第99話 翡翠(ひすい)の涙
2019/10/11に内容を改定しました。
→精霊魔術の定義を、『詠唱も術式名も唱える必要がない』から『術式名を唱える必要はあるが、無詠唱で使える』に変更しました。
読者の方にはご迷惑をお掛けしますが、ご了承ください。
◇◆◇
「今のは『精霊の子守歌』ですか?」
彼の姿を捉えて思わず呆けてしまった私――セリカ・ファルネーゼに、彼は穏やかな笑みを浮かべて聞いてきた。私は少し戸惑いながらも答える。
「は、はい。えっと、妖精族なら子供の頃によく聞く民謡です。ご存知だったのですか?」
「えぇ。昔、母がよく口ずさんでいました」
懐かしそうに語る彼の言葉に、私は首を傾げた。
彼って、異世界人よね? 黒髪黒目だし。それなのに、何で『精霊の子守歌』を知っているの? 母親が歌っていたって言っていたけど……でも、そんなことはあり得ない。
その言葉の真意を聞こうとした私だったけど、それよりも先に私の元へ一体の精霊が飛んできた。どこかへ行っていたはずのルルだった。
そのルルを見て、彼が説明した。
「その子が俺をここへ連れて来たんですよ」
「ルルが?」
一体どういうつもりで彼をこんな所へ連れて来たのかしら?
そう思って私の肩へ腰を下ろしたルルへ視線を向けたけど、プイッとそっぽを向いてしまった。どうやら話すつもりはないらしい。けれど、どうやら彼に迷惑をかけてしまったみたいだ。
「ご迷惑をお掛けしてしまったようで、申し訳ございません」
「いえ、気にしないでください。ついて行くことを決めたのは俺ですし、それに良いものが見られましたから。ただまぁ、姿は見えても声は聞こえないみたいで、会話ができないのは少し不便ですけど」
「え? 姿が見えるなら声も聞こえるはずですが」
「え?」
これは一体どういうことか。姿が見えるということはルルが相手に姿を見えるようにしているということなので、声も同様に聞こえるようになっているはず。
再度ルルを見ると、彼女は不承不承と答えた。
「……だって、言わなくても伝わりそうだったんだもん」
「「…………」」
風精霊は風を司っているだけあって、風の吹くまま気の向くままといった感じで気分屋だが、これにはさすがに頭を抱えてしまう。碌に喋りもせずに他人様を連れて来るとは何事か。
「何か、その、ごめんなさい」
「いえ。まぁ、良いです」
何とも言えない気まずい空気が流れる。当の本人であるルルは素知らぬ顔だ。誰のせいでこんな気まずいことになっているのか分かっているのかしら。思わず零れそうになる溜め息をどうにか堪えると、彼が気まずい空気を払拭するように咳払いをして話題を変えた。
「それはそうと、セリカさんはどうしてここに?」
「どうして、と言われましても……ここへはよく来ますし、近くには私の家がありますから」
「こんな森の中に?」
彼の疑問は当然だった。こんな所に住まわずとも、歩いて行ける距離にメグレズがあるのだからそちらに住めばいい。けれどそれは、彼が私の事情を知らないから。知ればそんなことを思いはしないだろうけど、私はそれを言うつもりはない。不幸自慢でもあるまいし。
けれど、そんな私の意に反してルルが代弁してしまった。
「セリカは半森妖種だからってこんな所に独りで住む羽目になっているの」
「ちょっとルル!」
「ダンデライオンが周りにセリカのことを悪く言うから、誰も彼女と関わらないの。ダンデライオンはあんなでも長老会の一員だから、彼に逆らったらどんな報復が来るか分からないってのもあるから。だから、今日だってせっかくの精霊祭だっていうのにこんな所で引きこもっているの」
それを聞いた彼は、驚いたように目を丸くしたが、すぐに何か考えるようなそれに変えて、思案に浸る素振りを見せた。
意外だった。大抵の人は私を憐れむような目で見るのに、彼はそんなことはしなかった。代わりに、
「大丈夫ですか?」
と私を案じた。きっと彼は、優しい少年なのだろう。憐れむわけでも、同情するわけでもなく、心配するだなんて。
ちょっと嬉しかった。こんな生活をするようになってから、ルル以外の誰かに心配されることもなくなったから。
「……えぇ、まぁ。もう二百年近く経ちますからね。慣れましたし、もう諦めたので」
