第35話 前線へ往く者
少女の願いを聞き入れた阿頼耶の行動は早かった。ポケットに納めていた、冒険者ギルド【アルカディア】より支給された【虚空庫の指輪】を取り出し、それを右手の人差し指に嵌めた。
そして彼は腰に帯びた剣帯を剣ごと【虚空庫の指輪】に収納し、代わりに刀用の剣帯と神刀【極夜】を取り出して装着。セツナが選んでくれた黒いコートも出してそれを着た。まるで、それが自分の本来の装備だと言わんばかりに。
二つ目の【虚空庫の指輪】、明らかに強力そうな武器に、付与魔術が施されたコート。こんなものをクラスメイトたちの前で装備すれば、この場をどうにかすることはできたとしても、王城に戻ってから彼は面倒事に巻き込まれることになるだろう。
だが、そんなことはもう阿頼耶にとっては些末な事柄として処理されていた。
願いを聞き届けた。助けてを聞いた。それに応じた。
ならば後先のことなんて考えている場合じゃない。今やれることをやるだけだ。
身体強化の魔術をかけようとした時、阿頼耶に向かって立川隼人が叫んだ。
「ふざけんじゃねぇぞ、阿頼耶!! ここにいる全員を逃がすだと!? そんなこと、お前なんかにできるわけねぇだろうがっ!!」
「どう思おうがお前の勝手だが、今は問答している暇はない」
詰め寄られても、阿頼耶は顔色一つ変えなかった。
それが立川の神経を逆撫でした。
「上から言うんじゃねぇよ! 俺の上から! ド底辺のクズ野郎が調子に乗るな! 一体何様のつも――」
言葉は続かなかった。代わりにトンっと軽い音が響いた。
腰に吊った【極夜】の柄頭を立川の鳩尾へと打ち込んだ音だった。
「あ、が……」
肺から一気に空気が抜け、視界が揺れ、意識が遠退く。
「問答している暇はない。そう言ったはずだが?」
「あ、らや……てめ……っ」
必死になって意識を繋ぎ止めようとしているのだろうが、それも叶うことなく立川の意識は途切れる。そのままずるずると地面へ崩れ落ちた。
何を言ったところで無駄に時間を取られるだけ。ならば少々手荒でも時間を短縮できるように状況を進めた方が良い。そう思っての行動だった。
気を取り直して、阿頼耶は準備を進める。
「【身体強化】、【速力強化】、【筋力強化】、【体表強化】、【感覚強化】」
立て続けに術式名を口にし、それに伴って魔法陣が展開されて次々と阿頼耶の体へと吸い込まれる。彼が使ったのはどれもこれも自身の体を強化する術式ばかりだ。
【身体強化】は総合的に自身の肉体を強化する術式なのだが、彼はそこから更に速力、筋力を強化する術式と、体表――つまり肉体の耐久を強化する術式、加えて動体視力や反射神経を強化する術式も重ね掛けしていた。
目の前で起こったその出来事に、佐々崎は目を見開いた。
彼は「無属性魔術の【身体強化】しか使えない」と自己申告していた。彼は勇者ではなく一般人なのだし、自分たちよりも魔術が使えないとしても何ら不思議ではない。そう思って納得していた。
けれどそれがどうだろうか。
蓋を開けてみれば、彼はいくつもの魔術を使っているではないか。しかも自分たちよりも圧倒的に少ない魔力量で。
自らの準備を終えた阿頼耶は周囲に指示を出す。
「結城は召喚獣のレオと共に先行して最短で第十階層の階層主部屋を目指せ。北条は全員の隊列を組んで、結城に続いて全員を誘導。道中、魔物と遭遇するだろうが無視しろ。それが無理なら可能な限り時間をかけずに倒せ。長瀬さんはいざという時に備えて隊列の中央の位置に待機。魔力残量は考えなくていい。誰か怪我をしたら遠慮なく治癒系の魔術を使え。残りの【円卓の勇者】と騎士たちは等間隔に配置して他のメンバーの守護。他のヤツらで動けるヤツは動けないヤツを運ぶんだ」
だが誰も動こうとしない。指示を出したのが阿頼耶だから、という幼稚な理由からではない。自分たちの知る彼とは明らかに異なる、頼りがいのある雰囲気。立川を一撃で昏倒させ、複数の魔術を同時に重ね掛けするという実力。そして再起不能となっていた佐々崎鏡花を奮い立たせた。目の前で行われたそれらの事実が、信じられない、信じたくない出来事として彼らの動きを止めていた。
呆れたように深く溜め息を吐いた阿頼耶は大きく息を吸って声を張り上げる。
「死にたくなかったらさっさとしろ!!」
「「「は、はいっ!!」」」
弾かれたようにクラスメイトたち一斉に動き出す。騎士たちも騎士たちで急変した阿頼耶の雰囲気に懐疑的な視線を向けつつも行動を開始した。
(とりあえずこれで良い)
この場ですることはもうない。そう判断した阿頼耶が歩き出そうとした時、声を掛けられた。
「あ、雨霧君」
消え入りそうなその声に、声を掛けて来たのは長瀬文乃かと思ったが、そこにいたのは佐々崎だった。彼女は何かを言おうとしたが、口もごるだけだ。
彼女は分かったのだ。やることを終えた阿頼耶がどこへ向かおうとしているのか。そして何をしようとしているのか。だから声を掛けたのだが、そこから先の言葉を出すことができなかった。
助けを求めてしまった自分には、そんな言葉を言う資格なんてないと思ったから。
今から黒龍のいる戦場に向かおうとする彼を止める資格なんてないと思ったから。
言葉を発さない彼女にどう思ったのかは分からないが、彼は一言だけ言った。
「行ってくる」
コートを翻し、再び歩き出す。
あっ、と佐々木は手を伸ばしたが、彼の背中を掴む寸前で止まる。
無理だった。止められなかった。
……彼女の小さな手で引き止めるには、彼の背中はあまりにも大き過ぎた。
次話は一月に更新します。




