第7話 彼が彼女を救った日
一度気絶して、目を覚ましたらそこは油と鉄錆の臭いが充満している場所だった。だだっ広い空間で、専門的で大きな機材が立ち並んでいる。人気がないからおそらくどこかの廃工場だろうということは分かった。蛍光灯に光が灯っているので、まだ電気は通っているらしい。
足を横にして揃えて地面に座らされている私は、人ひとりが余裕で隠れられるほどの太さのある鉄柱を背にして、後ろに回された両手を手錠のようなもので拘束されていた。外れないか試してみたけど、ガチャガチャ音が鳴るだけでどうにもできそうにない。
まだ頭はズキズキ痛むし、拘束はされているけど、服装に乱れはない。少なくともゲスなことはされていないみたいだから、その点は安心して良いかも。これからどうなるかは、分からないけど。
「あぁ、もう起きたの? やっぱりこの睡眠薬は駄目だね。即効性はあるけど、その分、持続性が低いから一五分もすれば目を覚ましてしまう」
手錠の音で気付いたみたいで、正面でパイプ椅子に座っていた陰下先生が私に視線を向ける。
「まったく。キミのせいでいろいろと予定が狂ったよ。本当なら今までの子たちと同じように少しずつ精神的に弱らせてから優しく声を掛けて、油断したところで襲おうと思っていたのに」
「なっ!?」
私だけじゃなくて他の女の子にも似たようなことをしてきていたの!? しかも、弱って寄る辺を無くしたところに付け込んで襲って手籠めにしたですって!?
その事実に、私は頭に血が上った。
「アンタ、自分が何をしたのか分かっているの!? 弱みに付け込んで女の子を食い物にするなんて! そんなの、許されないわ!」
「ははっ。許されないから、何なんだ? キミに一体何ができるっていうんだ? このことを誰かに言っても、以降はずっとキミが憐みの目で見られることになる。これから先、ずっとだ。そんなの、キミに耐えられるかな? それでなくても僕にはキミの画像がある。キミの恥ずかしい画像がたっぷりとね」
陰下先生は中指で眼鏡のブリッジを押し上げて位置を調節してから、
「ただ、指示に従わなかったのはイライラするな。小生意気な女の分際で僕に逆らうなんてあっちゃいけないんだよ。だから、予定より早いけどここでキミの初めてをもらうことにするよ」
「っ!?」
初めてをもらう。その言葉の意味を正しく認識して反射的に体を強張らせると、陰下先生は愉快そうに嗤う。
「ハハッ……ハハハッ! そう! それだよ! その悔しそうな顔が見たかったんだ! 小生意気な女が抵抗できないまま手折られる! その瞬間に見せる絶望の表情が最高なんだ!」
「このクズ! くたばれ!」
「やれやれ、口が悪いね。まぁ、それも一度抱いてしまえば大人しくなるか。今までの子たちもそうだったからね」
そう言って、陰下先生はパイプ椅子から立ち上がって私の方に歩みを進める。
逃げようとしたけど、まだ麻酔が抜け切っていなかったみたいで、私は立った傍から足をもつれさせて頭から転んでしまう。仰向けになって、せめて少しでも距離を取ろうと這いずるように後退するけど、大きな機材が邪魔をしてすぐに行き場を失った。
逃げ場がない。窮地に陥った私を見て口元を三日月のように歪めた陰下先生は手を伸ばしてくる。
生理的な嫌悪感が全身を駆け巡る。でもだからと言って何かができるわけでもない。気丈に睨み付けたって意味はない。
ここにいるのは私と陰下先生だけなんだから、誰も助けになんて来ない。来ることなんてできない。想いは踏みにじられ、叫びは無情にも封殺される。世界はそんな冷たい現実を突き付けてくる。今までの女の子たちと同じように。
そのはずだった。
「そこを退け」
理不尽を許さない声と共に、ゴギッッッ!!!!!! という骨同士がぶつかり合うような激しい音が響く。突然現れた誰かが横から割って入って、私に手を伸ばそうとしていた陰下先生の横っ面に硬く握り締めた拳を放った音だ。
頬骨を砕くんじゃないかというほどの勢いでめり込んだ拳が全体重で振り抜かれ、陰下先生は廃工場の床をごろごろと転がって大仰な機材にぶつかって止まった。
拳を放って安堵の息を漏らしているのは、私が通っている中学の制服を身に纏っている少年だ。
「ギリギリだったけど、間に合って良かった」
雨霧阿頼耶。
ここにいるはずのない人だった。
「阿頼耶? 何で、ここに?」
私がいなくなったことに気付いたとしても、この場所までは分からなかったはずなのに。
「優李がいなくなったって分かった瞬間、俺は校内にいる可能性は捨てた」
説明しつつ、阿頼耶は手錠を外すために私の後ろに回った。理由は簡単で、殴り飛ばされた陰下先生はいまだに呻き声を上げながらもぞもぞと蠢いていたからだ。放っておけば、すぐにでも起き上がる。私たちの前に立ち塞がる。だから手錠を外していつでも逃げられるように、彼は私を自由にしようとしている。
「普段ならまだしも、今は文化祭の真っ只中。部外者が多く出入りしているから、どこに誰が紛れ込むか予想が付かない。優李と捕らえている場所にうっかり人がやって来たらたまったものじゃない。なら人の出入りが多いことを逆手に取って校外に連れ出すのが一番安全だ。カートの空いたスペースに優李を押し入れて上から布でも被せれば誰にも悟られることなく外に出られるからな」
