第4話 濡羽(ぬれば)の本心
翌日になって、私は頭痛と吐き気と倦怠感に苛まれるという最悪な目覚め方をした。
「三八度七分。完全に風邪ね」
体温計を見て、お母さんはそう言った。
まさか風邪を引くなんて。昨日はちゃんとお風呂に入って体を温めたのに。まぁ、でも文化祭の準備が終わっていて良かったわ。そうじゃなかったら今日も学校に行かないといけなかったから。
でも紗菜には連絡を入れておきましょうか。あの子、確か文芸部の方の準備がまだ終わってないから今日も作業をするために学校に行くはずだから。
「今日が日曜日で良かったわ。私とお父さん、下にいるから何かあったら呼びなさいね?」
うん、と返事を返すとお母さんは退室した。それを見遣り、額に冷却シートを貼って大人しくベッドで横になっている私はそっと息を吐く。
きちんと温まったのに風邪を引いた。これはアレかしら。昨日の私の行いに対するバチが当たったってことなのかしら?
そんなことあるはずがないのに、そんな益体もないことを考える。風邪のせいで心が弱ってネガティブになっているのかもしれない。寒気と気持ち悪さと格闘していると、連絡を受けた紗菜がやって来た。
真っ直ぐ学校に行くかと思っていたけど、その前に立ち寄ってくれたみたい。
「優李ちゃん、大丈夫?」
ひょこっと紗菜が少し開けたドアから顔だけ出してきた。小柄な彼女の容姿も相俟って、子供っぽい仕草が絶妙にマッチしているのよね。
「平気よ。今日一日休めば明日には治っているだろうから。……ていうか、そんな所で突っ立ってないで入って来なさいよ」
本当なら風邪をうつしちゃいけないから病人である私に近寄らせたくはないけど、まぁそう長居することはないだろうから大丈夫でしょ。
喉がイガイガして少し痛むからあまり負担を掛けないように言ったんだけど、掠れるような声を聞いた紗菜は心配そうな顔をしつつ楕円形のテーブルの傍に腰を下ろした。
「そっか。……ごめんね。本当はこのまま看病をしたいんだけど、私はこれから学校に行かないと」
「分かっているから気にしなくて良いわよ。それに、風邪こそ引いているけどそこまで柔じゃないわ」
「ならいいけど。……それで、どうして風邪なんて引いちゃったの? 丈夫な優李ちゃんが珍しいよね?」
「昨日、大雨が降ったでしょ?」
「まさかずぶ濡れで帰っちゃったの? もう、それで風邪を引いたら世話ないよ。コンビニでビニール傘を買えば良かったのに」
呆れたように言われ、私もようやく気付いた。
そうよ。雨が降りそうだったのは分かっていたんだから、阿頼耶がコンビニに寄った時に私もビニール傘を買えば良かったじゃない。
あぁ! 失敗したぁ! そんな簡単な判断もできなかったなんて! ……全然冷静じゃなかったってわけね、私。
「優李ちゃん?」
気落ちしたのを察した紗菜が小首を傾げたので私は気を取り直す。
「何でもないわ。……帰る途中で降ってきたのよ。家まですぐそこだったから、傘がなくても大丈夫だと思ったのよ。結果はご覧の有り様だけど」
「凄かったものね、昨日の雨は。すぐに止んだからゲリラ豪雨だったみたいだね」
っと、このまま話していたらズルズル居座っちゃうわね。
「ほら、そろそろ学校に行きなさい。準備時間が減るわよ」
「……うん。分かった。何かあったら連絡してね? すぐに来るから」
少し迷った紗菜は名残惜しそうにしながらも学校へと行った。それを見送って、私はカチコチと時計の音を聞きながら眠りについた。
◇◆◇
濡羽色の髪をした少女が次に目を覚ました時にはかなり時間が経っていた。
十月の秋空はすでに日が落ち始めており、茜色とまでは言わずともオレンジと黄色が混じったような色に染まっている。もう数十分もすれば綺麗な赤に染まるだろう。
(……けっこう、寝ていた?)
