第130話 忘れられるものか
オクタンティス王国の王城の一角には、王族の居住区と同レベルの警戒体制が敷かれている場所がある。地球から召喚された、一六代目異界勇者たちが住まう場所だ。その区画で四〇人の異界勇者たちは個人の部屋を与えられており、彼女もまた自身に与えられた部屋にいた。
少女の名前は椚優李。
勇者の中でも一際強力な力を有する『円卓の勇者』の一人であり、【勇者不懼】のスキルを保有する『湖の勇者』だ。
「……」
今はすでに日も暮れた時間帯。
一二畳ほどある広々とした部屋には天蓋付きのベッドや高級そうな机の他、部屋を彩る調度品などが置かれている。
夕食と入浴を済ませた彼女は椅子に座って、目の前の大きな鏡に自身の姿を映しながら濡れた長い黒髪をタオルで丁寧に拭いていた。
いつもポニーテールにしている黒髪を今は下ろしており、グッと大人っぽく見える。一通り髪の水気を拭き取った彼女はポツリと呟く。
「……二ヶ月、か」
阿頼耶が死んでから、それだけの日数が経っていた。クラスメイトたちはいまだ黒龍によるトラウマが抜けておらず、自室に引きこもっている。活動しているのは一〇名ほど。全体の四分の一だ。
そのわずかな面子も、ほとんどは王城で騎士や魔術師の指導のもとで訓練を続行している。
北条康太、岡崎修司、佐々崎鏡花に至っては、引きこもっているクラスメイトたちが立ち直れるように心のケアも行っていた。
だが優李は違う。
阿頼耶が死んでから今日までずっと、『魔窟の鍾乳洞』でダンジョン探索を進めている。目的はもちろん、阿頼耶を殺した犯人を見付けるためだ。
途中までは紗菜もダンジョン探索をしていたのだが、今後のことも考えて戦闘よりも回復に能力を伸ばした方が良いと思ったため、今では【勇者聖杯】を使って広場で治療を行っている。
なので今は優李のみでダンジョン探索をしているのだが、今日まで調査を続けても芳しい結果は得られていない。唯一分かったことと言えば、彼女たちが黒龍と遭遇した第一六階層で魔水晶の欠片を発見したことくらいだ。
(龍族は魔物じゃないから、ダンジョンに現れるなんて本来ならあり得ないこと。魔水晶の欠片があったことを加味すると、あの黒龍は魔水晶に捕らわれていて、誰かがそれを解放したってことになる)
問題は誰がそれをやったかだ。
(魔水晶は魔力を流し込んで割るだけで、封入した術式や生物を従えた状態でインスタントに使うことができる代物。でも精製が難しいからあまり流通していないし高価だから、手に入れられる人物は限られている。できるとしたら、貴族、大商人、実入りの良い熟練の冒険者や魔術師辺りかしら。……でも、あの時いたのは、私たち一六代目異界勇者と護衛の騎士たちだけ。つまりこの中に阿頼耶を殺した犯人がいるってことになるわけだけど)
遠征の時にいたメンバーの中に魔水晶を使った人物がいる。それは確かだ。だが実際にそれをどうやって入手したのか。優李にはそれが分からなかった。
しばらく思案を続けていた優李だったが、『はぁ』と疲れたように息を吐き、視線を目の前の鏡へと投げる。
「…………酷い顔」
鏡に映る自分の顔を見て、優李は自嘲気味に言う。
全体的に疲れていて、目がどんよりとしている。精神的に弱っていることが伺い知れ、本人も心が荒んでいる自覚があった。まるでブラック企業勤務の会社員だ。
外では以前のように取り繕っているが、被った仮面を取ったらこれだ。自室にいるから良いものの、こんな顔、クラスメイトたちには見せられない。
「……岡崎君と紗菜はあり得ないから除外するとして、一番怪しいのはこの国の貴族たち。次は立川隼人、工藤学、谷良哉、藤堂純の四人。最後が残りのクラスメイトたち」
頭の中で浮かべた怪しい者たちに順位を付けて口にする。
まさかクラスメイトたちが阿頼耶を殺したなんて思いたくはないが、容疑者としては充分に怪しい。
四一人目として召喚された阿頼耶を疎ましく思っていた貴族たち。阿頼耶を虐め続けてきた立川たち。それを見て見ぬ振りをしてきたクラスメイトたち。誰も彼もが怪しかった。以前はこれほど疑い深くはなかったのに、阿頼耶が死んだことで随分と猜疑心が強くなったようだ。
「……」
立ち上がった優李はベッドに腰掛け、そのまま身を投げ出すように寝ころんだ。呆然とベッドの天蓋を見詰める彼女の胸元にはキラリと青く光る物がある。ダンジョン遠征の前夜に阿頼耶が彼女へプレゼントした、長方形の銀細工の板にサファイアが埋め込まれたネックレス型のタリスマンだ。
体勢を変えて横向きになった優李の視界に、ネックレスが映り込む。皮肉なことに、彼からのプレゼントが形見の品となってしまった。
「……阿頼耶」
