第116話 きっと、その心は満たされていた
周囲に瘴気が撒き散らされる。
「全員俺の後ろへ!」
叫んだと同時に、セツナ、ミオ、クレハが俺の背後へ移動する。俺は極夜を地面に突き立てて神聖属性の魔力の威力を引き上げ、鉄砲水のように襲い掛かってくる瘴気を防いだ。
神聖属性の魔力によって阻まれる瘴気は二つに分かれ、俺たちの真横を勢い良く流れていく。瘴気を防いでいると、しばし沈黙していたティターニア女王が目を伏せて言った。
『良いでしょう。そこまで言うのであれば許可します』
『ティターニア女王陛下!?』
下された決定に驚くダンデライオンだったが、ティターニア女王はそれを黙殺した。
『ですが、長々と待つほど余裕のある状況ではありません。一時間だけ猶予を与えます。それを超えるか、キミたちでは対処できないと判断した場合はわらわたちで対処します。……良いですね? これはキミたちが人手を割いて一般人の避難誘導に協力してくれたから、そして真っ先に対処へ乗り出したからの配慮です。最大の譲歩であることを、努々忘れないように』
「感謝します」
任せてくれるだけ、充分過ぎる譲歩だ。
短く息を吐き、一気に極夜を振り上げる。放たれた剣圧と神聖属性の魔力によって瘴気を押し返し、一時的にだが瘴気が晴れる。
瘴気が晴れた、その向こう。俺たちの視線の先にいるセリカの姿はさらに変化していた。
病的なまでの白い肌、青色を帯びた白髪、泥水をさらに腐らせたような色の瞳と体から発生させている靄は変わりないが、下半身は馬の胴体から人のそれになっている。変化はそれだけじゃない。
服装はチューブトップから胸元が開いたノースリーブシャツとミニスカートになっていて、手足と顔の左側は物々しい装甲で覆われている。
いつも膝丈のスカートやパンツ姿だったから今の今まで気付かなかったけど、セリカって実は美脚の持ち主なんだな。晒された太股が艶めかしい。
胸元には変わらず魔石のようなものがあり、尾てい骨辺りから生える触手は四本から六本に増えている。
今までの貞淑さを思わせる服装とは異なり、物騒かつ露出の多い姿になっていた。
彼女の一挙手一投足に注意を払っていると、『キャハッ』という嘲るような笑い声が聞こえた。始めは、今もなお周囲で生まれている下位の瘴精霊が自我を持つほど成長して笑っているのかと思ったが、違う。そこまで成長した個体は確認できない。声の発生源はセリカだ。
「キャハハハハハハハハハハハハハハ!」
愉快そうに、心地良さそうに、陶酔したように、声高らかに狂った笑い声を上げる。
それだけで分かった。見た目も声音もセリカだが、中身は違う。彼女はセリカじゃない。
「キャハハッ! さいっっこう!! とっても気分が良いわ!」
スカートが翻るのも気にせず、両手を広げてクルクルと回る彼女から瘴気が放たれる。今でさえ続々と下位の瘴精霊が生まれているというのに、後押しするようにその発生数が増した。
これ以上増えられたら堪ったものじゃない。
背後にいるミオとクレハにハンドサインを送ると、二人は再び下位の瘴精霊を討伐するため、弾かれたように動き出した。
同時に俺とセツナも動く。彼女には明確に指示を出したわけではなかったのに、まるで俺がそう動くことが分かっていたように追従してくる。まぁ、俺も彼女ならついて来るだろうと見越した上でのことだったが。
セリカに向かって駆ける俺たちはその途中で方向を変えた。それぞれ左右に分かれ、両サイドから攻撃する。だが、横薙ぎに振った極夜の刃は硬質化した触手によって受け止められ、魔弾を撃とうとしたセツナはコメットを握る右手ごと触手に巻き付かれて銃口を逸らされた。
「お前、セリカじゃないな。セリカをどうした!」
「セリカぁ? それってこの宿主のこと? キャハハッ! とっても良い宿主よ、この子! 私たち瘴精霊は宿主が不幸であればあるほど魔物化の進行が早くなるんだけど、彼女よっぽど不幸な目にあったのね! おかげでこんなに早く『ステージⅢ』に進めたわ!」
ということはコイツ、セリカに取り憑いたあの瘴精霊自身か!
