第16話 堕ちるは容易くとも理由は難し
事件は解決した。
一家離散に命の危機にまで陥ったというのにそんな一言でまとめてしまえる辺り、姫川紗菜は逞しいのか鈍いのか。解決の瞬間を目撃したわけではないので、あまり現実感がないだけなのかもしれない。
「――というわけで、皆さんを苦しめていた賃金業者は麟鳳会もろとも壊滅しました。それに伴って姫川さんたちの借金についても帳消しになりました。まぁこれに関しては元々違法に貸した借金であるため、遠からず無効扱いになっていたでしょうけど」
姫川家のリビングにて、姫川拓凪と姫川沙織と姫川紗菜は目の前にいる三人から事件のあらましを聞いていた。話しているのは警視庁刑事部捜査一課の日野拓馬、警視庁刑事部二課の荻野静香、警視庁組織犯罪対策部第一課第七対策係係長の真壁史郎だ。
話しているのは主に荻野刑事と真壁刑事の二人で、日野刑事は管轄外だからかあまり口を出さないようにしている。
「以上が事件の顛末になります」
「そうですか。彼は、約束を守ってくれたんですね」
事件のあらましを話し終えた荻野刑事の言葉に、拓凪は安堵したように息を吐いた。自分の娘である紗菜がこうして傍にいる時点で分かっていたことだが、警察から改めてその言葉を聞くことでようやく全てが終わったのだと肩の力を抜くことができた。
「皆さん、本当にありがとうございます」
「礼なら阿頼耶に言ってください、拓凪さん。アイツが大義名分を用意しなければ、俺たちは動けなかったんですから」
「そういえば、その阿頼耶くんはどこに?」
「アイツはまだ動いていますよ」
肩をすくめるようにして言った日野刑事は出されたお茶を一口飲んで、
「アナタ方の借金問題は解決しましたが、まだ事の発端である白峰雪乃の事件で手に入れた依頼リストの問題があります。今回の件はその依頼リストから発覚したもの。だから彼は大元を叩くために行動しているんです」
そう言えば、と紗菜は白峰雪乃が住むマンションでの会話を思い出す。
(白峰さんの事件で手に入れた悪い人たちの依頼リストから、借金のことを知ったんだっけ)
となれば、彼は本来の目的である依頼リストに記載された悪党たちを掃討するために行動しているのだろう。
「阿頼耶君にとっては、今回の事件は枝葉に過ぎなかったってことなんですね」
元の事件から派生した出来事だったから助けただけ。相手が誰だろうと助けた。自分じゃなくても良かったのだ。そこに理不尽に泣く誰かがいれば、彼は誰であろうと助けたのだ。
そう思った紗菜は気落ちしたが、
「それは違うぞ、嬢ちゃん」
日野刑事の否定する言葉に、首を傾げた。
「今回の件はな、わざわざ首を突っ込まなくてもいずれは解決できたことなんだ。何しろ阿頼耶は始めから依頼リストにあった悪党どもは根絶やしにするつもりだったんだからな」
言われてみれば確かにその通りだ。借金問題が解決するまでの間、姫川家は理不尽な目に遭うだろうが、それでも依頼リストのメンバーを掃討すれば遠からず救われていた。ならば全てを一気に解決できる依頼リストの一掃を行った方が効率的だったはずだ。
「じゃあ、何で?」
「そりゃ簡単だ。一刻も早く嬢ちゃんを助けたかったからさ」
「わた、しを……?」
「アイツは誰かと助けるってなると、自分の中の『熱』に従って動くヤツだ。けどそれはただの感情論で動くわけじゃない。三年前の事件から今までずっと誰かを救い続けたからか、アイツは即座に効率よく最短で誰も彼も救う方法を思い浮かべることができる。感情を火種にして理屈で救っていく。だからアイツが救おうと動くならほぼ間違いなく依頼リストの掃討から始めたはずだ。それが一番確実で、手間の少ない方法だからな。けど、今回はそれを後回しにして姫川家の借金問題を先に片付けた。……つまり、そうしてでも嬢ちゃんたちを先に助けたかったってことだ」
