第1話 今を生きる者たち
少年は、目を覚ました。窓から差す光が顔を照らし、その眩しさに彼はその紫色の瞳を細めた。
春の陽気に浮かれた小鳥がチュンチュンと囀っている。目を細めると、陽差しはポカポカと気持ちよく、彼は再び夢の世界へと落ちて行く……。
しかし、無へと落ちて行くその聴覚に、ドンドンという足音が届いた。
「ルー‼︎朝!学校!起きろ!」
その足音の主は、部屋のドアを勢い良く開けるとそう叫んだ。少年がうるさいと言わんばかりに布団を引っ張ると、それを思いっきりひっぺがした。
「……朝からうるさい」
「遅刻しちゃうよ」
「今何時……」
「8時」
「……うっそ!」
少年は飛び起き、ベッドの横で仁王立ちしている歳上の少女を見上げる。
「姉ちゃんもっと早く起こしてよ!」
「お寝坊さんの事なんか知りませんー」
少年の黒髪とは全く異なる栗色の長髪と、大きな青い瞳。彼女は意地悪げに笑うと、下を指差した。
「お父さん、朝ご飯作って待ってるから。さっさと支度しなよ。私は先に出るし」
「……あー、姉ちゃんのいじわる!」
少年はドタッとベッドから降りると、部屋の角のタンスへ飛んで行く。少女は一つため息を吐くと、入って来た時とは対照的に、コソッと部屋を出て行った。
* * *
「ソニア、忘れ物」
「あ、ごめんお父さん」
玄関で靴を履いていた少女……ソニアは、ローエンから包みに入った弁当を受け取った。
「お昼ご飯抜きになるとこだった……」
「購買あるだろ」
「あんまり美味しくないんだもん」
「……俺のせいでグルメに……」
「えへへ。行って来ます!」
「おう」
時を経て、ソニアは18歳になった。今はアザリア学園の高等部の三年生だ。その証に、赤のブレザーを着ている。名前は、ソニア・ローエンに。
娘を見送り、彼が一息吐いていると、玄関正面の階段から足音が降りて来た。ローエンは振り向き、ドタバタと降りて来た小さな姿に笑う。
「お、ルーカス、やっと起きたか」
「父さんも何で起こしてくれないんだよ!」
「えー、お寝坊さんの事は知りません」
「姉ちゃんと同じこと言うな!」
少年はルーカス。歳は8歳。ローエンとヴェローナの実の息子である。髪や顔立ちは父親譲り、瞳の色やそれを囲う長い睫毛、左目の下にあるホクロは母のヴェローナを思わせる。
「そろそろ起きて来ると思って出来立てのがあるぞ」
ローエンはルーカスを連れてリビングに戻る。そこではヴェローナが悠々と、テーブルを囲う四つの椅子の一つに座っていた。37歳になった彼女はやはり少し老けたが、それでも美しさはまだまだ現役だ。ちなみに、ローエンは35歳である。彼も少し老けたが、相変わらず街を歩けば女子が振り向く。
「おはよう、ルー」
「……母さん今日仕事は?」
「休み」
「…………ふーん」
口を尖らせて、ルーカスは椅子に座る。目の前にはほかほかの目玉焼きとベーコン、そしてトーストが並んでいる。
「これ弁当。出てく時ちゃんと持って行けよ」
と、ローエンはその隣に、ソニアより少し小さめの弁当の包みを置いた。そう言えば部屋着ではなくワイシャツにベストを着ている父を見て、ルーカスは言う。
「……父さんは今日仕事?」
「うん、あ、ちょっと帰り遅くなるかも」
「えー、じゃあ、ばんご飯は!」
「大丈夫、鍋にカレーあるから腹減ったら適当に温めて食べといて」
「抜かりないわね……」
ヴェローナがそう言ってため息を吐く。
「んじゃ」
「行ってらっしゃい」
「行ってらっしゃーい……」
ルーカスは一つため息を吐くと、目玉焼きを口にする。あり得ない程美味しい。ただの目玉焼きのくせに。
「ルー、急がなくていいの?遅刻しちゃうわよ」