「あぁ、そうそう。セリカはどうした、だっけ? あの子なら私の奥底でこの光景を見ているわよ。目を逸らすこともできずにね! キャハハッ!」
思わず頭に血が上りそうになるがどうにか堪えて、俺は手首を返して触手を弾き、セリカ――ではなく彼女の体を乗っ取った瘴精霊を足払いする。彼女はそれを残りの触手を使うことで危なげなく転ぶのを回避するが、俺は極夜を一度『虚空庫の指輪』へ収め、代わりに魔法槍を取り出す。
「っ!?」
顔を目掛けて放たれる刺突を瘴精霊は後ろへ顔を逸らすことで避ける。魔法槍は空を切ることになるが、俺の目的はそちらではない。突いた魔法槍のその先にあるのは、セリカの右腕を縛る触手だ。俺はそれを切る。
自らの腕を拘束する触手が断ち切られたことでセリカの右腕は自由になった。即座に彼女は照準を合わせて魔弾を撃とうとする。彼女の得意技である『早撃ち』だ。
しかし、自我を得たことで知恵も獲得したのか。あるいは宿主のセリカから奪ったのか。瘴精霊は触手を地面に打ち付けて舞台を割り、その下にある土を巻き上げて土煙を散布した。
「「チッ!」」
俺とセツナは揃って舌打ちをし、風属性魔術で土煙を払うと、瘴精霊は後方へ下がって俺たちと距離を取っていた。
「あー、驚いた驚いた。まっさか槍も使うとは思わなかったわ」
「……お前の目的は何だ」
武器を魔法槍から極夜へ戻しつつ、瘴精霊へ問い掛ける。
「セリカに取り憑いて、魔物化して。それで一体何をするつもりなんだ」
「ん? ん~? 魔物化は私生来の性質なだけで、別に目的なんかないんだけど……でもまぁ、せっかくだし、私に体をくれたお礼を兼ねて、手始めにこの国のヤツらを皆殺しにしてやりましょうか」
ゾッとするような一言だった。
言葉の内容にじゃない。まるで天気を見て洗濯するかどうかを決めるくらいの気軽さで言ったことに、だ。
「この宿主だってずっと不幸な目にあったんだもの。きっと『この国のヤツらなんて死んじゃえ』くらいは思っているはずだものね!」
まるでそれがセリカの望みであるかのように、瘴精霊は語る。それを、ダンデライオンが目聡く指摘してきた。
『聞いただろう、「鴉羽」。そいつは我々を殺すつもりだ! 救うなどできもしないことにかまけている暇があるならさっさと殺せ! 救えたとしても、そのハーフは不遜にも我らを恨んでいる! こちらに牙を剥く恐れがある者を生かしてはおけん! この私が命じているのだ! 分かったらさっさと殺せ! 木っ端の冒険者風情が! 多数を救うためには少数を切り捨てねばならん! そんな単純な計算もできんのかっ!!』
自分以外の全てを見下した、人の命を紙の上の数字としか見ていない言葉に、さすがに俺たちはうんざりした。
「「いい加減にしろ(してください)よ」」
互いにドスの利いた声でダンデライオンに言うと、彼はもちろん瘴精霊も驚いたように目を丸くした。
瘴精霊も反応するとは意外だったが、その隙を突いて俺は瘴精霊の顔面に膝蹴りを入れる。鼻血が出るほどではなかったが、衝撃でよろめく彼女へセツナが追撃する。
地面に手を付き、土属性魔術で作った土の柱が伸びて瘴精霊の腹部へ叩きこまれた。口から空気が吐き出され、くの字に体が折れ曲がる。そこを俺とセツナがそれぞれ武器を投げ捨て、片手で彼女の手首を取り、残った手で肩を抑え、地面へねじ伏せた。
これではまだ触手が残っているので不十分だ。セツナが【光楔の十字剣】を使って、十字架の形をした光の剣を作り出し、それを全ての触手に突き立て、地面へ縫い付けた。
両腕は俺とセツナでそれぞれ捻ることで抜け出すことはできないし、【光楔の十字架】によってしばらく触手も使えない。彼女を拘束した状態で、こんな時でも馬鹿の一つ覚えみたいにセリカを殺すことしか頭にないダンデライオンへ言う。
「おい、ダンデライオン」
『な、何だ』
「さっきから偉そうに言っているけどな。誰のせいでこんなことになったと思っているんだ。お前のその選民思想のせいでこうなったんだろうが。自分の責任を棚上げして、何一つ悪くないセリカを責めるな。責任を押し付ければそれで済むとでも思っているのか」
