第173話 天から堕ちた者と妖しき物の怪
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時間は過ぎ、陽が落ち始めて空が茜色に染まり出した頃。
こっそりと阿頼耶たちから離れて単独行動をしていた、『情報屋』エストは領都中のあちこちを巡り歩いていた。大通りを歩いていた彼女は人並みから外れるように路地裏の方へと逸れる。少し奥の方にまで進むと、肩から提げていた鞄の中から小さなハンドベルのような魔道具を取り出した。
リン、と綺麗な音を鳴らせば魔法陣が展開され、ハンドベルに刻まれた【人払い】の魔術が発動される。これでエストのステータスレベルより低い者はここに入り込むことはできない。ハンドベルの魔道具を鞄に収めると、彼女は被っていたキャスケットを脱いで一言呟いた。
「――【人化】、解除」
変化は劇的だった。
光が弾けるようにして頭上にひび割れた黒い光輪が現れ、さぁーっと癖のあるセミショートの栗毛は黒みの強い銀髪に変わり、瞳も青から赤になる。それは七種存在する魔族の一つ、堕天使種の特徴だった。
誰かに見られたら唖然とするような変わりようだが、それを回避するために【人払い】をしているので問題ない。フルフルッと頭を振ったエストは左手で近くの壁に触れる。
「――紋章、拡張」
その言葉で、彼女の持つ堕天使固有のユニークスキル【紋章術】の力が解放される。それを示すように左手の甲に鏡に巻き付く十二枚六対の翼に七つの頭を持つ禍々しい蛇の紋章が浮かび上がった。
かと思ったら、彼女の左手を起点にまるで血管のようにいくつもの黒い線が四方八方へと伸びていく。
壁を伝い、地面を這い、屋根を走る黒い線は一帯の建物全ての窓際に設置されていた、彼女の左手の甲にあるものと同じ紋章に接続される。
「――末端紋章への接続を確認。記録情報の収集を開始」
命令を下せば、設置されていた紋章が徐々に薄れ、次から次へと消えていく。同時にエストの脳内では様々な映像と音声が再生される。
堕天使固有の戦闘系ユニークスキル【紋章術】は、その図形を軸として己の精神で力を行使する術だ。スキル獲得者の精神によって作用するため、力の種類はスキル獲得者の性格によって変わる。
エストの場合は『知りたがりな性格』から、鏡や水面などに映った虚像を各所に設置した『自身の精神を細かく切り分けて宿した紋章』に記録・保存し、指定したチェックポイントから末端紋章に接続して収集することができる。領都のような都市だと必要なチェックポイントは大体十ヶ所だ。
いわば地球での監視カメラのようなもので、今はその設置した末端紋章から保存された情報を吸い上げている。情報屋として活動している彼女は現地に諜報員がいるわけではなく、こうやって情報を集め、気になるものがあれば自身で追加調査しているのだ。
他の領地でも同じ方法で情報収集を行い、フェアファクス皇国全域をカバーしている。ちなみに、彼女が堕天使であることを知っているのはセツナの実母だけで、セツナ本人も父親の皇王も妃たちも兄姉たちも知らない。
情報の吸い上げと末端紋章の再配置が完了すると、伸ばしていた黒い線は起点となっていたエストの左手に戻っていった。
この地点での情報収集は無事に終了したので次のチェックポイントに向かおうとしたが、場の雰囲気が変わった。気温が低下したわけでもないのに感じる、ひんやりとした肌寒さ。覚えのある感覚に何が起こったのか理解したエストは、大通りに続く方向に視線を向ける。
そこにいたのは、狐の耳と尻尾を生やした幼い孤児の少女――リーシェだった。
「ウチの姿を見るなり逃げはるなんて酷いわぁ。知らん仲でもないんやから、そないに邪険にせんでもええやないの、エストはん」
発した声は、しかして幼女とはかけ離れた色気のある妖しい女性のものだった。自身の名前を呼ばれたエストは『マジかー』と言わんばかりに手で顔を覆って天を仰いだ。
リーシェはケタケタと可笑しそうに笑って軽く指を振れば、青い狐火が彼女の全身を包んだではないか。何も知らない者が見れば卒倒するような光景だが、エストの顔に焦りはない。見慣れたように眺めていた。
火を纏った時間は秒もない。
ぶわっ、と狐火が四散するが、一切の熱が感じられず、それどころか周囲には木箱だってあるのに燃え移っていない。狐に化かされたような、そんな炎の瞬きに彩られるように弾けた狐火のあった場所に幼女の姿はなく、変わりに一人の美少女がいた。
「相変わらず見事な変化ッスね」
手入れが行き届いた長い金髪は真っ直ぐ伸びたストレートで、魔族であることを示す赤い瞳は妖しく輝いている。吊り上がった目尻に引かれた赤いアイシャドウも実に魅力的である。
キュアノス東方大陸にあるヤマトから取り寄せたであろう上物の着物を身に纏う彼女の背後で九本に増えた尻尾が揺れ動いた。
「お久しぶりッス、玉藻前燈依さん」
アハッ! とリーシェ改め燈依は肯定するように笑った。
そう。彼女は獣人族ではなく本当は魔族の妖怪種で、妖怪固有のユニークスキル【妖魔術】で化けていたのだ。