「……父さんが作ると一気に食べれない」
「あー……気持ちは分からなくもないわ」
と、ヴェローナは苦笑する。
その後、ルーカスは無事に学校に遅刻した。
* * *
アザリア学園にて、昼休み。春の陽気の下、校庭では初等部から高等部までの生徒が友と昼食をとったり談笑したりしていた。
「ソニア、リノ、こっちこっち!」
茶髪の少女が手を振る。その傍らには彼女より少し背の高い、顔のよく似た青年が。
「あー、いたいた、ルーシー」
ソニアも手を振り返した。手には弁当を持っている。
「今日はいつにも増していい天気だね」
隣のリノがそう言う。二人はすっかり親友である。少し離れた所で待つ、ルーシーとライリーも。
「いい天気だから人も多いね」
「いつも中で食べてる人も出て来てるのよ」
ソニアの言葉に、ルーシーがそう答える。四人はいつも昼休みは外で過ごしている。雨や雪の日以外は。
空は晴れやかな青である。雲も少なく、顔を惜しげなく出した太陽はポカポカとした心地よい陽差しを地上へ降らせていた。
今年、ソニアとリノは同じクラスだったが、ライリーとルーシーは別である。この双子もまたそれぞれ別のクラスだった。
「……このままお昼寝したい」
と、ソニアは笑う。まずはお昼ご飯でしょ、とリノがそれにつっこんだ。
四人分取ってあったベンチに座る。太陽で良い具合に温められている。じっと座っていると眠ってしまいそうだ。
ソニアが弁当箱を開けると、ライリーが覗き込んで来た。
「…………今日も美味しそうだね」
「でしょ。……今日うっかり忘れそうになって焦った」
「ソニアってそういうとこあるよねー」
毎日楽しみにしてるくせに、とルーシーがやれやれと言わんばかりに首を振る。
「本当いいなー、私もソニアちゃんみたいなお父さん欲しいな。仲も良いんでしょ?」
「え、リノは仲良くないの?」
「あたしの所も、あまりパパとは仲良くないわ。……自分で言うのもなんだけど、これぐらいの歳になると大体そうなるんじゃない」
ライリーはママと仲良くないけどね、とルーシーは付け足す。
「……そうなんだ」
知らなかったなー、とソニアは思う。ローエンと仲良くしているのが普通だった。もしかして、本当の親子じゃないからだろうか、と少し不安になった。
「ソニア?」
リノが顔を覗いてくる。ソニアはハッとして、彼女の方を見た。
「あ、ごめん、何?」
「大丈夫?」
「え、うん」
膝の上の弁当箱に目を落とし、さ、食べよっか、と箸をケースから出した。
入っていた卵焼きを口に運ぶと、さっきの不安はどうでもよくなった。昔から慣れた味、それでいて、飽きない。もう、彼と出会ってから10年になる。今さら、血の繋がりなんて。
(……だからこそ、かなぁ)
小さい時には感じなかった事が、今は色々とある。当時自分は、どうしてローエンに躊躇いなく付いて行ったのか……とか。ただ、幼かった頃の自分などほぼ別人のようなもので、現在のソニアが思い悩んでも仕方のない事のような気がする。別に、不自由はない。十分過ぎるくらい良くしてもらっている。そういえば、出会ってすぐくらいは彼は自分の事を邪険にしていたっけ、とそんな事を思った。
今は弟もいる。直接の血の繋がりはないけれど。そういえば、彼に父や母は伝えたのだろうか?ソニアが彼の、本当の姉ではないという事を。
(……自分で考えてて悲しくなって来た)
本当だの、そういう事はもう、どうでもいいはずだ。ローエンもヴェローナも、そんな事は気にしないで過ごしている。普通に、ソニアを娘として見ている。