「本当ですよ。何がエルダーエルフですか、馬鹿馬鹿しい。たまたま中位種として生まれて、人より長く生きてきただけで、エルダーという種族に胡坐をかいているだけの人が偉そうにしないでください」
上の種族になっている人は大半が上の種族として生まれるのだが、実は後天的に上の種族へと進化する者もいる。たとえば、冒険者ギルドに所属する一部のAランク冒険者や『最高位へ至る者』であるSランク冒険者たち。
進化先にどんな種族があるのかはある程度判明しているものの、その種族へ進化するための詳しい条件はまだ分かっていない。ただ、後天的に進化した者は皆、ダンジョンの隠しステージである裏ダンジョンで進化しているらしい。
進化条件にステータスレベルとか戦闘能力とかが関係しているのかもしれないが……まぁ、ダンデライオンは間違いなく先天性の中位種だろう。
『き、貴様ら……!!』
小僧と小娘の両方に侮辱されたダンデライオンは顔を真っ赤にして戦慄いている。
やはりというべきか、ブルーベルさんが異常に追い詰められていたのも、このダンデライオンが原因なのだろう。試合の最中に発せられた言葉から、実際にどんなやり取りがあったのかは分からない。
そして、重圧に耐え切れなくなったブルーベルさんは、誰かから受け取った魔水晶を使ってしまった。妖精族なら誰でも忌避する瘴精霊が封じられた魔水晶を。
どうやらダンデライオンには危機感と責任感が足りないらしい。問題は書類上の話であって、物理的な火の粉は降り掛からない。責任は人に押し付ければ自分は万事安全だと、本気で思っている。なら仕方ない。全てが終わったら、ちょっと思い知ってもらおう。
人の心を踏みにじる行為が、どういう結果をもたらすのかを。
「こ、の……!」
と、下の瘴精霊が脱出しようと身じろぎするが、無駄だ。関節を極めている以上、無理に脱出しようとすれば関節が外れる。やっと手に入れた体を、この瘴精霊が拘束から逃れるためだけにわざと傷付けるとは思えない。
そう思っていたのだが、途端に瘴精霊の背中が不自然に揺れた。
「――っ!」
疑問を挟むより先に体が動いた。
隣で俺と同じように瘴精霊の関節を極めているセツナを蹴飛ばし、俺もすぐに退く。一歩遅れて、瘴精霊の背中からいくつもの太い針が飛び出した。
まるで針鼠だ。あのままだったら俺もセツナも串刺しにされていたな。
泥水をさらに腐らせたような色をしていることから、おそらく瘴気を固めたものだろう。瘴気を固体化して武器にすることもできるようだ。
俺に蹴られたセツナは地面に手を付いて体勢を整えて着地し、『虚空庫の指輪』から小瓶を取り出して中身を一気に飲み干してから空になった小瓶を無造作に放り捨てる。
解毒薬か。瘴気は毒のようなものなので、【毒耐性】を持っている俺は近付いてもまだ耐えられるが、耐性を持っていないセツナは瘴気によってダメージを負ってしまう。なので解毒薬で回復する必要がある。
とはいえ、永続的な効果を見込めるわけではないので、自身のステータスを見極めつつ解毒薬を飲まなければならないが。
俺は何度か地面を跳ねるようにして後退すると、途中で見付けたコメットを回収し、極夜を手元に呼び寄せる。充分に距離を取ったところでセツナにコメットを投げ渡して、受け取った彼女は俺と合流した。
「アルフヘイム人たちを皆殺しにする、だって? それがセリカの望みだって言いたいのか。そんな破滅を、セリカが望んでいると?」
瘴精霊に問うと、彼女は背中から生やした針を引っ込めつつ起き上がり、にたりと気味の悪い笑みを浮かべて言った。
「恨んでいないとでも? 憎んでいないとでも? まっさかぁ。そんなわけないじゃない。私の魔物化の進行速度は不幸度合いに比例する。これだけの早さになるほどの不幸を受けていて、誰にも憎悪を抱いていないわけないじゃない。そうでしょう? そもそも、私は彼女に取り憑いているのよ? 彼女の心の内は誰よりも分かるわ」
取り憑いているから、セリカがこれまで受けてきた理不尽も、抱いている感情も知ることができる。瘴精霊はそれを代弁しているだけだと?