もういない彼のことを想って名前を口にする。彼女はネックレスを両手で包み込んで額に近付け、ギュッと目蓋を閉じて身を守るように体を丸める。
胸が締め付けられるように痛む。辛くて、苦しくて、悲しくて、やるせない気持ちになる。口が震えて、吐き出す声が涙に濡れる。
「……あら、や」
体の傷は薬で癒せる。だがズタズタに引き裂かれた心を癒す術はない。
時間が解決してくれると、きっとまた良い人が見付かると、だからいつまでも落ち込むなと、誰もが口を揃えて言う。活動している他のクラスメイトたちも、この国の王侯貴族の令息たちも、同じように。
本当に解決する保証なんてどこにもないのに、何て無責任な言葉だろうか。失った者たちの気持ちなんて全く考慮していない。
この国の王侯貴族からしたら勇者である優李たちを取り込みたいという打算からの言葉なのだろうが、あまりにも無神経過ぎる。そんな対応では彼女たちの心は離れるだけだ。仮に心配して言っているのだとしても、彼女はやはり誰一人として理解していないと判断せざるを得ない。
だって、
「忘れられるわけ、ないじゃない」
忘れられるものか。癒えるものか。
この傷がそう簡単に消えるものか。
本当に阿頼耶のことが好きなのだ。
この傷は一生癒えない。絶対に。
それなのに周りの男たちは無神経に優李と紗菜に言い寄ってくる。
阿頼耶がいなくなって精神的に弱った途端にアプローチが増えたのだ。それはすなわち、自分にもチャンスがあって、付け入る隙があると、そう考えているということだ。
谷良哉が分かりやすい。彼もまた、優李と紗菜の弱みに付け込もうと良い格好をしようとして『女だけじゃ危ないだろ』と白々しいことを言いながら関わろうとしている。
さすがにもううんざりした。嫌気が差した優李は紗菜と相談して、みんなとは一線を引くことを選んだ。二人はもう以前のようには振る舞えない。
大好きな人を殺されたのに、ヘラヘラ笑って過ごすことなんてできない。
反して、彼女の冷静な部分では異界勇者全体の現状を危惧していた。
黒龍が現れ、クラスメイトが一人死んだことで異界勇者たちは精神的にショックを受けている。
この状況で自分たちがクラスメイトたちに対して敵対的な態度を取ったらどうなるか。ただでさえ現状はガタガタで大変なのに、これ以上関係が悪化してしまえば、本当に取り返しのつかないくらいに仲違いしてしまう。
頭が良いだけに、優李と紗菜はそれがすぐに分かった。
だからみんなの前では仮面を被ることにした。
仄暗い感情を抑え込んで過ごすことにした。
地球に帰るべく魔王を倒すためにも、異界勇者全員の力が必要になるだろうから。
いっそのこと全てを放り出すことができればどれだけ楽か。だが責任感の強い彼女に、そんな無責任な真似はできない。
なまじ、集団を率いるための広い視野と強い理性と冷静な判断力を持っているせいで、抱える激情を解き放つこともできず、板挟みになって彼女自身を苦しめていた。
「阿頼耶……私、どうしたら良いの?」
返ってくるわけがない問い掛けが、無情にも虚空に溶けて消える。
すると、コンコンコンとドアを三回ノックする音がした。
「椚さん、いる? 佐々崎だけど」
特に驚いた様子もなく優李はベッドから起き上がり、乱れた髪を整え、一度深呼吸をし、対外的に取り繕った仮面を被る。
扉を開けると、そこには長いストレートの黒髪に泰然自若とした笑み、紗菜ほどではないが優李よりはある胸、年齢不相応な大人の雰囲気が特徴的な少女――佐々崎鏡花がいた。
レイピアを主な武器としている彼女は【勇者氷結】というユニークスキルを所持しており、阿頼耶が死んだあのダンジョン遠征の際にはパーティを組んでいた人物である。
寝間着姿である優李とは違って、彼女は平服のままだ。どうやらまだ入浴も済ませていないらしい。
「こんな時間にごめんなさい。ちょっと話したいことがあるの。良いかしら?」
一瞬だけ逡巡する優李。彼女はマナー知らずな人物ではないことは理解している。それなのにこんな日の暮れた時間に来訪するということは、それほど早く耳に入れておきたい話があるということだ。
「入って」
それを理解した優李は彼女を部屋へ招き入れ、話を聞くことにした。
来客用の椅子を引っ張り出し、二人は向かい合うように座る。
「突然ごめんなさいね」
「別に構わないわ。どうせもう寝るだけだし」
「そう。……ダンジョン探索の方はどうなの?」
「駄目ね。紗菜にも言ったけど、探索を始めた時に魔水晶の欠片を見付けて以降、今日まで何も成果は得られていないわ」
アレからもう二ヶ月が経つ。優李としては諦めたくはないが、二ヶ月も調査して何も出てこなかったのだ。これ以上調査しても無駄だろう。別口で調べるしかない。
「それは、残念ね」