部屋に差し込む陽の光具合で大雑把な時間は分かっただろうに、部屋の壁に掛けたアナログ形式の丸い電波時計の針を見るまで現時刻が分からなかった。熱のせいで頭が上手く働いていないようだ。
カチコチと時計の秒針が進む音が部屋に響く。何だかとても無機質に聞こえて、優李は自分だけ世界から取り残されたような心細さを感じた。
耐えるように眉間に皺を寄せると、ふと額に違和感があった。もぞもぞと布団から出した手を額にやると、ガーゼに似た感触が返ってきた。そういえば、と冷却シートを貼って寝ていたことを思い出す。だがすでに効力はなくなっているようで、ぬるくなっていた。
貼っておくだけ無駄で鬱陶しいだけなので、優李はカリカリと爪で粘着部分を引っ掻くが上手く剥がれない。
「むー……」
不機嫌そうに呻き声を上げると、自分ではない誰かが代わりに冷却シートを剥がしてくれた。
「むぅ?」
誰だろう、と視線を彷徨わせると、オレンジと黄色が混じった陽の光で彩られた部屋の中に、平凡な顔付きをしたどこまでも凡庸な少年――雨霧阿頼耶がいた。彼は横になったままの優李の額に新しい冷却シートを貼る。
「おはよう、優李。調子はどうだ?」
夜の闇を思わせる黒髪を持つ少年が語り掛けるも、彼女は疑問が浮かぶだけだった。
(……何で、阿頼耶がここに? だって、阿頼耶がここに来る理由なんてないもの。……部屋まで入ってきたことはないけど、家の前までは来たことがあるから……住所は分かるだろうけど……でも、やっぱり、何で?)
だって、ありえない。
昨日あれだけ酷いことを言った。彼の優しさを踏みにじった。見限られたはずだ。見捨てられたはずだ。見放されたはずだ。救いようがないと、差し伸べられた手は引っ込められたはずだ。
だから……優李の所に来るはずがないのだ。
朧気な頭でどうにかそこまで考えて、優李は言った。
「……そっか。幻覚ね」
「寝起きの第一声で人を幻にしないでくれる?」
げんなりとしたリアクションに、優李は首を傾げる。
(あれ? やっぱり本物? でも、あれだけのことをしたのに来るわけがないし………………駄目、分からない……頭がクラクラする)
頬を紅潮させて熱い息を吐く優李はしばらくボーっと彼を見ていたが、自分の意識とは別枠で手が勝手に動き、彼の右腕を握った。掴むというよりは引っ掛けるに近い弱々しい行動に、阿頼耶は疑問を抱いた。
行動の真意を聞こうとしたが、
「ごめんなさい」
彼女の口から零れた謝罪の言葉に驚いて動きを止める。何に対しての謝罪なのかはすぐには分からなかったが、続く彼女の言葉で彼は理解する。
「酷いことを言って、ごめんなさい。……本当は、あんなことを言いたかったわけじゃ、なかったの。ただ私は……アンタを巻き込みたくなくて……」
言葉にするたびに罪悪感が胸の内に広がって、頭がチリチリする。口の中が渇いて、喉が痛む。鼻の奥がツンとして、目頭が熱くなる。
それはきっと、風邪だけのせいじゃない。
「嬉しかったの。手を差し伸べてくれて……凄く嬉しかった。……なのに私、酷いこと言った。言っちゃいけないこと……言った。最低なこと、した」
気が付けば、彼女はぽろぽろと涙を流していた。
「本当に、ごめんなさい」
忸怩たる思いで、彼女は謝った。謝って許されるなんて、そんな甘い考えは持っていない。これは罪の再認識。自らの行いを正しく理解するための、謝罪しなければならない相手を前にした懺悔のようなものだ。
目を細めた阿頼耶は彼女の傍に寄り、掴まれた手を優しく、でもしっかりと握り直して、空いた左手でそっと涙を拭った。
「優李。俺にとってお前は大切な友達だ。かけがえのない友達だ」
「ぐすっ……?」
涙を流して鼻をすすりながらも優李は視線を向け、涙で濡れた黒い瞳で少年を捉える。
「その友達が明らかに苦しんでいるのに、見過ごすなんてできない。お前が何て言おうとも、俺は首を突っ込むぞ。その意固地なプライドを粉々にしてでも関わってやる。俺が使える全ての手段を使って、お前の抱えている事情を解決してやる。良いか、絶対にだ」