しかもそれだけではなく、彼女は七大魔王第四席『総大将』玉藻前妖燈の実娘でもある。
「ホンマ、久しぶりやね。エストはんが魔国領を出てそれっきりやさかい、何十年振りになるやろか? まぁ元気そうでえかったわ」
燈依の言葉にエストは気まずそうに頬を掻く。
とある事情で魔国領を出る羽目になったエストはフェアファクス皇国に流れ着いたのだが、燈依を含めた仲の良い友人たちに何も言わずに出国したので、幼女の姿に化けた燈依を見て合わせる顔がないと逃げたのだ。
まぁ結局は見付かってしまったが。
ゴホン、とわざとらしく咳払いをしたエストは話題を変える。
「ここにいるのは、阿頼耶さんが目的ッスか?」
「さっき情報を吸い上げて知ったんやな? ……そうや。ウチんとこの属国のヤマトで、先代の魔王『戦鬼』羅門を復活させようっちゅー輩がおったらしゅーてな。陽輪陛下からその事件の解決に尽力してくれたんが阿頼耶はんやって聞いてん」
「そのお礼のために来たってわけッスか。……あれ? じゃあ何でわざわざ【妖魔術】で化けていたんスか? 阿頼耶さんに会いに来たってことはカルダヌスに向かうつもりで、ここには立ち寄っただけなんスよね?」
「いやぁ、ホンマはカルダヌスで会うつもりやってんけど、偶然街中で陽輪陛下から聞いとった特徴しとる男を見掛けてな。試しに【鑑定】スキルを使うてみたらドンピシャやないの。せやったら正式に会う前にちょいと内緒で阿頼耶はんがどないな人なんか知っとこ思うてな」
「それでわざわざ【妖魔術】で化けて孤児院の子供に成りすましていたんスね」
ただ、化けていただけなら孤児院のシスターたちが気付いてしまうので、違和感を抱かないように認識も弄っている。ある種の催眠のようなもので障害が残るようなことはなく、【妖魔術】による認識操作を解けばリーシェのことは忘れるようになっている。
それが彼女の力――各妖怪の伝承を基にした力を行使する【妖魔術】だ。
「ヤマトの皇が代替わりしたのは初耳ッスけど、先代魔王の復活ッスか。にわかには信じられないッスけど、妖燈様にとっては無視できない事件ッスね。けど、事件の報告を受けた時には解決したこともセットだった、と」
もしも先代の第四席が復活していたら、現在の第四席である妖燈の地位は危ういことになっていた。先代の魔王が復活しなかったのは『百物語計画』が失敗したからなのだが、事件解決のために尽力してくれたのは事実なので、妖燈がお礼をしたいと考えるのは当然の流れだ。
しかもそれに関わったのが救世主の息子なら尚のこと。
通信用魔道具で陽輪から公的な連絡を受けて詳細を母親の傍で一緒に聞いていた燈依は『先代魔王の復活』だの『救世主の息子』だの、耳を疑うような内容ばかりで混乱したものだが、不確定な情報を公的な連絡で告げるとも思えなかったので信じるより他はなかった。
そして最終的に、魔王である妖燈が直接赴くことはできないので、娘の燈依が行くことになったというわけだ。
(阿頼耶さんたちがヤマトから戻ってまだ数日なのに、燈依さんがもうこの領都ガルスにいるのは、牛車の妖怪の朧車を使って移動したからッスかね)
とエストは当たりを付ける。
「仲良さそうやったし、てっきり阿頼耶はんから聞いてはると思っとったんやけど……ヤマトの事件、知らへんかったん?」
「そりゃあ聞きはしたッスけど、さすがに詳しいことまでは。それに、ジブンの【紋章術】でカバーできるのは一国までで、他国にまでリソースを割けないッスから知りようがなかったんス」
もちろん情報屋なので、情報収集を兼ねて阿頼耶たちがヤマトで何をしてきたのかはそれとなく聞いた。しかし聞けたのはゲノム・サイエンスが椎奈を使って人工的に勇者を作ろうとしたということだけで(それでもかなり驚愕な内容だが)、詳しいことは聞けなかった。
というのも、カルダヌスで噂になった妖精王国アルフヘイムで起こったという『瘴精霊事件』を調べているうちに彼が『救世主の息子』だと知ってしまったからだ。
彼がそういうのを気にしない性質なのは知っているが、それでも根掘り葉掘り聞くのは躊躇われたのだ。
話している間に随分と時間が経ってしまった。これ以上はさすがに阿頼耶たちに誤魔化すのが難しくなる。それは燈依も同じ考えのようだ。
「ウチはそろそろ行くわ」
「はいッス。あ、そうッス、燈依さん。ジブンがここにいることは……」
「分かっとる。本国には内緒にしたるさかい、安心しとき」
「ありがとうッス」
「ええよ。昔の誼みや、それくらいのことはしたる」
肩を竦めた彼女はヒラヒラと手を振り、
「ほな、またな。七大魔王第二席『総督』アヴェニス・アザゼル様の末娘、エストレヤ・シェリー・アザゼルはん」
再び【妖魔術】で人狐種の幼女の姿に変わってリーシェになった燈依は立ち去る。彼女の言い残した言葉を反芻するエストは、吐き捨てるように呟いた。
「……ジブンはただの負け犬ッスよ」
愁いを帯びた表情を浮かべる彼女の背中には本来あるはずの黒い翼はなく、もがれて極端に小さくなった翼の残骸しかなかった。