だが、ソニア自身が悶々と悩んでしまう。どうしても……ルーカスを見ていると、胸の奥がチクリとした。でも、弟か妹が欲しいと言ったのは自分だし、別に彼の事が嫌いな訳でもない。寧ろどちらかといえば好きな方だ。可愛い弟。後悔はしていない。しかし、時折何か、寂しいものを感じてしまう。それは、彼の容姿のせいだろうか。自分の大好きな、父や、母に似た……。
「あ、あれってルーカス君じゃない?」
と、そんなライリーの声でソニアはハッと我に返った。彼の指差す先を見ると、確かにそこには、今朝、出掛ける前に彼の部屋で見た弟がいる。服装は寝巻きではなく青のブレザーだが。
「……本当だ」
結局遅刻したのか間に合ったのか、気になったが帰ってから覚えてたら聞いてみよう、と思った。
「隣にいるのは?」
ルーシーが訊く。彼女たちはルーカスには何度かソニアと共に会っているが、一緒にいるもう一人には見覚えがなかった。
「あぁ、あれはザカリー。……ルーの友達」
艶のある白に近い銀髪と、ルーカスと似た紫色の目。遠目に見ても、まつ毛が長い。誰が見ても口を揃えて「美少年」と言うだろう。……ルーカスもなかなか負けてはいないのだが。
「……あの子達多分成長したら学園のスターになるわ」
「あはは……」
ルーシーの言葉に、ソニアは苦笑を漏らす。
二人は既に食後で、芝生に座って話しているようだった。こちらを向いているが、気付いているのだろうか。とにかくこちらを気にしている様子はない。
(……ザカリー君、本当に似てるなぁ)
ふと、ソニアはある人を思い出す。それは、彼の父。今はもういない。
彼の父親は10年前、彼が生まれる前に死んだグラナートだ。今は母であるジークリンデと二人暮らしだと、ローエンから聞いていた。
ジークリンデとはルーカスとザカリーがここへ入学してから、何度か会った事がある。ザカリーの顔立ちは、全体的にはジークリンデに似ているようだが、髪と目の色や纏う雰囲気は、ソニアの知るグラナートとそっくりだった。もしかして生まれ変わりなのかな、とそんな事も思っていた。
とにかく、彼の性格はあまり話した事が無いのでよく知らないが、ルーカスと仲が良い事は確かだ。遠目に見ても分かる。それくらい、一緒にいるのをよく見る。少なくとも、ソニアは。
「でもルーカス君達、あまり外に出て来ないわよね?」
ルーシーが言った。ソニアは頷く。
「まぁ、あの子達も陽気に当てられて出てきたんでしょ」
ソニアは最後の一口を食べ、弁当の蓋を閉める。そして、お父さん、今日も美味しかったです、とソニアは手を合わせた。
* * *
「……あそこ、君のお姉さん」
「ん?どこ」
「ほら」
一方で、ルーカス達は。
ザカリーが指差す方向を、ルーカスは見た。確かに、あれは今朝自分を騒々しく起こしに来た姉だ。
「……おれ姉ちゃんきらい」
「どうして?」
「今日もいじわるしたし」
むす、とルーカスは頰を膨らませた。時々やられる。自分がなかなか起きれないタチなのを知っていて。父もグルらしいが、父の事はそこまで嫌いとは思わない。まだ好きな方だ。
「……今日おくれて来た?」
「…………来た」
「お姉さんのせい?」
「……そう」
いや、違う。厳密には自分が起きないのが悪い。それは分かっている。だが、姉には何だかムカつく。
「人のせいにするのはよくないよ」
「…………分かってんよ」
はーあ、とルーカスは後ろへ手をついた。
「お前はいいよなー、兄弟いなくてさ」
「……そうかな」
「いない方が絶対楽だって」
な、とルーカスがザカリーの方を向くと、ザカリーは何だか暗い顔をしていた。
「ザック?」
「…………ぼくは正直、君がうらやましいよ」
「え?」
