずうずした。姉と父が練習していたのを見た時も、同じ感じがした。自分もやってみたい。強くなってみたい。
「いって!」
「ほらほら立て」
「一々殴るな!」
「痛みにも慣れとけよ、多少は。まだ腹は殴らねェから安心しろ」
「痛えモンは痛えよ!」
ギャーギャー言うアントニア。あの二人は仲良くなれないんだな、とルーカスはなんとなく感じていた。
「構えから教えろよ、構えから!」
「あー……とりあえず相手を倒すぞーって気持ちで構える」
「適当かよ!」
「元喧嘩屋に何を期待してんだ」
「教えるっつったのはそっちだろーが!」
「喧嘩あるのみだろ。……そうか、そうだな、じゃあいっちょ喧嘩してみるか」
「あぁ⁈」
「やられるっていう緊張感があった方が上達するだろ」
「……えっ、ちょっと待て」
「大丈夫、手加減はする。あとお前が本気で殴っても全然平気だから全力で来い」
「えー!ちょっと待てってばおいっ!」
と、猛攻を始めるローエンと、それをわたわたと避けるアントニア。が、すぐに頰に一発食らうと転ける。
ルーカスは一つ欠伸した。面白くない。退屈だ。ここには他に遊び相手もいないし、遊ぶものもない。なんなら一人で家に残っていても良かったのに。そんな事を考えていた。
「……?」
────その時。ルーカスは何かを感じた。視線。見られている。後ろから、誰かに。
「……だれ?」
呟いて、振り向いた。
──────ふわりと、白い布が揺れていた。透けている。布の向こうに、白く霞んだ壇上が見える。視線を下ろすと、布の下から黒っぽい服装が覗いている。足はあったが、とても薄っすらとしている。……そのまま視線を上へ移すと、顔があった。そこは少し、白い布よりもはっきりとして見えた。
────学長さんと似た格好だな、とぼんやりと思った。不思議と怖くはなかった。
「……おじさん、だれ?」
そう話しかけると、彼は驚いて目を見開いた。
『おや少年、ボクが見えるのかい』
発された声は、どこかぼんやりとしていた。ルーカスはこくりと頷いた。
「うん。……お化けなの?」
『どうやらその様だ。……驚かないんだね、君は』
「……あんまり怖くないから……」
『ふふ、変わった子だ』
何も感じなかった訳ではない。幽霊など今まで見たこともない。存在すら信じてはいなかった。……だが、今、ここに見えているものを彼はどうしてかすんなりと受け入れることが出来た。
『ボクに気付いたのは君が初めてだ。……あぁ、彼は何度かこちらを見ていた様だけど……まぁあれは見えていないだろうね』
「父さん?」
『ん?あぁ、そうかな。君に似ている男の方だ』
幽霊は頷いた。真ん中で分けられた茶色の前髪が揺れる。
「ずっとここにいるの?」
『さぁ……いつからだろう。気づいたらここにいたという感じだ。この体になるとすっかり時間感覚も無くてね。ボクは多分生前ここに関わりのある人間だったのだろうけど、さっぱり覚えていない』
「自分のことが思い出せないの?」
『あぁ。自分の名前も、自分が何者だったのかもね。どうやって死んだかも分からない。……ただ、どうしてかここにいなければならない様な気がしてね……』
幽霊は遠い目をした。ルーカスは首を傾げる。
「何も覚えてないのに?」
『そうなのだよ。……地縛霊という奴かな。ボクはここから離れられない。成仏しようにも何かに縛り付けられているみたいだ。…………記憶を取り戻せれば、あるいは』
「……ふぅん」
ルーカスは幽霊の姿をまじまじと見つめる。今さらながら、幻覚などではなく確かにそこにはっきりといるのだなと思った。そして。
「えっと……お化けさんはその……えっと、神……父?さんだったんじゃないの?」
『ん?あぁそうだね。恐らくは……教会にいるのだからそうだろうし、ボクのこの格好からしてもそう考えるのが妥当だろう』
と、彼は自分の透けた姿を見て言った。
