第114話 瘴精霊(ミアズマ)
パキンと叩き割った魔水晶から現れたのは小さな女性形の精霊だった。
病的なまでに白い肌。顔全体を隠すように長く伸びた、青色を帯びた白い髪。前髪からわずかに覗かせる、泥水をさらに腐らせたような色をした瞳。その瞳と同じ色をした靄を発生させて背中から触手のようなものを四本ほど伸ばしている精霊は、見ているだけでも忌避感を誘発させる。
アレは何だ。ただの精霊じゃない。アレは危険な存在だと、本能が警鐘を鳴らしている。
魔水晶から呼び出されてセリカとブルーベルさんの間で浮かぶ精霊はゆっくりとブルーベルさんの方を向いてニヤリと凶悪な笑みを浮かべて……
『ブルーベル!!』
咄嗟に、セリカは駆け出してブルーベルさんを突き飛ばした。当然そんなことをすればブルーベルさんとセリカは場所を入れ替わることになり、ブルーベルさんを襲おうとしていた精霊は襲い掛かる。
両腕を交差させて防御の体勢を取るが、精霊はガラ空きとなっていた腹部へ進行方向を修正して、スルリと彼女の体の中へ入りこむ。
『っ!? あ、ああぁぁああああああああ!!』
すると、激痛が走ったようにセリカは叫び声を上げた。立ったまま弓なりに体を仰け反らせ、目も限界まで見開いて、まるで嵐のように魔力を吹き荒れさせている。
「何をやっている、係員! 今すぐ試合を中止しろ!」
明らかな異常事態に俺は風属性魔術で拡声して叫び、通路を使うのももどかしくて関係者用の観客席から舞台へと飛び降りる。正面が吹き抜けになっていて良かった。じゃないとぶち抜く必要があったから。
苦しむセリカと呆然とするブルーベルさんの間に着地したのと同時に、俺の声を聞いてハッとした係員とケトルがようやく行動に移った。
『非常事態です! 大会は中止! 観客の皆様は係員の指示に従って避難をしてください! 警備担当の者は即刻事態の収拾を! アレは――瘴精霊です!』
一拍の静寂の後、ようやく理解が追い付いた観客たちが青い顔をしてドッ! と一斉に暴走を開始した。我先にと出口へと駆け込み、行き交う人を引きずり下ろして踏み倒してでも、自分が先に外へ出ようと躍起になっている。
その姿を見るだけで、あの瘴精霊と呼ばれた精霊が極めて危険はものだということが分かるが、無秩序に動くため、出口は人の大波に飲まれ、進むことも戻ることもできない状態になってしまっている。あれでは観客全員を避難させるまでまだまだ時間がかかるだろう。
そして、全員の避難が完了するまで事態が動かないなんてことはありえない。
魔力の暴風で近付けなかったセリカの様子に変化が現れた。魔力の暴風はピタリと止んだが、その代わりにと苦しんでいたセリカの体が泥水をさらに腐らせたような色をした靄に包まれて覆い隠された。
まさか!
「セリカを取り込むつもりか!?」
そんなことはさせまいと靄に向かって駆け出すと、靄から二本の触手が飛び出してきた。慌てて足を止めて腰の極夜を抜き放ち、俺に襲い掛かる二本の触手を輪切りにする。
輪切りにされた触手が地面に落ちるが、直後に煙のように消滅し、斬られた二本の触手は断面をブクブクと泡立たせ、あろうことか再生してしまった。それどころかさらに二本ほど増えており、四本の触手の先端は観客席に向いていた。
「――【猟犬の檻】!」
俺が何かを言うよりも速く、追従して舞台へ飛び降りていたセツナが先んじて魔術を展開する。透明な立方体が四本の触手を生やす靄を閉じ込めるが、鞭のようなしなりで力を乗せた攻撃を受けた【猟犬の檻】は窓ガラスを割ったような音を立てて破壊された。
「なっ!? 中級の結界魔術ですよ!?」
一撃で破壊されたことに瞠目するセツナだったが、そこで動きを止めるほど素人ではない。即座に次の手に切り替える。
「――【大地の鉄鎖】! 【光楔の十字剣】!」
靄の足元に魔法陣が展開され、そこから六本の鎖が飛び出して触手を一本ずつ封じ、残りの二本で靄本体に巻き付く。さらに四本の十字架を思わせる光の剣を作り出し、触手に突き刺した。生半可な結界だと破壊されるだけなので、動き自体を封じる方へシフトしたようだ。
効果はあったようで、靄の動きは抑え込むことに成功した。分からないことが一気に起こってしまった。俺は改めて疑問を口にする。
「アレは一体何なんだ? 瘴精霊とか呼ばれていたけど」
「瘴気を好み、瘴気を生み出す精霊のことですわ」
俺に追従して観客席から飛び降りていたのはセツナだけではない。クレハとミオも飛び降りており、魔術の維持に労力を割いているセツナに代わってクレハが説明してくれた。
「墓場や戦場のような、多くの人が死んで誰も寄り付かなくなった穢れた場所――『忌み土地』と呼ばれる場所や風穴に瘴気は発生し、瘴精霊は生まれます。そうそう見ることはないのですが、どうやってか彼女はそれを封じた魔水晶を手に入れたようですわね」
刺すような視線を向けられて、体をビクつかせたブルーベルさんは顔を背けた。その姿に俺も思わず目を細めたが、クレハに話を続けさせる。