驚愕に目を見開く紗菜。
雨霧阿頼耶は誰よりも理不尽を嫌っている。日野刑事の言葉から察するに、それは三年前の事件とやらが彼をそうさせた。だから例え自分と縁も所縁もない相手だろうと、それが理不尽を前にただ泣くことしかできない人なら助ける。
けど、今回は違った。
大切な友達が理不尽な目に遭っているのを一秒たりとも放っておけなかった。すぐにでも助け出したかった。他でもない紗菜だったから、珍しく阿頼耶は私情を挟み、麟鳳会と戦ったのだ。
日野刑事の言葉の意味を理解した紗菜は無性に嬉しくなって、胸の内に温かいものがじわりと広がっていった。
(……あぁ、そっか。私、彼のことを……)
全く以て単純だ。あれほど男を嫌っていたのに少し助けられただけで堕ちるとは。
さすがに安直過ぎる。それは分かっている。けれど、どれだけ自分に言い聞かせても誤魔化せなかった。心がすでに定めていた。
(……だって、仕方ないよ)
あの時、雨の降る夜に真正面から受けた、息をするのも忘れるような威圧感を放つ黒髪の少年の言葉を思い出せば、耽溺してしまうほど心が幸福で満たされてしてしまう。もう明白だ。紗菜は確かに阿頼耶に対して特別な感情を抱いていた。
おかしなものだ。激情を叩き付けられたというのに幸福に満たされるなど。
不思議なものだ。男が嫌いな自身がこのような感情を抱くことになるなど。
戸惑いはあったが、不快感はなかった。むしろ、心地良過ぎてどうにかなってしまいそうで、『人を好きになるのがこれほど素晴らしいことなのか』とさえ思っている。
そうやって紗菜が慣れない感情に浸っていると、拓凪が日野刑事に問い掛けた。
「日野刑事さんは、知っているんですか? どうして阿頼耶君が、あんなにも誰かを救うことに拘っているのか」
「……えぇ、知っていますよ。俺もその出来事に関わっていますから」
先ほど、日野刑事は「三年前の事件から」と言っていた。
三年前の言葉で思い浮かべるのは、阿頼耶が夜月神明流を辞めた時期だ。頭の良い紗菜はすぐにその「三年前の事件」とやらが、阿頼耶が夜月神明流を辞めたことと繋がっていると分かった。
「けど、すいません。そのことについては話すことはできないんです」
しかし日野刑事は頭を振って話すことを拒絶した。
「警察にも守秘義務があります。知りたければ、アイツの口から直接聞いてください」
その言葉だけで、紗菜はいくつか分かったことがあった。
まず守秘義務があるということ。これは三年前の事件というのが、世間に出すことが憚れる事件で、それは日野刑事が属する刑事部一課が関わっている事件に他ならないことだ。
二つ目に『アイツの口から聞いてください』という言葉。察するに、阿頼耶がその事件にかなり近い立ち位置にいるということだろう。天才と称されるだけの頭脳を持つが故に、紗菜はその結論にすぐに至った。
だが、それでもさすがにそれがどういった事件なのかは分からない。かといって、日野刑事の言うように当の本人である阿頼耶に訊くのは憚れた。己の生き方を決定付けるほどの出来事を、『ただ知りたいから』という興味本位の理由だけで聞いて良いとは思えなかったからだ。
(……今はまだ聞けない。でもいつか……それこそ彼と並んで歩けるようになったら、その話を聞くことができるのかな?)
知りたいとは思うが、自らの口からそれを問い質す勇気のない彼女は、いずれ彼から『それ』を話してくれる日が来ることをただ祈る。
その後、サンドリヨンを経由して阿頼耶が違法賭博場で稼いだ三〇〇〇万円が拓凪の口座に振り込まれていたり、自身の親友である優李も阿頼耶に助けられていたと知ったりと、大混乱することになるのだが、それはまた別の話。