「……本当に何も思い出せないんだ」
『あぁ。きっと何か未練があってこの世にいるんだと思うのだけど。……さて。それが何かも分からないのだ。困ったものだね』
「怖くない?」
『おやおや、幽霊にそんな事を訊くとは本当に変わった子だ』
幽霊はからからと笑うと、答えた。
『この体もそう悪くない。宙に浮けるし、この教会のすぐ側までなら外にも出られる。道行く人やここへ来る人達を眺めたり。……だが、ここに住む人達の姿を見るとなぜか心が痛む』
「…………」
『ボクの記憶に関係あるんだろうね、きっと』
幽霊は悲しそうに笑った。そしてふわりと宙へ上がると、彼は礼拝堂の奥のステンドグラスを指差した。
『そしてあれだ。綺麗だろう』
「うん」
『そこの君のお父さんと老神父が時々磨いてくれている。ボクは浮けるが物には触れられなくてね。掃除してくれるのは本当にありがたい。あれを眺めるのもなかなか楽しいものだ』
「見てるだけ?」
『……そこは素直に「そうだね」で良いんじゃないかい』
幽霊はルーカスの隣に降りて来る。
『まぁ……確かにね。君と話している方が勿論楽しいよ』
「今まで人に話しかけてみた?」
『みたよ。初めの頃はね。だけど、勘のいい人でも少し気配を感じて振り向くだけだ。あの男なんかはね』
と、彼はローエンの方を指差した。と、そしてふと首を傾げた。
『……ボクは彼について何か大事なことを忘れている様な気がするんだ』
「…………そうなの?」
『あぁ。……だけどもさっぱり分からない』
うーんと考えている幽霊。ルーカスはあのさ、と提案した。
「お化けさん、名前付けてもいい?」
『ん?いや、それはやめておきたまえ。……ボクは忘れ物を取りにここにいる。余計な荷物はボクを余計ここへ縛り付けてしまうよ』
「……そっか…………」
なんとなく、ルーカスは彼にずっとここにいて欲しい気がした。だが、それは彼にとっては良くない事なんだろうと、なんとなくそうも思っていた。
「じゃあ、“お化けさん”でいい?」
『そういう呼び方なら何でも構わないよ。お化けさんでも幽霊さんでも』
「……んー、じゃあ“ゆうれいさん”」
『いいだろう。……君の名前は?』
「ルーカス。よろしく」
『あぁルーカス、よろしくね』
不思議な友達。自分だけが知っている友達。それが出来た事が、ルーカスは何だか嬉しかった。
*****
『おや、また来たのかいルーカス』
「うん」
『そうか。おいで、教会を案内してあげよう』
数日後。再びローエンについて来たルーカス。やはりいた神父の幽霊と会話を交わしていた。
「あ、ちょっと待って」
ルーカスは幽霊について行こうとする前にふと気付いて、入り口付近の父に向かって言った。
「父さん!おれ教会の中探検して来ていい?」
「え?あぁ、いいけど気を付けろよ」
「うん!」
にこりと笑って応えると、ルーカスは幽霊の方を向いた。
「行こう」
『あぁ』
ふわりと幽霊は浮いて移動する。ルーカスはその後をついて行った。
────その様子を見ていたローエンは、首を傾げた。
(……独り言?……にしては)
「おい、始めねェの?」
「……ん、あぁ」
そう言えば時折ここで変な気配を感じていたことを思い出した。あれは……。
(…………まさか、な)
*****
「わぁ」
『見晴らしが良いだろう、まぁ、特に面白いものも見えないかもしれないが』
屋上へ出て来たルーカスと幽霊。スラムの街並みがよく見える。
「あっちの街とにてるんだね」
『あっち?』
「カベの向こう側の方。……知らないの?」
『……そうだね、記憶にない』
幽霊はそう言って、壁のある方角を見た。
『あの向こうはどうなっている?』
「うーんと、ふつうの街だよ」
『……普通か』
幽霊は下を見た。人通りは少なく、そこらの路地で身を潜めているのはみすぼらしい姿の女子供────。