笑顔を張り付けて、先ほどからずっと持っていたヴァイオリンをケースに戻しながら、暗に「これ以上踏み込むな」と言う。こう言えば、多くの人はここで引き下がる。それが賢い選択だし、それが大人の対応だ。
彼は若いが、その割には頭の回転は速いし優しい子だ。それにむやみやたらと相手の心に立ち入るような無作法な真似をするとも思えない。
「本当にそう思っているんですか?」
「え?」
けれど私の予想に反して彼は私にそう言った。
まさかそんな言葉が返ってくるとは思わなくて彼に視線を向けたけど、途端に私は喉をひくつかせた。先ほどまで穏やかな眼差しをしていた彼のそれが、まるでこちらの全てを見透かすような、嘘を語ることを許さないような、そんな力強く鋭いものへと変化していたからだ。
「思って、ますよ」
彼の目を見ていられなくて逸らして、絞り出すように言った。
少なくとも、私がここにいれば、周りの人に迷惑を掛けることはない。私さえ我慢していれば、面倒なことは起こらない。
「ふざけるなよ」
「え?」
「慣れた? 諦めた? 冗談じゃない。半森妖種だからって何でそんな不当な扱いを受けなきゃならないんだ」
「…………異世界人のアナタには分からないでしょうけど、私のようなハーフは受け入れがたい存在なんですよ。半森妖種は森妖種と人間族の間に生まれた、穢れた血を宿した混ざり者。人間族にも森妖種にもなれない半端者。嫌われ者の雑種。それがこの世界での常識なんです」
「だからそれを「ふざけんな」って言っているんだよ!」
突然の叫びに、私は目を丸くした。勝手な印象だったけど、彼が誰かに対して怒って声を荒げるような人には見えなかったから、余計に驚いた。
「理不尽に他者を虐げていい常識があってたまるか! 半森妖種だからって、それだけでアナタの価値が決まるわけじゃないだろ! 人の価値っていうのはな! これまでそいつが何を成してきたかで決まるものなんだよ!」
……何を、成したか?
「セリカさん。アナタはこれまで、自分の欲を満たすためだけに誰かを傷付けたことは? 誰かを陥れたことは? 誰かの心を弄んだことは? 長老会メンバーの姪という立場を利用して、誰かを害したことはありますか?」
「ありません」
あるわけがない。そんな酷いことをしようだなんて、考えたこともない! それとも彼は、私がそんなことをするような女に見えるとでもいうの?
「だったらアナタが虐げられる理由なんて一つもないじゃないか! 半森妖種? 混ざり者? 半端者? 雑種? だから何だっていうんだ! そんなくだらない理由でどうしてアナタが理不尽な目に合わなきゃならないんだ! アナタは何も悪いことはしていないのに、何でアナタが諦める必要があるんだ! ふざけたことを抜かすのも大概にしろ!」
分かっているわよ、そんなことくらい。混血だからって虐げていい正当な理由なんてない。彼の指摘は真っ当で、正しい。でもね……何でそれを出会ったばかりのアナタに言われなくちゃならないのよ!!
「うるさいっっ!!」
彼のあまりの物言いに、プチンと堪忍袋の緒が切れた。怒鳴り声と同時に私の体から魔力が吹き荒れる。
「っ!?」
それに煽られるように後方へと飛ばされた彼はすぐに体制を整えた。けど、そんなことはどうでもいい。私は足元に置いていた『イチイの長弓』を手に取った。
「さっきから黙っていれば好き勝手言って! えぇ、そうよ! 私は何も悪いことなんてしていないわよ! でも、だったらどうしろっていうのよ!」
叫びながら、私は肩に乗ったままのルルに精霊魔術の行使を命じる。
精霊と精霊魔術師の関係は、お互いが了承しなければ契約は結べないこともあって基本的に対等ではあるけど、契約という繋がりで結ばれているから、精霊魔術の行使を命じられたら精霊はそれを拒否することはできない。ただその代わりに、契約の破棄は精霊側から一方的にできる。
互いの信頼によって契約を結び、精霊魔術師が命じることで精霊がその力を行使する。それが精霊魔術だ。
そして精霊魔術は他の魔術と違って、実際に術式を展開して発動するのは精霊であり、精霊魔術師はただ魔力を与えるだけでいい。だから精霊魔術は術式名を唱える必要はあるけど、他の魔術では高等技術とされる無詠唱をデフォルトで行うことができる。
