第162話 カーディナル
所変わって。
ヤン獣王国とジャウハラ連邦王国の間にある、突き抜ける青空にうだるような暑さで満たされた広大な砂漠地帯を、日焼け対策で全身を布で覆い隠した一人の少女が歩いていた。
「あっちゃ~。ゲノム・サイエンス、潰れちゃったかぁ」
一つ前の街で購入した新聞を読んでいる彼女は少々困ったように頭を掻く。
新聞の一面には『錬金術師業界トップクラスのギルド、ゲノム・サイエンスが解体!? その背景にはあの事件が関わっていた!』と大々的に掲載されており、詳しく読んでみればゲノム・サイエンスがヤマト、ヤン獣王国、ジャウハラ連邦王国で起きていた伝説級魔道具所持者殺害事件の黒幕であったといった内容が書かれている。
「三大国の裏切り者の小野寺善之助、御子柴十蔵、馬劉帆、マリアム・モフセンの名前がない。ってことは、三大国にバレて内々に処理されたかなー」
危険地帯を歩いているというのに、周囲を警戒することもなく独り言を呟く余裕すらある。呑気なものだった。
アストラルには多くの未開の地が存在する。
たとえばSランク冒険者『剣聖』夜月千鶴が麓に居を構えるヤマトの『ヨウエン霊山』、オクタンティス王国とフェアファクス皇国の間に存在する『魔窟の森』などがそうだ。
未開拓の理由は様々だが、こういった未開の地には高ランクの魔物がいたり、人を惑わせる地理的な性質を持っていたりで開拓するどころではないのが大きい。例外なのは、ティターニア女王の国土防衛結界【妖精郷】によって守られている妖精王国アルフヘイムがある『シルワ大森林』くらいなものか。
少女が歩いているこの『ラムル大砂漠』も、そういった未開地の一つであった。
先人たちのおかげで各所に存在する小さな街を経由することで通過は可能になっているが、特定のルートを外れてしまうと危険度は一気に跳ね上がる。サンドワームや炎獅子などの魔物に襲われることも少なくない。
だから当然、こうなることもあり得る。
ドッッ!!!! と安全ルート(とは言っても絶対安全というわけではないが)から外れた場所を移動していた少女の前方で大量の砂が間欠泉のように舞い上がる。砂の大地の下から現れたのは巨大なサソリだ。
「アンタレスかぁ。炎獅子と同じで、準Aランク指定の魔物だっけ」
自らの頭の中にある情報を確認するように言った少女が読んでいた新聞を折り畳んで懐に収め、代わりに長い槍をどこからともなく取り出せば槍全体が勢い良く発火する。同時にアンタレスがその大きなハサミで少女を攻撃した。
達人には届かずとも熟練者として重宝されるBランク冒険者だって一撃でミンチになってしまう強烈な攻撃は、しかし少女には当たらない。彼女は的確にその軌道を見切り、天高く跳躍することでハサミを躱していた。
バサッ、と纏っていた布のフード部分がはだける。
美少年と見紛うような顔立ちをしている少女だが、ずっと抑えていた魔力を解き放った途端に変化した。茶色の瞳は虹彩と強膜がそれぞれ赤と黒に、水を弾くような白い肌はゾンビのように不気味なほど青白く染まり、さらには目視が可能なくらい濃密な魔力が放たれている。
それはまさしく『邪神』デズモンドの力によって進化した種族『邪人』の特徴であった。
空中で滞空する少女に向かって、アンタレスは毒を蓄えた尻尾を突き出す。しかし、肩口まで伸ばした赤めの茶髪を揺らして少女が身を翻して攻撃を躱し、アンタレスの上に着地するのと同時にヒュンッと槍を振る。
一瞬だった。
まるで手品のようにアンタレスの体のあちこちに刻まれた裂傷から血が噴き出し、重たい音を立てて砂漠の大地に倒れてその活動を停止した。複雑なことは何もしていない。ただ切り付けただけ。それが目にも止まらぬ速さで行われたのだ。
少女は退屈そうに炎を消した槍を肩に担ぐと、放出していた魔力を抑える。それに伴って瞳と肌の色が生来のものへと戻った。Bランク冒険者でもパーティ単位で挑まなければ死亡確定のアンタレスを一瞬で倒したのに誇るような素振りもない。少女からすれば、倒せて当たり前程度の魔物なのか。
アンタレスから降りず腰掛けた彼女は懐から小さな水晶玉を取り出した。通信用の魔道具だ。
「もっしもーし? 教皇様ー? 聞っこえってるー?」
『えぇ。聞こえていますよ、司祭枢機卿』
水晶玉に映し出されているのは祭服を纏う妙齢の女性だった。間違いなく邪神教の教皇本人なのだが、何故か司祭枢機卿と呼ばれた少女は首を傾げた。
「今日は女性の姿なんだ?」
『明日はどうなっているかは分かりませんけどね』
傍から見れば意味の分からない奇妙な会話だったが、二人はすぐに本題に入った。
「いくつか並行して進めてたタスクの一つ、ゲノム・サイエンスの人工勇者の件がポシャっちゃった」
ごめーんちゃーい、と反省しているのかいないのか分からない、語尾に星マークでも付きそうなくらい軽い調子だった。
ただ教皇の方は彼女の態度に慣れているようで、特に気にした様子はなく話を続けた。
『そうですか。思ったより早かったですね。タスクの続行は?』