『……普通とは何だろうね』
「え?」
『普通普通とは言うが、一体何が普通なのかボクには分からない』
「ふつうは、ふつうだよ。おれたちがいつも暮らしてるとこ」
『なら、ボクにとってはこの街が普通だ』
「!」
『……でも多分、ボクはこの“普通の街”を、普通でないようにしようと思ってたんだろうね』
「…………思い出したの?」
『いいや。なんとなくそんな気がしただけさ』
遠い目をした幽霊は、そのまま空に溶けてしまいそうだった。だが、彼はじっとそこにいる。
「きっと、それをやり切れなくてここに残っちゃったんだね」
『うん、そうかもしれない。……未練……、未練か。そんなものどうしようと言うんだろう。ボクのこの体では、もはや何をする事も出来ないというのに』
「……出来るよ」
『?』
「出来てるじゃん。おれと話」
ルーカスの言葉に、幽霊は微笑んだ。
『そうだね。聞く事も、話す事も出来る』
「おれと友達にもなった」
『……友達…………何だか新鮮な響きだ』
「誰か友達いなかったの?」
『さぁね……いたのかもしれないけど、何も思い出せない。……ということは、あまり大事な存在でもなかったのかもしれない』
「……さみしいね」
『さて。今は実はそうでもない』
そして幽霊は、ルーカスを見て笑う。それは心の底から、嬉しそうな笑みだった。
『君と友達になれたからね』
ルーカスも笑う。その時、下から自分を呼ぶ父の声がした。
*****
「……お前、誰かと話してただろ」
「え」
アントニアと別れた後、新市街での帰り道。父が不意にそんな事を言った。
「俺が教会に行くって言ったら、お前も行くっていつも言うし。俺とアントニアの訓練をずっと見てるわけでもないし。……何があるんだ」
「…………えーと」
ルーカスが返答に困っていると、ローエンはため息を吐いた。
「独り言みたいに喋ってるだろいつも。何もない宙を見てたりとか……」
「……見てたの?」
「あぁ、まぁ……お前の事放ったらかしにしとく訳にもいかないし」
見上げた父の顔は夕日のせいであまりよく見えなかった。どんな表情をしているんだろうと思いつつ、ルーカスは思い切って言った。
「……おれ、見えるんだ」
「…………何が」
「お化け」
ローエンはぴたりと立ち止まった。ルーカスも少し遅れて立ち止まった。
「………どんな奴?」
「え?ええっとね」
容姿を思い出しながら、ルーカスは言う。
「黒い服に白いのを被った神父さんの霊」
「茶髪?」
「………え、うん。あとね、前髪の片っぽが……」
「赤」
「!……知ってるの?」
ローエンは答えなかった。すると、彼はしゃがんでルーカスと目線を合わせた。
「……どんな事を話した?」
「え、えぇーと」
少し、父の目が怖かった。どこか必死な様にも見えた。そしてルーカスがまた答えに困っていると、彼が肩を掴んで来る。
「俺の事は!」
「……う、ううん、何も……でも」
「でも?」
「父さんのことが何となく気になるって」
「…………気になる?」
「ゆうれいさん、記憶が全然なくって」
「……」
「…………生きてた時のこと覚えてないって……」
父の気迫に不安を覚え、ルーカスは涙を浮かべた。それに気付いたローエンはハッとすると、「ゴメン」と謝ってルーカスの頭を撫でた。
「……他には?」
「え?」
「他に何て言ってた」
優しくなった父の声。ルーカスは心を落ち着かせて、答えた。
「ここにいなきゃいけない気がするって」
「教会に?」
「うん。それで……記憶が戻ったら天国に行けるかもって」
「…………」
ローエンは立ち上がる。そして、もと来た道の方を見る。
「……残念ながらそいつは天国には行けねェよ」
「え?」
「…………行くぞ、ついて来い」
「え、ど、どこ行くの」
茜色の空の対岸、群青色の空へと向かって、ローエンは答えた。
「……教会だ」
#12 END