そっか。文化祭っていうシチュエーションなら、カートを押して校内を移動していても不自然じゃないものね。
「でも、どうしてこの場所が分かったの? 校外に出たことが分かっても、詳しい手掛かりがないことには居場所を探り当てることなんてできないでしょ?」
「そこはサンドリヨンの出番さ」
ぽすっ、と膝の上に阿頼耶のスマホが落とされた。そこには案の定というかサンドリヨンさんが映っていて、何故かピースサインでドヤ顔を決めていた。
『校内の監視カメラ映像から優李ちゃんがいなくなった時間帯に学校から出た車の車種とナンバーを特定したの。そこから街中にある店頭の監視カメラや車の車載カメラをハックして追跡、この場所を探り当てたってわけ。ムフフ。どうよ、私の手際は。褒めてくれても良いのよ?』
「カートのまま外に出るわけにはいかないから車を使う。けどそこまで遠くには逃げていないだろうと思っていた。行動が突発的だったからな。それに今の世の中、ホテルや旅館は警察と情報を連携しているから、人ひとり担いでいる状態で駆け込めば一発で警察にバレる。なら近くの使われなくなった施設や人気のない場所を選んで逃げているだろうと予想していたんだ」
聞けば、サンドリヨンさんが居場所を突き止めるまで、阿頼耶は学校の駐輪場にあった自転車を拝借してあちこちを探し回っていたらしい。
「――」
「え?」
耳元で彼が囁く。私は問い返そうとしたけど、それよりも早く彼は私の正面に戻り、私を庇うような位置取りで立つ。気付けば、陰下先生が起き上がっていた。白衣のポケットにでも忍ばせていたのか、その手には鋭利なナイフが握られている。
「な、んだ、お前はぁ!! 僕の邪魔をしやがって!!」
「……」
「その制服、ウチの生徒みたいだけど、助けにでも来たつもりかな? はっ、ヒーロー気取りが良い気になるなよ。キミ一人で一体何ができるっていうんだ、えぇ? ここでのことを話すか? 無駄だ、無駄ぁ!! キミのような小僧の口を封じるなんて簡単なんだよ!!」
「……あぁ、良かった」
ナイフを片手に放った口を封じるという一言。つまりは阿頼耶の命を奪うということを意味しているのに、どういうわけか阿頼耶は場違いなほど安心した声だった。
「お前が救いようの無い真正のクズで、本当に良かった。何の憂いもなく、叩きのめせる」
晴れ晴れとしたような言葉に、ビキッと陰下先生の顔が怒りで歪んだ。
「中坊が舐めた口を叩くな。大人を敬えないクソガキが!」
「平気な顔して人を不幸にするワカメ頭が大人を語るなよ」
我欲にまみれた男に、少年は切り捨てるように言って後ろ腰に手を回す。制服の上着を翻してズボンのベルトに挟んでいた何かを取り出し、それを上から下へ勢い良く振る。カシュッと快音を鳴らして長さが伸びたそれは、警察なんかが携帯している黒塗りでシンプルなデザインの三段警棒だった。
ネット通販で買えるとはいえ、ここに来るまでの間に調達したとは思えない。ということはつまり、阿頼耶、アンタもしかして……学校に潜入していた時からずっと隠し持っていたの!?
唖然とする私を余所に阿頼耶は陰下先生から目を逸らさずに、
「来いよ、性犯罪者。優李を泣かせた罪、その身を以って償え」
「ふ、ざけるなぁぁぁぁ!!!!」
吠えて、陰下先生は阿頼耶に向かって駆け出した。
一対一とはいえ、大人と子供では体格差がある。それはつまり筋肉量の差であり、手足のリーチの差に直結する。格闘技の大半が体重別に細かくクラス分けされているのも、体格差はそのまま凶器になるから。
阿頼耶は夜月神明流の門下生だけど、二年のブランクがあるし、そもそも彼は生まれつき筋肉が付きにくい体質だから、男にしては弱くて女にしては強いくらいの力しかない。
圧倒的に阿頼耶が不利だと思う状況だけど、陰下先生は理科教員で運動を得意としてはいないインドア派だから、それでようやく互角と言える。
陰下先生の大振りで力任せな攻撃を阿頼耶はステップを踏んで躱す。けど彼の動きに繊細さがない。夜月神明流の技を使っているわけじゃない。でも、それでも分かる。技を使う使わない以前に、体の方が明らかに鈍っている。二年のブランクは思ったよりも深刻みたい。
その証拠に、徐々に阿頼耶の回避テンポが遅れていた。三段警棒で弾くこともしていたけど、ついに陰下先生の凶刃が阿頼耶の右腕を掠めた。
「ぐっ!」
「阿頼耶!」
制服も皮膚も裂いて鮮血が舞った。痛みで呻いた阿頼耶は歯を食い縛って、敢えて一歩前に出る。右肩を使って体当たりして、陰下先生をノックバック。怯んだ隙に三段警棒を下から掬い上げるように振り抜く。
「――っ!?」
顔を仰け反るけど、三段警棒の先端が掠って眼鏡が弾き飛んだ。たたらを踏む陰下先生は中腰の姿勢になって雄叫びを上げながら阿頼耶の腰回りに突撃した。勢いのまま阿頼耶は後ろに下がることになり、その先にあったベルトコンベアにぶつかる。
好機と見たのか、陰下先生は阿頼耶の足を持ち上げてベルトコンベアに乗せ、自分も飛び乗る。馬乗りの状態だ。しかも両足で手を抑え込んでいるから、アレじゃ反撃もままならないっ!