「無理無理。ゲノム・サイエンス自体が壊滅したっぽいもん。アスランが勧誘した四人の裏切り者たちも内々に処理されたみたいだから、彼らを炊き付けて別の事件を起こすってこともできなさそうだし。続行は不可能。タスクは閉じなきゃだね」
こういうことは何度もあった。
五〇〇〇年もの間、裏舞台で暗躍してきた邪神教にとっては、『負の感情』を集めるために起こした数々の事件が何かのきっかけで解決してしまうなんてよくあることだ。
だから彼女たちが重視するのは一つ。どれだけ『負の感情』を集められるかだ。
『「邪法の贄」の方はいかがですか?』
左手で通信用魔道具の水晶玉を持つ少女は右肩で槍を器用に挟んだ状態で、何の素材でできているのかも分からない赤黒くて禍々しいひし形の物体を右手で透かすように天に掲げる。邪神教では『邪法の贄』と呼称される、『負の感情』を集める代物だ。
無機質な表面からは何も読み取ることはできないはずなのだが少女にとっては違うようで、
「そっちは問題ないかなー。想定していた量の『負の感情』は集まったし」
『であれば結構。本当ならば「人工勇者計画」を広めてほしかったところですが……それを抜きにしてもアスラン《サンジェルマン》イドリスは役に立ってくれました』
「ボクとしてはもう少し頑張ってほしかったところなんだけどね~」
納得するように呟く教皇に対して司祭枢機卿は拍子抜けしているようだった。
ところで。
東方三大国で起こっていた伝説級魔道具所持者殺害事件の犯人が捕まり、阿頼耶たちの目的である『人工勇者計画』の実験体であるホムンクルスたちも救済されたが、一つだけ分かっていないことがある。
アスラン《サンジェルマン》イドリスが椎奈に埋め込んだ【勇者禁獄】を、どうやって入手したのかだ。
ゲノム・サイエンスから全ての資料を回収した阿頼耶だったが、それだけはいくら資料をひっくり返しても『身元不明の人物にスキルが封入された魔水晶を譲ってもらった』と書かれているだけで詳細は分からなかった。
「わざわざ教皇様が裏ワザを使って勇者シリーズのスキルを封入した魔水晶を、選定者だからって期待して渡したっていうのにさ」
その答えが、これだ。
スキルを封入した魔水晶を用意したのは教皇。それを、正体を隠した司祭枢機卿があーだこーだと言いくるめてアスランに渡したのである。
アスラン《サンジェルマン》イドリスは自分の力で人工勇者を造り上げたと思っていた。たしかに彼の腕が無ければ成功はしなかった。けれど、そもそもの前提として埋め込むためのスキルが無ければ造りようがない。
「《サンジェルマン》って継ぐ名を名乗ってたわりには大したことなかったな~。選定者ってことに拘ってばっかで、プライドだけは一人前の小者だった」
『だからこそ付け入る隙があって、我々は助かりましたがね』
結局のところ、アスランも彼女たち邪神教に利用されていたに過ぎなかったのだ。
『報告が以上ならば、こちらも伝えたいことがあります』
「ん? なぁに?」
『我らが主に掛けられた封印の強度が増しました』
たった二一文字の言葉。しかしその一言は、邪神教にとっては到底看過できない内容だった。
『原因は調査中ですが、主の力が弱まったのではなく封印の方の強度が強まった……いいえ、以前のものに戻っていることから考えると、主を封印している「要」の術式が修復されたのでしょう』
「術式が修復? まさか、創造神が?」
『いいえ、それはないでしょう。かの神は聖戦以降のこの五〇〇〇年間ずっと静観しています。今になって介入してくるのは違和感があります』
「じゃあ一体どうして? 聖戦時代の術式なんて、そう簡単に直せるものじゃないよね?」
『そこいらの魔術師には不可能ですね。少なくとも宮廷魔導士レベルの実力が必要になります』
「そうなると、該当しそうな魔術師・魔導師は絞られそうだけど……。ボクらですらまだ『要』の場所なんて一つも手掛かりを掴めてないってのに、それを見付けて術式を修復した人がいるってことなんだよねぇ」
『まぁ、そこも追々調査していきますよ。枢機卿たちには「それを可能にする人物がいる」ということを念頭に置いてもらいたいんです。司教枢機卿と助祭枢機卿の二人にはすでに伝えています』
つまり、それらしい人物を見掛けたら始末しろという意味だ。『邪法の贄』を手のひらで弄びながら少女は『ほいほーい。りょーかいっ』と教皇の指示に了解の意を示す。
『あと、ゲノム・サイエンスのタスクが閉じたのなら中央大陸に渡ってオクタンティス王国及び異界勇者担当のシュナイゼルと合流してもらえますか?』
「えぇ!? 何でボクが!? シュナイゼルは助祭枢機卿直属の部下じゃん!! アイツにやらせなよ!!」
ぶーぶー、と少女は文句を言う。大陸を渡ることになるので、さすがに面倒臭いようだ。
『仕方がないでしょう? 助祭枢機卿は手が離せない以上、余裕のある者に行ってもらうより他ないのですから』
「ちぇ」
文句を言ったところで教皇の命令には逆らえない。司祭枢機卿は諸々の準備を整えた後、一六代目異界勇者がいるオクタンティス王国へと向かった。




