第2話 逃げることを許さぬ遣らずの雨
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彼が道場を辞めた理由も分からず、復帰させることもできないまま、私――椚優李は中学一年生になった。
どうして彼は道場を辞めたのか。それを知っているかもしれないと師範に聞いても、「詳しくは知らない」と言われてしまって、知る糸口すら掴めなかった。
何かがあった。それは確かだ。
日がな一日、ただひたすら剣を振っていることが好きなアイツが何の理由もなくいきなり道場を辞めるなんて思えない。
違う学校なのが歯痒い。
せめて同じ学校だったら待ち伏せなり教室に特攻するなりして事情を聞き出せたのに。
こんなことならアイツにどこの中学に進学するのか聞いておけば良かったわ。
……いや、アイツが辞めたのは小学五年生の時だから、進学先を決めていたとは思えないわね。
というかアイツ。見付けても決まって何か急いでいるように走っているのよね。そのせいで中々捕まえられないし。
私や紗菜から逃げている? それもあるでしょうけど、でも、何て言うか、それだけじゃない気がする。
もっと切迫した何かがあるような?
「……」
駄目ね。こればかりはアイツ本人に聞かないと、考えても分からないわ。
それに、私には目下のところ優先して考えないといけない問題がある。
深呼吸をして、私はスマートフォンを操作する振りをして、バックライトを付けないままで真っ暗な画面に背後が映るようにスッと横にズラす。
……いる。
誰かは分からないけど、私をストーキングしている人がいる。
私が早足で歩けば後ろの誰かも同じ早足になって、逆に遅く歩けばそいつも遅く歩く。
明らかにこちらを意識した挙動に気味が悪くなって、ゾッとした私は駆け出した。
あてなんかない。とにかく私をストーキングしている不審者から離れたい一心で走り回る。しばらくそうして、ようやく私を追い掛ける人の気配がなくなったところで立ち止まった。安全になった。そう思った直後に、スマートフォンがメッセージを受信したことを知らせる電子音を鳴らした。
……まさか。
『逃げるなんて酷いじゃないか。電車じゃ、あれほど楽しんだ仲だっていうのにさ。まぁいいや。また明日ね。分かっていると思うけど、逃げちゃ駄目だよ? 逃げたら、この写真をネットにばら撒くからね』
SNSアプリを立ち上げると、そんな内容のメッセージが送られていた。一緒に画像ファイルも添付されていて、それは……私のスカートの中を盗撮したものだった。
「っ!?」
しかもご丁寧なことに、ローアングルだったにも拘わらず私の顔までしっかり写っていた。
「何なのよ、もう」
これが、私が抱えている問題。
私は――痴漢とストーカー被害に合っていた。
それが始まったのは、中学に上がってから大体五ヶ月が経った頃だから九月くらい。
誰かが私のことを尾行しているような、そんな気がしたのがきっかけ。始めは気のせいかと思ったけど、確実に誰かが私のことをストーキングしていた。
しかもそれだけじゃなくて、他にも無言電話や、今のようにSNSに私の行動を監視しているような内容のメッセージやポルノ写真が送られたり、私の私物がなくなっていたり、通学の電車で痴漢にあったりしていた。
誰がこんなことをしているのかは分からなかった。だって、心当たりなんて逆にあり過ぎるくらいだったから。
私の見た目は良いみたいだから言い寄る男は多いし、その全ての告白を断っていたから、逆恨みをされている可能性も否定できなかった。
「……そういえば、ここどこよ」
見渡してみると、かなり遠くまで走っていたみたいで、私は繁華街にまで来ていた。
まだ夕方だからかしら。人は疎らだった。もしかしたらさっきの不審者も、人がいたから退いた?
何にしても、このまま馬鹿正直にあの道を通るなんてできないわね。電車も以下略。何だか雨も降り出しそうだし、お父さんかお母さんに車で迎えに来てもらった方が良いかもしれないわね。
そう思ってスマートフォンの画面に視線を落としてフラフラと歩いていた時だった。
「優李!」
「っ!?」
突然、私のことを呼ぶ声がしたと思ったら、真横から腰にとんでもない衝撃が突き抜けた。誰かが全力で体当たりしてきた。そんな認識さえ置き去りにされ、私の体はくの字に折れ曲がり、地面に横倒しになる。
「な、何っ!?」
急なことに驚いて上体を起こした私だったけど、走り抜ける車の音を聞き、赤になっている歩道側の信号を見て、危うく自分が信号を無視して車道へ飛び出そうとしていたことに気付いた。
え? それじゃあ、今のは誰かが私を助けてくれたってこと!?
