第12話 雨脚はいまだ衰えることはなく
二人が訪れたのは、紗菜が隠れていた路地裏からほど近い場所にある一棟のマンションだった。都内でも有名な五五階建ての高級マンションで、学生の身分である二人からすれば思わず圧倒される場所だ。今はその最上階にある一室に、紗菜は阿頼耶と共にリビングにてとある女性と対峙している。
「それで全身びっちょびちょなのねぇ」
二人から大まかな事情を聞いた、白い肌にセミロングの黒髪と赤い唇が特徴的な女性は、頬杖をついた状態で阿頼耶に言った。
白峰雪乃。ここ最近になって人気が再熱した、二五歳の女優だ。
「いきなりこっちに来ても良いか聞いてくるから何かと思ったわ」
「すいません、白峰さん」
「まぁ別に構わないけどね。キミには恩があるし、それを思えばこれくらいことは恩返しにもならないわ。……でもキミ、また他人の事情に首を突っ込んでいるの?」
「性分なものでして」
「相変わらずね」
咎めるように目を細め、呆れたように溜め息を吐く彼女に対し、彼はケラケラと笑ってみせる。
それなりに深い付き合いを思わせる親しい雰囲気を出す二人を見て紗菜は困惑する。男子三日会わざれば刮目して見よとは言うが、彼が自分の前から姿を消してからの三年間、一体に何があったのだろう。二人の会話からどうやら阿頼耶がこの女性を助けたようだが、それでもどういう経験を得れば、人気女優とここまで親しくなれるというのだろうか。
シャワーを浴びた二人は服も変わっている。紗菜は白峰の服を借りているのだが、阿頼耶は自身の体格に合った服を着ていた。
(どうして彼の体にピッタリの服が一式揃っているの?)
疑問が疑問を呼ぶ状況にもう頭の処理が追い付かなくなってきた紗菜は白峰が出してくれたホットミルクに口を付ける。すると黒髪の少年は白峰に申し出た。
「少しの間、彼女をここで面倒を見てくれませんか?」
「私のところで、この子を?」
「駄目ですかね?」
「別に駄目じゃないけど。私の所じゃないといけない理由があるの?」
その辺りを説明してくれないことには首を縦には振れない。一度は人気が落ちた彼女だが、今はその人気が回復している。今は彼女にとって大事な時期だ。このタイミングで面倒事を抱えるには、それなりに理由が必要だった。
「借金取りたちから逃げるために自宅に帰ることはできないから仮の宿を用意する必要があるのは分かるけど、キミの家で保護すれば良いだけの話じゃないの? 実際に彼女のご両親はキミの家で保護しているんでしょ?」
「一ヶ所にまとまっていると一網打尽にされる危険性があります。分散させることでリスクを回避したいんですよ」
借金取りたちに姫川家を匿っている場所がバレた時、一ヶ所に集まっていては姫川家全員を連れ攫われるリスクがある。それを回避するには、やはりできる限りバラバラでいてもらった方が安全なのだ。
「あの、阿頼耶君」
と、ここでずっと黙っていた紗菜が口を開いた。
「何だかんだで流していたけど、そもそもどうして阿頼耶君は私の家の事情を知っていたの?」
「ん? 白峰さんを助けた時に色々と情報を手に入れてな。その時に紗菜の親父さんの名前を見掛けたんだ」
数年前までは人気絶頂だった白峰雪乃だったが、少し前まではその人気は低迷気味だった。というのも、彼女の所属していた事務所が私腹を肥やすために多くの悪党と取引をして彼女を様々な仕事に駆り出したのだ。世間的にはそれが逆効果になり、結果として彼女の人気は落ちた。
阿頼耶がそのことを知ったのは本当に偶然だった。偶然彼女と出会い、事情を知り、救済に奔走した。そうして彼女を救ったのだが、その時に事務所が所有していた悪党たちの依頼リストを入手し、そこに姫川拓凪の友人が借金をしている高利貸しの名前が記載されていた。
詳しく調べているうちに連帯保証人に姫川拓凪がなっていることを阿頼耶は知って、こうして行動に移しているというわけだ。
「……」
話を聞いて、紗菜は経緯を理解した。が、それでも信じられなかった。その言葉が真実であるならば、彼は白峰雪乃を救ってから間を置かずに自分を救おうとしているに他ならないからだ。
「オーケー、分かった。問題が解決するまで衣食住は私が面倒を見て上げる」
「あ、ありがとうございます」
「恩に着ます。この借りは、いずれ何らかの形で返します」
「良いわよ、そんなの。言ったでしょ。キミから受けた恩を思えば、これくらいは恩返しにもならないって」
でも、と白峰は何かを確かめるように、あるいは試すように阿頼耶を見据える。
「キミには打開する策があるの?」
「ないとでも?」
返した言葉に、紗菜は思わず息を呑んだ。
ニヤリと浮かべた笑みは、今まで紗菜が見た穏やかなそれとは程遠かった。いっそ酷薄とも言える笑みに紗菜は身震いする。この笑みは何だ。本当に自分が知る阿頼耶の笑みなのかと。
息を呑んでいたのは白峰も同じだった。ただ彼女は彼女で彼のこんな笑顔を見たことがあるのか、圧倒されつつも納得したような笑顔を浮かべていた。
「公安のホワイトハッカーのサンドリヨンが調べたかぎり、拓凪さんの友人が借りた金融業者は法外な金利でいろんな人たちと契約を結んで利益を得ているみたいです」
