第10話 『?』の数は興味の証
姫川紗菜は男が嫌いだった。
背が高いのが怖くて、体が大きくて威圧的。粗暴で自分勝手で、嫌だって言っているのに嫌がらせをしてくる。何よりそれを見咎めた親友の椚優李が自分を庇って喧嘩をしてしまうから、好意的に思える要素なんてなかった。
だから、雨霧阿頼耶という自分の知らない少年の名前が優李の口から出る度に心がざわついた。
「ったく、阿頼耶のヤツ、いくら何でも貧乳はないでしょ。本当に失礼なヤツね。好きでぺったんこなわけじゃないっての」
ぶつくさと文句を言いながらもどこか楽しそうな、長い付き合いだけど初めて見た女の子の顔をしている彼女を見て、正直嫉妬した。
けれど同時に、自分と同じように男の子に対してあまり良い印象を持っていない優李がこれほど心を許している少年に興味が湧いた。
「その雨霧君って、どんな人なの?」
「え? あー、いや……何て言うか。そ、そこまで大したヤツじゃないわよ? 夜月神明流を除けば運動神経が良いってわけじゃないし、勉強も可もなく不可もなくだし、顔立ちも普通だし、良くも悪くも平凡でザ・凡人って感じのヤツだし。そりゃあ、いくらでも愚痴を聞いてくれてストレス発散に付き合ってくれるけど、だからって都合の良いヤツってわけでもないし、何気に遠慮のないヤツだし。いや、今さら他人行儀に遠慮されても気持ち悪いし、取り繕う必要がないってばかりに接してくれるのが嬉しくないわけじゃないんだけど……ってそうじゃなくて! えっと、だから私が言いたいのは、その……紗菜が気にするほどのヤツじゃないっていうか」
思ったことをズバズバ言う彼女にしては珍しく視線を泳がせてしどろもどろになれば、なおのこと気になってしまう。
「私、会ってみたい」
「え? で、でも」
「駄目なの?」
「だ、駄目じゃないけど」
「なら、良いよね?」
「うぐ……」
どうにか彼女を説得して、紗菜は件の少年と会ってみることにした。
小学校の授業が終わり、放課後になってから紗菜は優李について行き、夜月神明流の道場を訪れた。道場にいたのは中学・高校・大学、それに社会人といった年上の男性が大半だったが、紗菜や優李と同じ小学生の門下生もいた。
優李が入門した時は同年代の門下生は阿頼耶のみだったのだが、どこから聞き付けたのか優李が入門したことで彼女目当ての入門希望者が増えたのだ。
まぁ、その八~九割ほどは入門試験で落ちたのだが。
「じゃあ、私は着替えてくるから。紗菜はここで待ってて」
「うん。分かった」
とはいえそれでも同年代の男子は何人かいる。そこに紗菜のような小柄で人当たりが良く可愛らしい女の子が現れれば注目を集めてしまうわけで
「始めて見る子だね」
「キミ、名前は?」
「椚ちゃんとは友達なの?」
「ここには何しに来たの?」
当然、こうなる。
優李がいなくなった途端にぞろぞろと、まるでタイミングを見計らったかのように紗菜に同年代の男子たちが群がってきた。四方八方から興味全開の言葉が降り掛かるが、こんなことは過去に何度もあった。少し困ったような笑みを浮かべながらも紗菜は手慣れたように男子たちに話を合わせる。
だが、さすがにこうも集中的に話しかけられては疲れてしまう。どうしたものかと悩んでいると、何だか物事に興味の無さそうな少年が声を掛けてきた。
「なぁ、師範が呼んでいるぞ。そろそろ練習を始めたらどうだ?」
「え? あ、ヤバい!」
「近藤師範がこっち見てる!」
「さっさと練習は始めないとっ!」
言葉を受け、少年たちはそそくさと練習に戻っていく。練習が再開したにも拘わらずずっと紗菜と喋り続けていたので、話しかけていた四人の少年は近藤と呼ばれた厳つい顔付きをしている師範から叱責を受ける。
それを見た、物事に興味の無さそうな雰囲気を出している少年がそっと溜め息を吐いた。
「ごめんな。いきなりあんなに寄って集って話しかけられて迷惑しただろ。あいつらも悪気があったわけじゃないんだ。だから許してやってほしい」
「う、ううん。慣れているから、私は大丈夫だよ」
「そうか。なら良かった」
そっと柔らかい笑みを浮かべた彼は、控えめに言っても特徴らしい特徴はなかった。先ほどの四人の方がよっぽど特徴があって、何というか、意識しなければ記憶に残りそうにないほどに平凡だった。
(そういえば優李ちゃん、雨霧君って人はそれほど特徴がない人って言っていたような……?)