「だ、大丈夫ですか!?」
車に轢かれそうになったという事実に顔を青くする暇もなかった。
体当たりしてそのまま私と一緒に倒れたことで、私の腰辺りに今も寄り掛かる人に慌てて声を掛ける。でもどうやらその人は大きな怪我はしていないみたいで「だ、大丈夫」と声を漏らしながら顔を上げた。
「そっちこそ怪我はないか、優李?」
そして、その人の顔を見た瞬間、私はあまりに意外な人物に目を見開いて驚いた。
「あ、阿頼耶!?」
二年前、私に相談もせず勝手に道場を辞めた馬鹿野郎がそこにいた。
人があまりいなかったことも幸いして大きな騒ぎにはならなかったものの、そのままいれば注目の的になるのは必至なので、私と阿頼耶はその場を離れることにした。
途中で阿頼耶に用があるからとコンビニにも寄ったけど、基本的に道中は彼が前を歩いて、私がその少し後ろで追うようについて行く形で移動した。
さっきのこともあったから、申し訳なくてバツが悪かった。
こうして彼と久しぶりに会えたのは嬉しいけど、正直私は浮かない気持ちだった。
会いたかったけど、問題を抱えているこのタイミングで会いたくなかった。
せっかく再会できたのに、素直に喜べない。
しかも迷惑まで掛けてしまって、余計に気分が下がる。
「じゃあ優李、そこに座ってくれ」
そう言われて、内向きになった私の意識が浮上する。場所は私の家からほど近い所にある公園だった。
いつの間にか、こんな所にまで来ていたのね。
彼に視線を向けると、阿頼耶は公園内にある小さな四阿に設置されている木製の長椅子を指し示していた。
「さっきので怪我しただろ。手当てする。緊急だったとはいえ、悪かったな」
「え? あ、ホントだ」
言われて初めて、私は自分の右膝から血が滲んでいることに気付いた。
あぁ。コンビニに寄ったのは絆創膏とかを買っていたからなのね。
怪我なんて今更気にしないけど、でもわざわざ買ってくれたんだから、無下にもできないか。
それに、走ってちょっと疲れちゃったから休みたかったし。
私は大人しく彼の要望に従って長椅子に腰掛け、それを確認した彼は私の前に跪くようにしてしゃがむ。仕方ないことだけど、立ち位置的にスカートの中が見えてしまいかねない。
私は思わずさっき送られてきたポルノ写真を思い出し、バッと見えないようにスカートを抑えた。
「優李?」
「あ、えっと……」
いけない。思わず大袈裟な動きになっちゃった。気を取り直して彼に言う。
「下着、見ないでよ?」
「興味ないから安心し――いてっ! ちょっ! 蹴るなって!」
「見られたいわけじゃないけど腹立つわね!」
「理不尽だ!」
私は怒ったような態度を取りながらも、実は内心ではちょっと安堵していた。
久々に会った彼は相変わらずで、顔を見ただけで心が安らぐのを実感したから。本当に懐かしくて、楽しくて、一瞬だけど痴漢のこともストーカーのことも忘れるくらいに心が休まった。
だから気が緩んだのでしょうね。
「ねぇ、阿頼耶」
つい彼に、自分が痴漢とストーカー被害に合っていることを打ち明けそうになった。
「ん?」
「あ……ううん。何でもない」
顔を上げて話を聞こうとする彼に、私は笑顔を取り繕って首を横に振った。それに訝しんだ阿頼耶だったけど、すぐ手当ての作業に戻った。
汚れを拭って消毒し、絆創膏を貼った阿頼耶はそのまま私の隣に腰を下ろした。
「それで、何があった?」
「……何がって、何が?」
「さっき、何かを言い掛けただろ?」
「何でもないわ。気にしないで」
「気にしないなんて無理だろ。ただでさえ繁華街に一人でうろついていたっていうのに。何かあったと思うだろ」
「あら。もしかしたら遊んだ後で、友達と別れた直後かもしれないじゃない」
「車道に飛び出そうしていたのにか?」