何で公安のホワイトハッカーと知り合いなんだと疑問に思う紗菜だったが、話の腰を折ってしまいそうなので黙って続きを聞くことにする。
「借り入れや返済状況が分かる契約書や資料なんかがあればそこを追及することで問題は解決するでしょうが、生憎とその契約書は姫川家と金融業者の会社です。どちらも借金取りたちが抑えている状況なので奪取は不可能でしょう。そもそもサンドリヨンにそのデータを引っ張ってもらったとしても、不正に入手した情報は証拠品として認められていません」
民事訴訟法において電子メールは『文書と同等に扱うもの』となるので証拠能力が認められるが、刑事訴訟法においては原則として反証ができない伝聞証拠は相手方の同意がない限り証拠能力を認められない。
だが、これにもいくつか例外的に証拠能力が認められているものが存在する。その中の一つが『商業帳簿、航海日誌その他業務の通常の過程において作成された書面』というものだ。これは業務管理や文書管理などの規程を作成し、その規程通りに運用されていれば業務の一環で作成された文書は刑事訴訟でも証拠能力が認められるということを意味する。
つまり、契約書なども証拠能力があるということだ。だが、それもその証拠が真正であることを証明しなければならない。不正に入手した情報ではその証明に欠けてしまうので証拠能力はないのだ。
では彼はどうやって問題を解決するつもりなのだろうか。
「だから別口で攻めようと思います」
「「別口?」」
他に攻める方法があるというのか。見当もつかない二人は揃って疑問の声を漏らす。
「どうやらアイツら、貸金業登録をしていないみたいなんだよ」
通常、金融業者は内閣総理大臣もしくは知事の貸金業登録を受けていなければ貸金業を営めない。これに違反すると一〇年以下の懲役もしくは三〇〇〇万以下の罰金、または併科となる。
「それに暴力団との繋がりもあるみたいですしね。その辺りを突けば」
「あるいはどうにかなるって? そう簡単にいくかな?」
「まぁ生半可なことじゃないでしょう。が、やりようなんていくらでもありますよ」
きっと彼の頭の中には救うための道筋が出来上がっているのだろう。救われた経験を持つ白峰は納得してそれ以上拘泥しなかった。しかし、紗菜は違う。以前の彼しか知らない彼女は阿頼耶の言葉が強がりに映り、不安になって思わず叫んだ。
「駄目っ!」
今までずっと借りてきた猫のように大人しかったのに大声を出されて阿頼耶と白峰の二人は思わず目を丸くした。
「これは私の家の問題だよ!? どうして阿頼耶君がどうにかしようとしているの!? 阿頼耶君が関わる理由なんてないじゃない!!」
白峰を救った過程で姫川家の事情を知ったにせよ、阿頼耶はどこまでいっても部外者だ。家庭の事情である以上、部外者が軽々に口を挟んで良いことではない。踏み込んで良い領分を越えている。だからこれ以上関わるな。紗菜は言外にそう告げた。
けれど、しかし。
「お断りだ」
彼は踏み込むことをやめない。
「他人の家の事情に首を突っ込むのは行き過ぎた行為だっていうのは理解している。だがな、かといってお前に何ができるんだ?」
「っ!?」
突き放すような言葉に紗菜は押し黙る。
「借金取りたちの所に行って直談判でもするか? そんなことをしても、借金取りたちに捕まって借金のカタにされるのがオチだ。いいや、それだけで済めばまだ良い。だが、お前の命が無事だという保証なんてどこにもない。臓器を海外に売られる可能性だってある」
いつの時代でも、豚よりも人が良いという輩は存在する。阿頼耶は、彼女がそういった輩の餌食になってしまうことを危惧していたのだ。
彼はいつだって最悪を想定している。けれど相応の経験がなければその『最悪』を想定することもできない。紗菜が想像もできなかった臓器売買の可能性を想定できるなど、彼は一体今までどういう人生を歩んだというのか。
「で、でも! それでも私がどうにかしないと!!」
「義務感だけでどうにかなるほど、世の中は甘くない。そうやって気持ちだけで事態が好転するとでも?」
「な、なにを」
「冷静になれって言っているんだ。頭に血を登らせた状態で事に挑んでも失敗するだけ。何をするにしても勝算がなければ無駄骨だ」
「何よ、その言い方! だって、仕方ないじゃない! 家族が大変な目に遭っているんだよ!? それなのに、冷静になれって言われて冷静になんてなれないよ!!」
「だからって感情的になってもどうにもならない。お前のそれは勇敢じゃなくて蛮勇だ。そんなものでは何も救えない。何も成せない。無謀なことをしようとしていると理解したなら大人しくしていろ。お前はご両親の心配ばかりしているけど、借金取りたちにとってはお前だって立派な標的なんだから」
話は終わりだと言わんばかりに阿頼耶は席を立ち、いくつもある部屋の内の一つへと消えていく。
黒橡色の髪を赤くて細いリボンでハーフアップにした少女は彼の後ろ姿に何も言うことができず、ただ激しい雨音だけが耳に残響した。