私の目の前に、風が球状に凝縮されていく。
「――【旋風の撃】!」
非殺傷性の攻撃系に分類される風の精霊魔術。効果は単純で、風の衝撃波を相手にぶつけるだけのもの。けれど、牽制には充分な威力はある。
放たれた風の塊が彼の腹部へと直撃する。
「ぐっ!」
けれど彼はそのまま踏み止まった。
「今まで私が何もしてこなかったとでも思っているの!? 抗いもせず理不尽に屈したとでも思っているの!? そんなわけないでしょ!!」
叫ぶたびに、私は彼に向かって【旋風の撃】を放つ。その全弾は彼に命中するも、彼は倒れない。
「認められようといろんなことをしたわ!!」
『イチイの長弓』を構えて、『魔矢の腕輪』で生成した魔力の矢を番える。それを見たルルはギョッとしたけど、私の命令を拒むことはできず、魔矢に風を纏わせた。
「――【陣風の矢】!」
次に私が行使したのは、突風を矢に纏わせることで速力自体を強化する精霊魔術だ。
私の放った矢は普通のそれを超える速度で彼に当たるけど、彼の耐久値の方が高いみたいで、精々がかすり傷を負わせる程度だった。それでも私は射掛ける。
「出来の良い弓を作るために何度も試行錯誤した! 弓の品質向上のために霊木の栽培もした! 会話の糸口になるかもってお酒も作った! 状態の良いお肉を卸すために上手く狩れるように何度も練習した! できることを増やそうと馬にも乗れるようにした! 喜ばれるかと思って服飾にも力を注いだ! 少しでも役に立てるように精霊魔術の腕も磨いた!」
何度も矢で射られているというのに、全く倒れる気配がない。力強く、二本の足で立っている。その姿が、まるで理不尽から逃げた私への当て付けのように見えてどうしようもなく不愉快だった。
「でも駄目だった! 無駄だった! 全部無意味だった! どれだけ頑張っても、認められることはなかったのよ!」
感情のままに叫ぶ私に、彼は静かに口を開いた。
「アナタの傷はアナタだけのものだ。理解してやりたいけど、俺はアナタじゃないから、それを余すことなく十全に理解してあげることはできない。けど、それでも敢えて言わせてもらう。――自分自身から目を逸らしていたら本当に望むものは手に入らないぞ」
「……え?」
彼の発した言葉に戸惑った私は、矢を射る手を止めた。ぼろぼろになった彼は、なおもその瞳から力が失われていない。真っ直ぐに私を見据えて、一歩を踏み出し、確信のこもった声で言う。
「アナタは認められたいんじゃない。ただ、独りになりたくないだけだ」
「――っ!?」
言葉が出なかった。何でそんな自信を持って断言できるのかという疑問を抱くよりも、気恥ずかしさが先んじた。自分でも分からなかった心の奥底を丸裸にされたようで、羞恥心で顔が赤くなるのが分かった。
「な、んで……」
「何で分かったのかって? いや、その表情だと指摘されて初めて自覚した感じか。……そう難しいことじゃない。そんな、迷子になった子供のような目をしていれば誰にだって分かるさ」
否定したかった。そんな目なんてしていないと。全て彼の妄想だと。そう主張したかった。でも、私の口は思うように動かなかった。
「なぁ、セリカさん。ジッと耐えていたって、その先には幸福も救いもないぞ。あるのは底無しの苦痛だけだ」
彼の指摘に、私はキュッと唇を結ぶ。
そんなことくらいは分かっている。でも、そうするしかないじゃない。
彼の言葉を聞きたくなくて、私は両手で耳を塞ぐ。でも、それでも彼の言葉は隙間を縫うように私の耳に届く。
「本当は分かっているんだろ? ただ耐えるだけじゃ何も変わらない。現状を変えるには立ち上がるしかないって」
「うるさい」
「報われなかったかもしれない。実を結ばなかったかもしれない。望んだ幸せには届かなかったかもしれない。けれど、きっとアナタの糧にはなったはずだ」
「うるさい!」
「駄目だったとしても、無駄だったとしても……アナタの努力は決して無意味なんかじゃない」
「うるさい!!」
「己と向き合え。そうすれば、実現するために何が必要なのかはすぐに分かる。そして、それはすでに目の前にある」
「うるさいうるさいうるさい!! 私の十分の一も生きていないクソガキが!! 知ったような口を効くな!!」
これ以上、私の心を掻き乱すな!!