「それは本当にごめんなさい。でも、私だってうっかりすることくらいあるわよ」
彼に知られたくない私は、こちらに踏み込んでこようとする彼に悟られないようにはぐらかしたけど、彼は息を吐いて言葉を続けた。
「優李、お前は喧嘩っ早いし頑固で気が強い」
「……ねぇ、何でいきなり貶してきたわけ?」
「でもお前は責任感が強く、生真面目で、筋を通すしっかり者だ。そんなお前が、歩きスマホをしていたからって車道に飛び出す? 普段のお前ならそんなことにはまずならない。そんなレベルで注意散漫になるなんて、精神的にまいっている証拠だ」
「……」
相変わらず、察しが良い。いいや、良過ぎる。
昔はそんな彼をありがたく思っていたけど、今は困るわ。
二年も会ってなかったのに、どうしてそんな的確に言い当ててくるのよ。
「お前が話してくれないと、俺は何もできない。何もしてやれない。だから困っているなら話してくれ。一体、何があったんだ?」
くらり、と思わず心が流されそうになる。甘美な言葉が、私の心を誘惑してくる。
それを振り切るように、私は奥歯を噛み締めて言った。
「……何を言っているのかしら。別に困ってなんかいないわよ。昔は察しが良かったけど、この二年で鈍ったんじゃない?」
余裕があるように見せるために、私は肩を竦めてみせる。
大丈夫。まだ彼は気付いていないはず。このまま何てことないって雰囲気を出して去ってしまえば、彼はこれ以上踏み込むことはできない。
だって、何の確証もなく言っているんだから。
こっちが打ち明けなければ、追及はできない。
「それとも、夕方近くの繁華街に一人でいたから心配しちゃった?」
「したよ。心配した。何かあったんじゃないかって、気が気じゃない」
茶化すように言ったのにまさか真面目な顔をして素直に心配したなんて言われるとは思わなくて、不謹慎だけど心配してくれたことが嬉しくて、胸がキュンとした。
黙る私の反応を見て何を思ったのか、阿頼耶は困ったように後頭部を掻く。
「……やっぱり俺じゃ頼りないか?」
「頼りないって……誰もそんな話はしてないでしょ? アンタが思っているようなことにはなってないって言っているだけよ。大袈裟ね」
頼りない? そんなわけないじゃない。
どれだけアンタのことを頼りにしてきたと思っているの。アンタ以上に頼りになる男の子なんて知らないわよ。頼りないヤツに何度も愚痴を零すなんてするもんですか。
言葉にしたかった。違う、と声を張り上げて否定したかった。でも巻き込みたくないからそれはできなくて、私は仮面の奥に本音をひた隠して誤魔化す。
上手く笑えているかしら? 引きつっていないかしら? 自然に言えているかしら? 声は震えていないかしら?
そんな疑問が頭の中を駆け巡るけど……でも、いくら疑問が浮かぼうとも、彼の言葉に罪悪感が湧こうとも、ここは演じ切るしかない。
「本当に?」
「本当よ」
ごめんなさい、阿頼耶。
嘘を吐いて、ごめんなさい。
でも、甘えるわけにはいかないの。
これは私の問題だから、私が解決しないといけないの。
私にとってアンタは居心地の良い居場所なの。そんな場所に面倒事を持ち込んで穢したくない。
何より、アンタは私の兄弟子だから。頼りになるアンタだけど、情けない所なんて見せられない。
「迷惑をかけて悪かったわね。でももう大丈夫よ。アンタが手当てしてくれたしね」
彼の顔を見ていると罪悪感で押し潰されそうだった私は顔を背けてひらひらと手を振りつつ、早口になってしまわないように意識して、指摘している内容は右膝の擦り傷であることを強調して言った。
「そんな嘘が通用すると、本気で思っているのか?」
予想外のセリフに驚いて彼の方を見る。
彼は全てを見透かすような目で私を見ていて、まるで私が逃げ出さないようにするかのように大雨が降った。




