第97話 夜陰に響く鎮魂の旋律
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妖精の庭園での会話を終えた俺――雨霧阿頼耶とその一行は、とある温泉宿を訪れていた。
そう。温泉宿である。妖精の庭園から出て目的もなく歩いていたところをたまたま見掛けた時は何かの見間違いかと思ったが、従業員に話を聞くとそういうわけではなかった。どうやらこの辺りは非火山性温泉が湧くようで、国内にはいくつかの温泉宿があるらしい。ここはその一つなのだとか。
「こっちの世界に来て、まさか温泉に入れる時が来るとは思わなかったなぁ」
露天風呂に浸かっている俺は独り言ちる。
日は既に落ちており、夜の帳は下りている。夜空には星が瞬き、生憎と満月ではないが綺麗な月が出ている。露天風呂には俺しかいない。他の客もいるにはいるのだが、ここの温泉宿の女将さんが、この時間帯だけ貸し切り状態にしてくれたのだ。
何でもここの女将さんの娘さんが、違法奴隷にされていた人たちのうちの一人であったらしく、そのお礼にと貸し切り状態にしてくれたのだ。何度も頭を下げてお礼を言ってきたのが印象に残っている。
湯船に浮かべられた風呂桶を手繰り寄せる。風呂桶には徳利とお猪口が入っていた。徳利に入っているのは清酒だ。日本では二十歳までは酒は飲めないが、アストラルだと十五歳で成人と見られるため、酒も十五歳からならオッケーらしい。
酒をお猪口に注ぎ、一気に煽る。辛口だが、フルーティーで軽い味わいがする。酒なんて初めて飲むから良し悪しなんて分からないが、この酒は美味いな。
「温泉に入りながらの月見酒ってのも良いものだな」
実を言うと、今夜はこちらに泊まることになった。宿は既に取ってはいるが、女将さんから「おもてなしをしたい」と言われてしまい、さすがにそこまでしてもらうのはと思ったのだが、俺たちが泊まっている宿にも使いを出して事情を説明すると説得されてしまった。
そこまで言われてしまっては、さすがに好意を無碍にはできなかった。
「はぁ~」
深く深く息を吐いて緊張を緩める。
やっぱり風呂は良いな。体の芯から温まるし、良い感じに解れる。取っていた宿にも風呂はあったが、カルダヌスだと水で体を拭くくらいだったからな。それを考えると、バジルさんに報酬の一つとして俺たちが使う家を探してもらっているが、風呂を条件に入れていて正解だった。
無属性魔術には【洗浄】という汚れを落とす魔術があるし、それを使えば風呂に入るよりも綺麗にはなるのだが、これはもう気分の問題だ。風呂に入れた方が気持ち的にもさっぱりする。
まだ条件に合致する物件は見付かっていないだろうけど、どんな家になるか楽しみだな。
「けどまさか、この歳で一軒家持ちになるとはなぁ」
収入的に問題ないし、仲間が増えて必要なことだったとはいえ、高校生が一軒家を持つなんて地球じゃ考えられないことだ。だがアストラル――とりわけ冒険者ではパーティ共用の家を持つことは自然な流れで、それがBランク冒険者ならなおさら珍しいことではないとレスティは言っていた。
だから、まぁ、問題はないだろう。
「世界が変われば常識も変わる、ってことか」
染み染みと俺はそう実感したのだった。
◇◆◇
お風呂に入れる日が来るなんて思わなかった。私――ミオは露天風呂に浸かった状態でそんなことを考えていた。奴隷だった時はもちろん、親戚に引き取られた時も、両親がまだ生きていた頃も、お風呂になんてそう入れるものじゃなかった。