鏡花は気落ちした表情を浮かべる。彼女は阿頼耶が死んだことに負い目を感じているので、調査が芳しくなくて残念に思っているようだ。
「そっちはどうなの? クラスメイトたちのこと、アンタに任せっきりになっちゃっているけど」
「……まぁ、相変わらずって感じかしら。黒龍の一件から立ち直っている他のメンバーは王城内で訓練を受けているけど、引きこもっている子たちはまだまだ出てきそうにないわね。北条君が率先して対応はしてくれているけど、どういう対応の仕方をしているのかまでは知らないわ」
さすがに今も引きこもっているクラスメイトたちを責めることはできないなと優李は考える。
災厄の権化とも謂われる龍族が襲い掛かってきたのだ。トラウマを克服できずに引きこもるのも仕方ない。部屋から出ているメンバーだって、魔物と直接戦うのを恐れているから王城内で訓練を受けているのだから。
「立川君たちも相変わらず?」
「えぇ。困ったことに、以前にも増して王都の人たちや王城の使用人たちに迷惑を掛けているわ。姫川さんがボランティアで治療活動して好感度を上げてくれているけど、総評してもマイナス寄りって感じかしら」
前々から立川たちは王都の人たちや王城の使用人たちに横柄な態度を取っていたのだが、阿頼耶が死んでからはそれに拍車がかかっているようだった。長年虐めていた対象がいなくなったから、その矛先が別に向いたようだ。
「クラスメイトたちに向けられるのも困りものだけど、だからって他人様に迷惑を掛けないでほしいわ」
「全くね」
はぁ、と二人は同時に溜め息を吐いた。
「悪いわね、クラスのこと押し付けて」
以前は自分がしていたこと。けれど阿頼耶が死んでからは鏡花に任せ、優李は阿頼耶を殺した犯人を捜している。そのことに優李は鏡花に対して少なからず罪悪感を抱いていた。
しかし鏡花は首を横に振った。
「いいえ。気にしないで。私も納得してやっていることだもの。だからアナタはやりたいことをやって」
「……ありがとう」
現状確認に近い雑談を経て、鏡花は本題に入った。
「実は国側から要請があったの」
「要請? 私に?」
一体何だろうと首を傾げる優李に鏡花は告げる。
「ダンジョン探索を中止し、王城で他の勇者と共に訓練に従事せよ」
「……は?」
「一人だけ実力が突出すると連携が難しくなる。だからみんなと歩調を合わせてほしいみたい」
あながち間違いでもない。一人だけ突出した戦力がいたら足並みを揃えることは難しく、連携を取るのも困難になる。その突出した一人にみんなが合わせることができずに足を引っ張ることにも、また逆に連携を取っていたみんなの邪魔を突出した一人がしてしまうことになりかねない。
なのである程度実力は拮抗していた方が運用しやすいのだ。
「これ以上ダンジョンに潜ってもレベルは上がらないだろう。ならダンジョンに潜っても意味がない。王城で他の勇者たちと連携の練習をした方が有意義だ。これが向こうの言い分みたい」
さらに鏡花はオクタンティス王国側の主張を伝えるが、優李は渋面を浮かべた。
確かに優李は一ヶ月半前にステータスレベルが二五になってから全く上がらなくなった。ゴブリンやコボルトではなく、もっと強い相手を倒さないとこれ以上レベルは上がらないのかもしれない。
ただ、優李にはレベルを上げる当てがあった。
理由は不明だが、三〇階層までしかなかった『魔窟の鍾乳洞』に新たな階層に続く入り口が発見されたのだ。今では多くの冒険者がその探索に勤しんでいた。優李はまだ三〇より下の階層にはチャレンジしていないが、そこにはより強い魔物がいるだろうからまたレベルが上がるかもしれないと考えている。
だからここでダンジョン探索を打ち切られるのは困るのだ。たとえ阿頼耶を殺した犯人に繋がる手掛かりが見付からないとしても。
「説得力に欠けるわね。文句があるなら、まずは部屋に引きこもっているヤツらを外に出してからにしなさいよ。それもできていないのに足並みだの連携だの言われても納得できるわけないじゃない」
「それは、私もそう思うんだけれど」
歯切れの悪い鏡花の反応に優李は首を傾げる。言いにくそうにしながらも、鏡花は観念したようにその理由を口にした。
「実を言うと、もう北条君が了承しちゃったのよ。だから、ダンジョン探索の中止は決定事項なの」
「…………」
頭が痛くなってきた。
こちらの世界に来た当初もそうだったが、どうにも北条康太は周りの意見も聞かず勝手に物事を決めるきらいがある。むろん、長い付き合いである優李もそれは承知していたのだが、ここ最近は大人しかったので失念していた。
「あの馬鹿……一言相談くらいしろって何度言えば分かるのよっ!」
苛立たしく言った優李は上着を羽織り、北条に文句を言うために部屋から出る。それを見た鏡花も慌てて部屋出て、彼女の後を付いて行った。