「――【狂飆の刳】!」
もうどうすればいいのか分からなくなって、私は遮二無二に精霊魔術を使った。
矢に風が収束されていく。【狂飆の刳】は、先ほどまでのとは威力が段違いで、高密度に圧縮した暴風を矢に纏わせることで貫通力を最大にまで強化した精霊魔術だ。ただし速度は普通の矢と一緒で、しかも放つまでに時間がかかってしまうから実戦ではまず役に立たない。
私は矢を放つ。解き放たれた暴風の矢は、その余波で周囲の木々どころか草や地面すらも抉っていく。見るからにただでは済まないその一矢は、彼の左肩を容赦なく射抜いた。
「…………………………………………え?」
射抜かれた左肩からは鮮血が飛び散って地面を赤く染め、反対に私の頭の中は驚きで真っ白になった。
嘘……なんで、こんな……
いくら彼の耐久値が高くとも、当たればただでは済まない。それは魔力の動きから彼にも理解できたはず。今まで彼が攻撃を受けたのも、受け切ることができるからだと判断したからだろうから、さすがに何かしらの魔術で防ぐなり躱すなりする。
ミノタウロスの変異個体種を単独で倒した彼ならそれができると、そう思って射った。けど彼は防御も回避もせず、それどころか腰の武器すら抜かずに私の攻撃を受けた。
違う。こんなはずじゃない。
何も私は……彼に血を流させたいわけじゃない!!
「アナタの激情も、苦しみも、寂しさも、悲しさも、辛さも、悔しさも、全部間違っちゃいない。抱くべき正しい感情だ」
血が流れる左肩を抑えながら、けれどその瞳は理不尽に立ち向かう挑戦者のように力強かった。優しい笑顔を浮かべて、彼は私に手を差し伸べる。それは、私が長い間ずっと欲しかったものだった。
「このままなんて嫌だろ?」
神頼みしたって、どうにかなるわけじゃない。
「独りになんてなりたくないだろ?」
泣いて叫んだって、何かが変わるわけじゃない。
「理不尽なんかに負けたくないだろ?」
助けを求めたって、それに応えてくれる都合の良い英雄なんて現れたりしない。
「きっと俺がどうにかしてみせるから。だからアナタは言うべきことを言えば良い」
願いを口に出せば後は勝手に帳尻を合わせてくれるなんて御伽噺みたいなことは現実には起こらない。
「こういう時に言う言葉なんて一つだけだろ、セリカ・ファルネーゼ?」
そう、思っていたのに……
「……………………」
気付けば、私は『イチイの長弓』を地面に落とし、目から涙を流していた。
「酷い人ね、アナタは。人の心に土足で踏み込んで、散々荒らして……。とても褒められた行為じゃないわよ?」
「そうだな。俺自身もそう思うよ。残念ながら俺は口下手でさ。アナタの心を傷付けずに本音を引き出す話術なんてないから、こんな方法を取るしかなかったんだ。けどまぁ、だからって俺の行いが正当化されるわけじゃないから、後で好きなだけ殴ってくれていいよ」
「いや。散々攻撃したっていうのにさらに殴るなんてしないわよ」
それに、そのおかげで私の心は軽くなったんだから。
あぁ、にしても、涙が止まらない。泣くなんて、一体いつ以来だろう。とっくに枯れたと思っていたんだけど、そうじゃなかったみたい。後から後から、涙が溢れて止まらない。
私は彼に近付き、差し伸べてくれたその手を、宝物を扱うように両手で握った。
「本当に、どうにかしてくれるの?」
「あぁ」
「私の味方をすることで、アナタたち【鴉羽】も長老会から目を付けられるかもしれないわよ?」
「その程度で敵対するようなヤツらなんてこっちから願い下げだね」
「アナタがそこまでする理由なんてないのよ?」
「それでも、どうにもならないことをどうにかしたいって思うのが人ってものだろ」
私の言葉に、彼は当然のように言う。どうあっても助けるのだと、そう言ってくれているような気がした。
今更だけど、年下の彼に泣き顔を見られたくなくて、私は彼の胸に額を押し付けて、涙を溢しながら言った。
「お願い、アラヤ君。私を……助けてください」
◇◆◇
セリカから救いを求める言葉を聞き届けた雨霧阿頼耶は「良かった」と内心で安堵していた。
死んだ魚のような目をしていても、心まで死んだわけではなかった。ちゃんと、抱くべき本来の感情がそこにあったのだ。ただそれを、長い間押し殺していただけのこと。
そしていざその蓋を開けてみれば、なんてことはない。長老会メンバーも姪だの、半森妖種だの、そんな小さなことは関係ない。理不尽を前に「独りは嫌だ」と泣き叫ぶ、等身大の女性がそこにいるだけだった。
一度目を閉じ、彼女の言葉を受け止めた阿頼耶は再度目を開く。
彼女が言うべき言葉が一つなら、彼が返すべき言葉もまた一つだった。
「承った」
平穏な日常はこれにて終い。
ここから先は、理不尽に泣く彼女の涙を拭うために戦う、救済の時間だ。