お師匠様に拾われてから、前よりも贅沢な生活をしていると思う。カルダヌスだとお風呂じゃなくて行水だったけど、それでもお師匠様自作のシャンプーや石鹸のおかげで髪も体も常に綺麗でいられる。
ご飯も沢山食べられるし、ふかふかのベッドで寝られる。お師匠様は「もう少しどうにかしたいなぁ」って不満そうだったけど、私には充分なほど贅沢だった。
それにお師匠様は、あの違法奴隷の件が終わった後も剣を教えてくれて、私を強くしてくれている。
もちろんそれは、生易しいものじゃない。
お師匠様の訓練は本気で殺しに来るから怖いし、辛くもあるけど、でもお師匠様は厳しいだけじゃない。ちゃんと褒めてくれるし、訓練の時以外はかなり優しいから、訓練も私のことをちゃんと考えた上であえて厳しくしているんだと思う。
おかげで、ちょっとやそっとの殺気じゃ、怖くて体が動かなくなるなんてことはならなくなったし、ギルドの体格の良い冒険者の人に見られても委縮することもなくなった。
これ以上にないほど充実した毎日を過ごしている。そう、断言できる。お師匠様と出会ったのは、私の数少ない幸運なんだって、今ならそう思う。
「……今日は、楽しかったなぁ」
まさかお師匠様があそこまで射的が苦手とは思わなかった。違法奴隷問題を解決したから、私はお師匠様のことをどこか『何でもできる無敵な人』って思っていたけど、そうじゃなかった。お師匠様にも苦手なものはあった。感情を表に出すのは苦手だから顔には出なかったけど、あまりにも下手くそ過ぎて、心の中で笑っちゃった。
意外だったけど、でも、お師匠様をより身近に感じるようになった。
そしてそれはきっと、セツナさんとクレハさんも。
「気持ちいですわねぇ、ミオちゃん」
隣で私と同じように湯船に浸かって寛いでいるクレハさんが、お猪口片手にそう言った。クレハさんはお酒が好きみたいで、かなりのペースで飲んでいる。
龍族ってお酒に強いのかな? もう徳利を五本くらい空にしているけど、全然大丈夫そう。
「ん~。美味しいですわね」
ほんのり顔を赤くして、クレハさんは「ほう」と熱っぽい息を吐く。お酒を飲んでいる時もこんなに色気が出るなんて……暗殺者って凄いなぁ。
「……お酒って、そんなに美味しいの?」
「えぇ、それはもう。気分が良くなりますし、何より酔った時の酩酊感が何とも言えませんわね」
そう言ってニコニコ笑いながら、クレハさんはお酒を飲んでいく。そんなに美味しいのかな? と思って徳利の中を覗き込むと、クレハさんが頭を撫でてきた。
「ミオちゃんはまだ十四歳ですから飲んではいけませんよ」
やんわりと窘められてしまった。
「そう言えばミオちゃんの誕生日はいつでしたっけ?」
「……ん。二月二十二日」
「あら、そうでしたの? わたくしと同じですのね」
「……クレハさんも、同じ誕生日?」
「そうですわよ。こんな偶然もあるのですわね。セツナさんの誕生日は……おや? セツナさんは?」
あれ? っと言われて初めて、セツナさんが湯船からいなくなっていることに気付いた。辺りを見渡してみると、湯船から少し離れたところ、男湯と女湯を分ける木製の柵を見詰めているセツナさんがいた。
体をタオルで巻いて、うんうんと唸っている。
「どうしたのでしょう?」
「……分からない」
何だか悩ましげな顔をしているけど、本当にどうしたんだろう?