「知ってるでしょ、ぼくに父さんがいないこと」
「……」
「どんな顔かも知らないし。どんな人かも知らないし。……本当にいたのかも分からないし。……母さんは、ぼくが父さんとにてるって言うけど」
ザカリーは、年齢に合わず落ち着いた性格をしていた。内気で、あまり周りとも馴染めない。ルーカスと友達になったのも、ほとんどは親の繋がりで、ローエンとジークリンデのお陰とも言える。
「……だからさ。せっかくいる人を、いらないとか言わない方がいいと思うよ」
「…………」
ルーカスは、反論出来ない。そして、さらにザカリーの前でそれを言ってしまった事を後悔した。……彼は傷付いたんじゃなかろうか。
「……ごめん」
「どうしてあやまるの?」
「…………いやな気持ちになったかなって」
「べつに。君の家のことは、ぼくにかんけいないし」
「ザック……」
ザカリーは、ルーカスと一緒にいてはいるが、どこか壁を作っているようだった。完全に打ち解けた訳ではない。ルーカスはどちらかと言うと、人気のある方だ。気さくで、他人とすぐ仲良くなれる。だからこそ、それが出来ないザカリーが気になっている気持ちもあった。勿論、父に彼の事をよろしくと言われているのもある。
「……父さんが、ザックの父さんと友だちだったって言ってた」
「!」
「話、きいてみる?」
「…………いい」
ザカリーは、父について知りたい気持ちが半分と、知りたくない気持ちが半分だった。どんな人なのかは気になって、母に聞いてみた事はある。だが、彼女はあまり深くは語らない。何か、言えないことでもあるかのように。
禁断の質問な様な気がして、ザカリーはそれ以上はまだ、聞くべきではないと思って母には聞いていない。
だが、やはり知りたい気持ちもある。
「……どうして父さんは死んじゃったんだろう」
「!」
「どうしてかも、母さんは教えてくれないし」
周りを見ていると、悲しくなる。父親や、兄弟のいる家庭が、羨ましくなる。だから、あまり考えないようにしている。……それでも、時折耐えられなくなる。
ルーカスは何も答える事が出来ない。答える為の言葉を知らない。
「……おれ、何か力になれる?」
とりあえず、そう言った。ザカリーはルーカスの方をチラリとみて、すくっと立ち上がった。
「ルーは、友だちでいてくれる」
「!」
「ぼくはそれでうれしい」
風が吹いた。白い髪がサラサラと流れる。悲しそうな目が、ルーカスを捉える。それはどこか儚げで、風の中に消えてしまいそうに思えた。
そういえば、ルーカスはザカリーが笑ったところを見た事がない。
始業10分前のチャイムが鳴った。それに合わせて、校庭にいた生徒達が校舎へと帰って行く。ふとルーカスが姉達の方に目を向けると、彼女達も赤の波に乗って戻っていた。
「おれたちも行こう」
「うん」
ルーカスはザカリーを促し、青の波へと紛れて行く。彼らは初等部三年生。ソニアの高等部の校舎とは反対側に校舎がある。
「次の時間なんだっけ?」
「算数」
「うわー、おれやだなー」
ルーカスはあまり勉強が出来る訳でもない。宿題にはいつも苦労している。時々、ソニアが宿題を手伝ってくれる。彼女は自分と違って頭がいい。
(……そういうとこは、役に立つけど)
嫌い、とは口では言いつつも、心の底から憎い訳でもない。家族としては大切だ。たとえば、突然いなくなったりしたら困る。
一方で、ザカリーは全体的に勉強が出来るようだ。クラスでもトップだという。二人は別のクラスなので、ルーカスはあまり詳しくは知らないが。
校舎に入り、教室の前で二人は別れる。一人なってルーカスは、次の授業の憂鬱さにため息を吐いた。
#1 END