黒髪の少年はどちらかと言うと「言いたくないなら言わなくても良い」と相手の意思を尊重するタイプの人間だ。こんな、容赦なく相手に踏み込むような言葉を使う人間ではない。長い付き合いである優李はそれを知っている。
知っているからこそ、彼がこんな傍若無人で傲岸不遜な言葉を使うなんて心底意外だった。
「こんな時でも他人を巻き込みたくないって思えるお前は凄いよ。尊敬する。でもな、そうやって他人を第一に考えていたらお前は一生救われない」
彼の口から放たれた言葉には、少女が想像する以上の『重み』があった。まるで実際に体験したような、妙な説得力があった。
「抱えている問題に直面した時、お前は何を思った? 他の人を巻き込まないようにしないとなんて、教科書通りの小綺麗な博愛の精神だけか? そんなわけないよな。何で自分がこんな目に合うんだ。誰でも良いから自分を助けて。そんなドロドロとしていて、自儘な気持ちだったはずだ」
彼の言う通りだった。
何でこんな目に合うんだ。何をしたって言うんだ。誰でも良いから助けて。
優李は確かにそう思った。けれどそんな醜い気持ちを肯定したくなくて、少女は口元を引き結んだ。
だが、
「良いんだよ、それで」
肯定するその言葉に、少女は目を白黒させる。
「自分を優先したって良いんだよ。真っ先に救われないといけないのはお前なのに、助けてほしいって時に余計な制限なんて掛けるな。お前はもっと、我が儘になるべきだ」
同情なんかじゃない。
可哀想と安全圏から相手を哀れむだけの他人事な言葉じゃない。
下手な慰めじゃなかった。腫れ物みたいに扱うわけじゃなかった。欠片ほども役に立たない美辞麗句を並べて勝手に満足するだけの無責任な言葉じゃなかったから、ギリギリまで追い詰められてボロボロになった少女の心に響いた。少女の凝り固まったくだらないプライドを剥ぎ取った。
「俺がどうにかする。だからお前の本音を聞かせてくれ、椚優李」
しばらく沈黙していた濡羽色の少女は、やがてぽつりぽつりと自らの心の内を吐露する。
「本当は、怖くて仕方ないの」
「あぁ」
「こんなこと、親にも、紗菜にも……言えなくて……警察も、動いてくれなくて……でも、どうすれば良いのか分からなくて……」
「あぁ」
「なんで、私がこんな目に遭わなきゃならないの? 私が我慢して……何で顔も知らない誰かの良いようにされなきゃならないの? ふざけないでよ。無抵抗の女を良いようにする男なんて最低のクズよ。大っ嫌い。死んじゃえばいいのに」
「……」
「もう、いや……こんなの、やだぁ」
話している間も離さないでいてくれた少年の手をギュッと握る。
「……私を助けて、阿頼耶」
ようやく聞きたかった一言が聞けて、阿頼耶は緊張の糸を緩めるように息を吐いた。
一方的な救済は救済ではなく、それは善意の押し付けに他ならない。救済という行為は、助けたいと思う側と助けてほしいと思う側の双方がいることで成り立つ。
優李が本心から救済を必要としていないのであれば、さすがに阿頼耶も身を引いた。しかし彼女は明らかに助けを必要としていた。だから彼は彼女を傷付けることになっても、どれだけ拒絶されても、その一言を引き出した。
そして「助けて」の一言を引き出した以上は、もう遠慮も自重も容赦もしない。少年は自らの持つありとあらゆる手段を使って、たとえどれだけ時間がかかろうとも、理不尽に泣く誰かが明日を笑って過ごせるようにする。その覚悟で相手を救うと決めている。
そうやって彼はこの二年を生きてきた。
事情を知っていようが知っていまいが、そんなものは関係ない。理不尽に泣く誰かがいるなら、手を差し伸べるし、渦中に跳び込むことだって厭わない。理不尽に晒されているのが大切な友人なら尚更だ。
だから。
少年は今も不安で揺れる黒い瞳を向ける少女の頭をそっと優しく撫で、穏やかながらも芯の通った声で言う。
「承った」
生真面目で意地っ張りで強がりで頑固な彼女が、決して不安にならないように。