「精霊と密接な関係がある妖精族からは忌み嫌われていますが、その最大の理由は『魔物ではないものを魔物に変貌させてしまうこと』にあります」
「……何だって?」
「魔物は他の動物と同じく交配によってその個体数を増やしますが、瘴気や瘴精霊は生物の体と心を穢し、魔物ではないものを魔物へと変貌させてしまうのです。アンデッドがまさしくそうですわね。アレも死体に取り憑くことで生まれますので。そういった理由から『人の手で制御できる範囲を超えた有害な存在』としてS級災害指定精霊に認定されていて、Aランク上位の冒険者や、それこそ『最高位に至る者』が出張ってきても不思議ではないレベルの案件ですわ」
「それはどうでもいい。そうじゃなくて、魔物じゃないものを魔物にするって? だったらセリカはどうなる!?」
「……あのままでは、いずれ魔物になってしまいますわ」
「ならどうして何もしないんだ!」
「できるなら!」
食って掛かる前にクレハが叫んでそれを遮り、俺は思わず言葉を止める。
「わたくしだってできるのならすぐに彼女から瘴精霊を取り除くために行動していますわ! しかし一度瘴精霊に憑依された者はどうやってもそれを取り除くことはできません! 聖剣や魔剣が宿す神聖属性と暗黒属性のような質の高い魔力に弱いということが分かっているだけで、憑依された者から瘴精霊を除去する具体的な方法は確立されていないのです! 憑依されたが最後、その者は魔物になるか、魔物になる前に殺すしかありません!」
「っ!?」
クレハの言葉を聞き、セツナとミオに視線を向ける。彼女たちは知っていたようで、セツナは悔しそうに歯を食い縛り、ミオは辛そうに俯いていた。
その態度で、『瘴精霊に憑依された者を救う術はない』のが世界共通の常識であると嫌でも理解させられた。あまりにも理不尽な事態にカッと頭に血が昇り、この状況を招いた当人であるブルーベルさんの胸倉を掴み上げた。
「何てことをしたんだ、お前は! そんなにもセリカが憎かったのかっ!!」
至近距離で叫んだからだろう。今にも泣き出しそうな怯えた顔をする彼女は首を横に振った。
「し、知らない。私、ただ渡されただけで……これを使えば勝てるって……しら、知らなかったの……まさか、瘴精霊が封じられているだなんてっ!」
自分が持っている物について知らないなんてことがあるわけないだろ!
ふざけたことを抜かすブルーベルさんに追求しようとしたが、それはクレハに止められた。
「今は彼女よりも、この状況をどうにかするのが先決ですわ」
「見逃せっていうのか?」
「どの道、彼女は処罰を免れません。瘴精霊を取り扱うこと自体、どの国も禁止しています。もちろん、魔水晶に封じて持ち歩くことも。知らなかったでは済まされませんわ」
どうせ厳罰に処される。だからここで責め立てることに意味はないってことか。それにブルーベルさんはアルフヘイム国民だ。なら、アルフヘイムの法で裁くのが道理だ。
苛立たしく舌打ちをすると、こちらへ走って来る人影に気付いた。クラウドだ。
「アラヤさん! 皆さん! 一体何が起こったんですか!?」
「ちょうど良かった、クラウド。コイツを連れて避難しろ」
「え? は、え?」
突然ことに混乱しているクラウドへブルーベルさんを預ける。
「瘴精霊を呼び出した張本人だ。瘴精霊を封じた魔水晶の入手経路とかを聞き出す必要がある。重要参考人だから絶対に死なせるなよ」
まぁ、聞き出すのは俺たちじゃなくてこの国の役割だけど。
「この人が瘴精霊を!? わ、分かりました! 皆さんはどうされるんですか?」
「どうにかするよ、この状況を」
セツナの魔術による拘束から逃れようともがいている靄を見つつ言うと、顔を真剣なものにしたクラウドは一度頭を下げてからブルーベルさんを連れて避難した。
彼に任せておけば、妖精兵団にでも受け渡して適切に対応してくれるだろう。一度深呼吸をして感情をフラットにする。
「悪い、クレハ。感情的になった」
「いいえ。こんな状況ですもの。冷静にいろという方が酷ですわ。それで、どうなさいますの?」
「『灰色の闇』を招集して、避難誘導に協力。俺たちはこっちを対応する」
でなければ、彼女を殺すために戦力を投入されかねない。それを避けるためにも、俺たちで対応しないと。
「何か考えがあるので?」
「ないよ」
以前、クレハが患っていた不治の病である『魔力不整脈』の治療に成功したから、何か考えがあると勘違いしたのかもしれないが、残念ながら打開策なんて何もない。長年、除去の手掛かりを掴めていないのに、そもそもどんな理屈で取り憑いているのかも分からないのに、それをどうにかする方法なんて浮かぶわけもない。
「戦いながら打開策を見付けるしかないな」
かといって、諦めるわけにはいかない。
彼女を救うと決めたのだ。だったら、他でもない俺自身が真っ先に諦めたら駄目だろ。足掻いてやるさ。最後の最後まで。
「みんな、構えてください!」
セツナからの警告が飛んだ瞬間、靄の塊を拘束していた二つの魔術が破られた。




