記憶
足軽組頭・長野喜十郎の自慢は、位人身を極め、関白にまで上り詰めた秀吉の若い頃を知っており、共に働いていたということである。
酒を飲むと、若い者を集め自慢話が始まる。何が自慢かと言うと、秀吉が足軽として信長に仕え始めた頃より、必ず出世する男と自分は見抜いていたというのである。
「あのお方はな。最初から違っていた。誰と話しても、人の気を逸らさない。それでいて、相手が話し始めると、決して途中で口を挟んだりはしないのだ。
絶妙な間で適格な相槌を打って、相手をいい気分にさせてしまう。それだけではないぞ。一度聞いたことは決して忘れない。
もっとも、そのくらいでなければ、あの気難しい信長様にお仕えして気に入られるなどということは出来なかったろうがな。最初からものが違っていた。あのお方と若き日のひと時を共に過ごせたことは、わしの一生の宝じゃ」
若い者達は、また組頭の例の話が始まったと思うが、話題が秀吉のことだけに、その話はもう何十回も聞き申した、などと止めることは出来ない。もし、少しでも秀吉の悪口めいたことでも言えば、むしろ、必死で止めに掛からなければならないところだが、どんなに酔っても、喜十郎が秀吉の悪口めいたことを言うことは決して無かった。
天正13年(1585年)7月25日に長宗我部元親が降伏したため四国攻めが終わり、自宅に戻って束の間の休息を満喫していた喜十郎に、番頭から呼び出しがあった。
島津氏に圧迫された大友宗麟が秀吉に助けを求めて来ていた。関白となった秀吉は島津義久と大友宗麟に朝廷の権威を以て停戦命令を発したが、九州攻略を優勢に進めていた島津はこれを無視し続けている。
次は九州征伐となるだろう。そのことに付いて何らかのお指図があるのか。喜十郎はそう思いながら番頭の許を訪ねた。
「喜十郎、本丸中庭へ参れとのことじゃ」
顔を合わせるなり、番頭はそう言った。
「はっ? どういうことで御座いますか?」
「分からん。上からのお達しじゃ。行けば分かるであろう。御門のところに案内の方が待っているそうだ」
「はあ、左様で …… ま、兎に角行ってみましょう」
普通なら、足軽風情が本丸の中庭まで入ることはまず無い。ひょっとしてお召しでは、と喜十郎は思った。秀吉が自分のことを覚えていてくれたのではないか。用件については見当も付かないが、それだけでも嬉しい。十年以上も、顔を見ることさえ無かったのだ。
本丸に入る桜門のところで、側衆らしい立派な身なりの武士が待っていた。
目の合ったところで目礼し、近付いてから改めて、膝を少し折り袴の膝の上辺りを軽く掴んで、腰から上体を倒して頭を下げる。
「番頭・稲葉勝成配下の足軽組頭・長野喜十郎にございます。お召しにより参上仕りました」
「うん。付いて参れ」
案内役の武士は、それだけ言うと、振り向いてさっさと歩き始めた。喜十郎は少し身を屈めるようにして従う。
いくつもの番所を抜けると庭に出る。風雅というものなのか、広い敷地に池や築山が配され、曲がりくねった細道が続いている。それを抜けると正面に大きな建物が有り、回廊に掛けられた幅広い階が目に入った。
「殿下が直々お見えになる。ここに控えておれ」
「はっ」と返事をし、地べたに正座する。
『覚えていて下さったのだ』
思わず笑みがこぼれそうになるのを噛み殺した。
しばらくの後、錦糸を使って織った、眩いばかりの羽織袴を身に着けた小柄な姿が見えたと思った。
「お出ましじゃ。控えい!」
きつい口調で武士が言った。
喜十郎は慌てて頭を下げ、額を土に付ける。そのまま長い時が経ったような気がした。
「面を上げよ」という言葉を待っていた。
「そのまんまじゃ、な~んも見えりゃせんがな。喜十か? 顔を上げてちょ」
間違い無く、懐かしい藤吉郎の声がそう言った。
喜十郎は恐る恐る顔を上げる。
いつの間にか武士の姿は消えていた。そこに居るのは、秀吉と喜十郎のふたりだけだ。
秀吉は回廊に立って笑顔で喜十郎を見下ろしている。もともと額に皺の有る藤吉郎だったが、さらにその数が増えている。と言ってもまだ四十七歳のはずだ。
益々猿に似て来ている。一瞬そう思ったが、保身本能により、その感情を意識の外へ押しやった。
「喜十。懐かしいのう」
そう言って秀吉は階を一段降り、回廊に腰を降ろした。
「ははっ」と言って、喜十郎は再び深く顔を伏せる。
「そう固くならんで良いわ。顔を上げてちょ。わずかな間だったが、昔は、おみゃあ、俺と呼び合った仲じゃ。…… のう」
「お言葉有り難くは存じますが、今は天と地の差が御座います」
「そうか。ならば良い。おみゃあに来て貰ったのはな、昔のこと思い出したからじゃ」
「はっ。どのようなことを思い出されましたか?」
「うん。この歳になるまで、わしは前だけ見て突っ走って来た。
四国も片が付き、後は跳ねっ返り者の島津と頑固者の北条くらいのものじゃ。なに、近いうちにそれも片付き、天下も収まるじゃろう。
殿下様にもなった。それで改めて振り返ってみると、若い頃は随分と悔しい思いもして来た。
その頃のわしは、己の才覚でどこまでのことが出来るかという事より他考えておらなんだ。それ以外のことはすべて些細なこととして切り捨てて来た。馬鹿にされても、今に見ておれと思いながら、笑ったりお道どけたりしながら躱して来た。
わしが上になった時、わしを馬鹿にした者達は掌を返したようにへつらって来おった。それで大方憂さは晴れた。
ところが、未だに抜けぬ棘のように突き刺さっている言葉があったことに気付いた。分かるか? 喜十」
「はて? 手前などには思いも寄りませぬが …… 」
「わしが嬶に想いを寄せていた頃の事じゃ。
『ねね様は、お小姓・前田犬千代様の想われ者と言われておるぞ。おみゃあなどの手の届く相手ではにゃあ。諦めて、山に入って器量良しの雌猿でも探した方が良いのではないか』
と言って笑った者がおってのう。 …… 覚えておらぬのか、喜十。おみゃあだ!」
頭の中が真っ白になって、思い出すどころか、考えることさえ出来なくなった。
喜十郎は、『そんな馬鹿な。そんなはずはない』と、そればかりを呪文のように頭の中で繰り返していた。
「思い出さぬなら、一晩だけ呉れてやろう。牢の中でじっくり思い出してみるがいい。明日の朝、その素っ首刎ねる」