なれば彼こそがその雨霧阿頼耶なのかと思い、紗菜は彼の名前を問おうとしたが、それよりも先に状況が動いた。
「阿頼耶ァ! アンタ何してんのッ!!」
「あだっ!?」
紺色の剣道着を着た優李が木刀の柄で少年――阿頼耶の後頭部を強打したのだ。
「痛ぇな優李! いきなり何するんだ!」
「それはこっちのセリフよ! ちょっと目を離した隙に、なに私の親友にちょっかいをかけているのよ!」
「ちょっかいなんてかけてない! 困っていたみたいだったからちょっと手を貸しただけだって!」
「ああん!? そんな言い訳が通用するとでも思っているわけ!?」
腹に据えかねると言わんばかりに、どこまでも平凡な黒髪の少年に優李は食って掛かった。同じ紺色の剣道着を着た少年の胸倉を掴んで、逆手に持った木刀の柄を突き付ける。まるで容疑者を追及する警察のようだ。が、このまま状況の推移を見ているわけにもいかない。誤解はすぐに解かなければ。
「ま、待って優李ちゃん! その人の言っていることは本当だよ!」
慌てて止めに入れば、優李はようやく落ち着きを取り戻した。
「あん? そうなの? 何よ、阿頼耶。そうならそうと言いなさいよ」
「いや言ったんだけど!?」
心外だと言わんばかりに阿頼耶は反論する。
紗菜は混乱した。先ほど自分に声を掛けた時はまるで兄のように余裕を感じさせた態度だったのに、優李を相手だとまるで年来の友人のように親しげに会話をしているではないか。
あまりにも印象が違い過ぎて、一体どちらが本当の彼なのか。紗菜は困惑した。
「それで? この子は誰なんだ、優李?」
「私の親友よ」
「そんなことはさっきの会話で分かっている。そうじゃなくて、名前は何て言うんだって聞いているんだよ」
ったく、と呆れるように息を吐いた彼は紗菜に視線を向けた。
「僕は雨霧阿頼耶。キミの名前は?」
「あ、えっと、姫川紗菜だよ」
「姫川さんだね、よろしく。優李が友達を連れて来るなんて珍しいな」
「紗菜が練習風景を見てみたいって言うからね」
さすがに当人を前にして本当のことを言うわけにもいかず、優李はそう言って誤魔化す。と、さすがにいつまでも喋っているわけにもいかないので二人はそのまま練習に向かい、紗菜は邪魔にならないように道場の隅に寄って見学することになった。
「……」
改めて夜の闇のような漆黒の髪と目を持つ彼を見てみると、なるほど確かに、優李の言葉の通りに普通の少年だ。
ただ、他の男子とは受ける印象はもっと違った。
基本的に紗菜はその小柄な体格故に自分よりも圧のある男子に対してはまず恐怖心が先行する。幼い彼女は自身でも理解していなかったが、紗菜が男女問わず笑顔を振り撒いているのも、そういった恐怖や不安を誤魔化すためでもある。
けれど、不思議と彼のことは怖くなかったのだ。今までの男子たちのように彼女自身に必要以上の興味を抱いてガツガツと話しかけて来なかったからか、彼の人の良さそうな顔付きのせいか、それとも生来の柔らかい雰囲気がそうさせるのか。それは分からないが、少なくとも紗菜は始めて同年代の男子と素で会話することができた。
それからというもの、紗菜は度々道場に訪れるようになった。優李の練習風景を見るという名目であったが、本当は阿頼耶という人間を見極めるためである。優李は彼のことを信頼しているようだったが、彼に騙されているのではないかと危惧したからだ。
けれどそんな疑いは出会って二日目で消え去った。
今まで彼女が出会った男たちは誰も彼もが執拗なほどに紗菜や優李へ仲良くなろうと話しかけてきたのだが、彼は必要な時には話しかけるがそうでないなら無理に会話をしようとはしなかった。むしろこちらから話しかけなければずっと黙ってしまうほどだ。話しかければ会話の合間に程良く相槌を打つので聞き上手ではあるのだろうが、きっと自分から話すのは苦手なタイプなのだろう。
始めこそ疑心から彼に近付いたが、話をしているうちに打ち解けてしまい、いつの間にか彼との会話を楽しむようになってしまった。だがそれも仕方ないことだろう。何せ阿頼耶自身に邪な気持ちなぞ何一つなく、先入観からの疑心なんて本人のことを知ればすぐに払拭されるのだから。
彼の化けの皮を剥がそうとしたコミュニケーションも、今ではその意味合いはまるで変わった。
どんな人なんだろう? 趣味は何だろう? 好きな食べ物は何だろう? どこの小学校に通っているんだろう?
彼のことが知りたくて、知れば知るほどに彼をもっと知りたくなっていった。好意を抱いていたわけではない。ただ彼のような男は紗菜の知る限り初めてだったから、手放したくなかった。
だから優李から『阿頼耶が夜月神明流を辞めた』と聞いた時は頭が真っ白になった。
疑心から始めった関係だったけれども、『もうあんな好きな小説を語り合うようなことはできないと思うと寂しい』と感じるということは、やはり紗菜は仲良しな友達と認識していたのだろう。
大切な友人が自分のもとから去ってしまった。どうして夜月神明流を辞めたのか、どうして自分たちに一言も相談してくれなかったのか。優李に聞いても仕方がないのに、何度も彼女に問い掛けもした。
結局はそのまま理由も分からず……三年が経った頃だ。
中学二年生の夏、姫川紗菜の日常は唐突に終わりを告げることになった。