間を置かず、ナイフを逆手に持ち直した陰下先生は阿頼耶に向かって振り下ろそうとする。
「サンドリヨン!」
すかさず阿頼耶が叫ぶ。途端に、ガコンという音と共にベルトコンベアが動き出した。それによって上体を起こしていた陰下先生がバランスを崩して前のめりになって、そこを阿頼耶が頭を振って陰下先生の額をかち割る勢いで頭突きをかました。
ゴッ! と頭突きを食らって体が後ろへと流れると、勢い良く阿頼耶が足を振り上げた。後頭部に直撃し、陰下先生はベルトコンベアから落下する。阿頼耶は追撃した。ベルトコンベアから飛び降り、三段警棒を振り下ろす。
けどワンテンポ陰下先生の方が早い。背中から床に落下して悶絶していたにも拘わらず反応して転がるようにして躱し、三段警棒と床が硬質な音を出してぶつかり合う。
陰下先生を見据えて構え直す阿頼耶だったけど、様子がおかしい。顔中に脂汗を流して、左腕がだらりと脱力したように下がっている。見れば左肩に陰下先生のナイフが刺さっていた。
まさか、さっきのやり取りの間に刺さったの!?
「僕の勝ちだ、クソガキ」
眼鏡がなくても阿頼耶の状態は分かっているようで、位置関係的に私からは陰下先生の後頭部しか見えないけど、勝ち誇ったような態度でいるみたいだった。
「これが現実だ。世の中は不条理だ。努力に結果が伴うなんて稀。どれだけ頑張っても無駄。どうだ、えぇ? 大口叩いたくせに何もできない気持ちは? お前がどれだけ抗ったって結局結末は変わらないんだよ」
「努力に結果が伴わない。それはそうだろうな。何度も味わったから骨身に染みているよ。いつだって世界は冷たい現実を突き付けるだけ、神様だって傍観するだけで救いはしない。……そうさ。人を救うことができるのは人だけなんだよ」
絶体絶命のピンチだっていうのに、彼は強気な姿勢を崩さない。左腕は真面に動かせる状態でもないのに、どうしてそこまで強気でいられるの?
「だからこそ、俺は二年前に立てた『どうしようもない理不尽を前にただ泣くことしかできない誰かを救う』という誓いを果たす。大切な友達の優李を救う。そのために、敵に回った相手は容赦なく叩き潰す。だから俺は、立ち上がるんだ」
挑発するように彼は三段警棒の先を陰下先生に向ける。けどそれを虚勢を張っていると受け取った陰下先生は「はっ」と鼻で笑った。
「勇ましいな。まるで自分が主人公のようなセリフだ。けど……目の前の状況すら理解できていないじゃないか。この状況で、どうやって僕を叩き潰すっていうんだよ。できもしないことを言うな!」
舞台に立つ役者のように両手を広げてみせる陰下先生に、しかして阿頼耶は笑っていた。それは、救う側が浮かべるものとは思えないほどの獰猛な笑みで、
「できもしない、ね。果たしてそうかな?」
「なに?」
「お前を叩き潰す。でもやるのは俺じゃない。それは俺の役目じゃない。――そうだろ、優李?」
「なっ!?」
陰下先生が振り返ろうとするけど、私はすでに背後に接近していた。
そう。阿頼耶は始めから自分一人でケリをつけようとは考えていなかった。私に倒させようと、私に掛けられた手錠をピッキングで外した時に、彼は「俺が注意を引く。隙を見てお前が倒せ」と言ったのよ。
だから私は彼が戦っている間、参戦したい衝動に駆られてもずっと耐えて機会を窺っていた。今、ようやくその機会が巡ってきた。
「まっ――」
制止を求める声に耳なんて貸さない。左足を軸にして回転し、メイド服の長いスカートを翻して右足を振り抜く。
夜月神明流格闘術中伝――【夜咲き】。
ヒュッと夜の闇を裂くような鋭い上段回し蹴りが、陰下先生の顔面と意識を刈り取った。