「だから壊してやるわよ、何もかも! 何もかも壊して、誰も彼も殺して、この国の全てを滅茶苦茶にしてやる! 価値のない存在は生きるに値しないっていうなら、私が純血どもを殺してやるわ! そうすれば純血たちも少しは目を覚ますんじゃない? 自分たちはとんでもないことをしたって。まぁその時にはもう何もかもが手遅れなんだけどね! 全員死んでいるんだから!」
悪辣に瘴精霊は嗤う。
これが瘴精霊。不幸を糧に、取り憑いた人を犠牲にして生まれ落ちる精霊。宿主の感情を取り込んで、ブーストさせることで周囲に破壊と殺戮をまき散らす存在。
「手始めはアンタたちよ! 復讐を完遂するには、アンタたちは間違いなく邪魔になるだろうからね!!」
叫びと共に、六本の触手が俺たちに向かって襲い掛かってきた。
◇◆◇
そのやり取りをセリカ・ファルネーゼは目を逸らすこともできないまま見ていた。
どうしてこんなことになったのだろう。ただ独りが嫌だっただけなのに。ただ彼らに報いたいだけなのに。
それなのに何故、自分に手を差し伸べてくれた彼らと戦わなければならないのだろう。
自分の体を好き勝手使う瘴精霊は語る。セリカ・ファルネーゼはみんなを憎んでいると。憎まれるだけのことをしたのだから、復讐されて当然なのだと。
彼女の今までの人生を考えれば、不思議ではないことだ。彼女じゃなくても、長い人生の中で殺したいほど人を憎むことだってあるかもしれない。
セリカだって、全く憎んでいないと言えば嘘になる。『何で混血というだけでこんな目にあわないといけないんだ』と恨んだことだってある。
けれど、それで本当に人を殺せる者は少ない。憎いからと言って本当に復讐したいわけじゃない。痛い目を見ればいいとは思うけど、進んで誰かを不幸にしようとは思わない。
なのに瘴精霊は、『セリカは復讐を望んでいる。自分はそれを叶えているだけだ』と責任だけを押し付けてくる。
(違う。私は、復讐なんて望んでいない! そんなことなんてしたくない!)
そんなことをしたいわけじゃないのに、復讐したいと口に出したわけじゃないのに、実際に自分がやったわけじゃないのに、瘴精霊の行いが全て自分の感情を元にした行動ということにされてしまう。
このままでは本当に犠牲者が出てしまう。人を殺し、国を滅ぼし、取り返しのつかないことをしてしまう。
どうにかしたいけど、どうにもならない。体を乗っ取られたままのセリカには何もできない。瘴精霊が破壊と殺戮を広げ、それを全てセリカのせいにされる様を、弁明も叶わないまま見ているしかできない。
「ふざけたことを抜かすなよ」
だが少年は瘴精霊の言葉を切り捨てる。
「そんなのがセリカの望みなわけがあるか。お前はただ、セリカの中にあるほんのわずかな負の感情だけを切り取って大袈裟に言っているだけだ」
「そうですよ。私たちは知っています。彼女は、どれだけ辛い目にあっても、誰かを恨むんじゃなく、まず『独りぼっちは嫌だ』と泣いちゃうような、そんな優しくて寂しがり屋な人だってことを」
ただ『信じる』と口にするだけの、中身のない安っぽくて薄っぺらな言葉じゃない。実際にその目で見て、その心に触れて、確信を得た信頼の言葉だった。
「救いましょう、先輩! あんなヤツからセリカさんを!」
「もちろんだ。これ以上、瘴精霊の好きにはさせない。セリカを救い出して、誰かと一緒にいる幸せを掴ませてやる!」
(…………)
否定材料はないはずだった。普通に考えれば、『復讐を考えても不思議じゃない』と判断する方が順当なはずだった。
けれど彼らは信じてくれた。セリカ・ファルネーゼは復讐を望むような心性の持ち主ではないと。
だから。
自我は押し込まれ、眉一つ動かすことも許されず、感情を一切表へ出力することができなくなっても。
きっと、その心は満たされていた。