「この高さの柵なら【身体強化】が無くても、あるいは……」
何だかブツブツ呟いている。
セツナさんの目的がよく分からず、私とクレハさんはお互いに顔を見合わせて首を傾げながらも様子を見ていると、しばらく柵を見て何事かを呟いていたセツナさんは何故か風呂場にあった風呂桶を集め出し、それを山のように積み上げた。
「よし! これで先輩のところへ突入できます!」
「何をしているのかと思えばそんなことを企んでいましたの!?」
セツナさんの言葉にクレハさんが驚きの声を上げたのも仕方がないと思う。私も、まさかそんなことをしようとしていたなんて思わなかった。
「だって昨日は先輩が来てくれるかと思っていたのに覗きに来てくれなかったんですよ? それに彼の言葉から察するに、向こうからアクションしてくることは皆無。ならこちらからアプローチするしかないでしょう!!」
「だからってやり方が直接的過ぎますわよ!! もうちょっとこう、気があるような素振りを見せるとか、そういったやり方で充分でしょう」
「あの朴念仁がそんな遠回りなやり方で気付くわけないじゃないですか」
自信満々に腰に両手を当てて胸を張って言うセツナさん。
……お師匠様、アナタがいない所で散々な言われ方しているよ。私もクレハさんも、セツナさんの言葉に反論はできないけど。
でも、よく考えればこれも必要なことなのかな? お師匠様の性格を考えれば、多少強引でもこっちを意識させる方が良いような気もする。
「ミオちゃんも何とか言ってくださいな!」
「……私も一緒に行った方が、良いのかな?」
「ミオちゃぁぁぁぁん!?」
何だか裏切られたような顔をされたけど、仕方がないと思う。お師匠様を落とすにはもっとガツガツ行かないとダメな気がするから。
そうこうしているうちに、セツナさんは積み上げた風呂桶を登る。ただ、数の問題で柵の半分までの高さまでしか上ることができない。どうするのかと思ったら、何とセツナさんはそこから素手で登り始めた。
「いざ先輩の元へ!!」
最早お淑やかさなんてなかった。
「バイタリティ溢れすぎですわ」
たしかに、セツナさんは皇女様なのに全然それっぽくない。あの行動力はどこから来ているんだろう。「皇女なんて立場は私には合わないんですよ」と前に言っていたけど、なるほどたしかにそうだと納得できる。むしろお転婆?
と、いつの間にかセツナさんは柵の頂上付近まで登っていた。向こう側が見えるまで後少し、というところで――
「先輩の裸体をこの目に――ふぎゃ!!」
スコーン! と軽快な音を立てながら、男湯から飛んできた風呂桶がセツナさんの頭に激突した。その勢いで仰け反ったセツナさんは真っ逆さまに落ち、積み上げた風呂桶を崩し、舞い上がったそれに下敷きにされた
「……っ!?」
「ちょ! セツナさん!?」
さすがにあの落ち方はマズい気がする。そう思って私とクレハさんは慌てて湯船から上がってセツナさんに駆け寄りましたが、その前にセツナさんは崩れた風呂桶から出て男湯に向かって叫んだ。
「ちょっと先輩! 何するんですか! 痛いじゃないですか!」
すると、向こう側にいるお師匠様が反論した。
「それはこっちのセリフだ! さっきから黙って聞いていれば言いたい放題言いやがって! ていうか普通に男湯を覗こうとするな!」
「だったら覗きに来てくださいよ! さぁ、カモン!!」
「カモンじゃねぇよ! 覗かないって昨日話をしただろうが!!」
「何ですか、この意気地なし!! こっちだって恥ずかしいのを堪えてアプローチしているんですよ!?」
「恥ずかしいって気持ちが湧くくらいの常識があるんなら止めろ!!」
「別にいいじゃないですか! 見たって減るもんじゃあるまいし!!」
「そういう問題じゃねぇんだよ!! 隙あらば貞操を狙おうとするのを止めろって言っているんだ!!」
「そんなの無理に決まっているじゃないですか!!」
「開き直るな!!」
柵越しで言い合うお師匠様とセツナさん。
発動体を持っていないから【身体強化】は使えないはずなのに、あんな高さから落ちても平気そうにしているセツナさんに唖然としながらも『口喧嘩していても、何だかんだで仲良いなぁ』とそう思った。
◇◆◇
「まったく、セツナは何を考えているんだか」
露天風呂での一悶着を終え、俺――雨霧阿頼耶はぼやいた。
覗きに来なくて文句を言ってきたと思えば、今度は男湯へ突入してくるとか……行動力があることは悪いことじゃないが、もうちょっと方向性を改めてほしい。とりあえず、風呂から上がったセツナは説教して部屋で反省中である。ミオとクレハはそのお目付け役だ。
「もう少し自重してほしいよ」
……いや、実は温泉って聞いて反射的に入浴姿を妄想してしまったし、期待値は上がったし、セツナが男湯に来ようとした時の反応は正直冷静ではいられなかったからなんだけど、それを言ったらセツナが調子に乗りそうなので言わないことにしよう。言わぬが花である。
今は夜風に当たるために、旅館浴衣を着た俺は一人で外を出歩いている。もちろん、というのもおかしいが、ないと落ち着かないし丸腰で出歩くつもりはないので腰には極夜も帯刀している。
俺と同じようにまだ外を出歩いている人は多い。私服姿なのは、まだ精霊祭を楽しんでいる人たちで、旅館浴衣を着ているのが俺と同じように温泉宿に泊まっている人たちだろう。
カランコロンと下駄の音を鳴らせながら歩く。祭囃子に誘われた精霊たちもまだ興奮が冷め切らないのか、あちこちでふわふわと浮いている。精霊相手にこんな言い方もどうかと思うが、仄かに光を放っているから街灯みたいになって夜道でも危なくない。
昼間は下位精霊ばかりだったが、夜になって人の気配が少なくなったからか、中位精霊の姿も見掛ける。
「火精霊、水精霊、風精霊、土精霊。他にも色々いるな」
さすがに上位精霊はいないようだが、鷲の姿をした精霊に、薔薇の精霊。あっちにいる金属質なのは鉄の精霊かな?
あんな精霊までいるのかと歩いていると、かさりと葉を擦る音が聞こえてきた。
「今のは?」
どこから聞こえてきたのだろうと思って辺りを見渡してみると、道の脇にある草むらの影に、小さな精霊がこちらを覗き込んでいた。
小さいな。これは……風精霊か? 髪も目も服も黄色で、着ている服は森をイメージしたティターニア女王とは違って風をイメージしたようなデザインだ。
しばらく風精霊を見ていると、草むらから出てきた彼女は俺と、ある方角を行ったり来たりした。それはまるで「こっちに来て」と言っているようだった。
「……」
一体何が目的なのかは分からないが、かといって断る理由も特に浮かばなかった俺は頷き、風精霊の後を追った。
風精霊に連れてこられたのは森都メグレズの外れにある森林地帯だった。森林地帯とは言ってもそれほど広いものではなく、アルフヘイム国内にあるから有害な魔物が出ることもない。出るとしても人を襲わない類の無害な魔物だ。
「ていうか、どこまで行くんだよ。かなり歩いたぞ」
先導する風精霊を追いかけつつ、思ったことを口にする。草を掻き分け、盛り上がった木の根を跨ぎ、流れる川に鎮座する岩の上を飛び越え、獣道ですらない道を歩いているが、一向に風精霊は止まろうとしない。
まだ目的地は先ということか。
肩を落として歩くことしばらくすると、何やら音が聞こえてきた。
「これは……」
ヴァイオリンの音か? 綺麗な音色だけど、どこかで聞いたことのある曲だな。どこで聞いたんだっけ?
静かで、心が落ち着くような、そんな鎮魂の曲は、風精霊が向かっている方角から聞こえる。
さらに奥へと歩みを進めた先に出た開けた空間を見て、俺は言葉を失った。
それなりに広い湖があるそこには、祭り会場よりも多くの精霊たちが集まっていて、思わず見惚れるほどに美しく幻想的な空間が広がっていた。妖精の庭園とはまた違った神秘的なこの光景をより美しくしていたのは、先ほどから聞こえる曲を奏でているヴァイオリニストの存在だ。
湖の畔でヴァイオリンを奏でるその女性の耳は森妖種よりも短い。ヴァイオリンを弾くのに邪魔になるからか、袖は七分袖で丈の長いワンピースという露出の低い清楚で質素な服装に身を包んでいる。精霊たちの放つ光に照らされる女性の翡翠色の髪はアップヘアー。同色の瞳はどこか物憂げで、しかし演奏を楽しんでいるようにも見える。
そんな彼女の姿を精霊たちが映し出し、ヴァイオリンの音色を通じて心を通わせているようなこの光景が、まるで一つの芸術作品のように思えた。
それを見ながら、俺はヴァイオリンを弾く女性の名前を口にする。
「セリカさん?」
聞き覚えのある鎮魂歌を奏でていたのは、あの半森妖種の女性――セリカ・ファルネーゼだった。
阿頼耶とセツナの言い合いって何だかんだで第一章以来な気がします。




