第1話 少年の日常、友人たちの想い
2016/4/9に内容を改定しました。
2019/5/3に内容を改定しました。
輝かしい学生生活を送れる者もいれば、そうでない者もいる。
俺――雨霧阿頼耶は後者の側の人間だ。特筆すべき点はないほどに特徴のない平凡な見た目に、学力も運動神経も平均並み。友人はそれほど多くなく、三人くらいしかいない。その三人しかいない友人も、俺がそう思っているだけで向こうがどう思っているか分からない。そういったレベルの、カースト最底辺に位置する男だ。
そんな俺は、人気のない放課後の校舎裏で仰向けになっていた。
もちろん、好きでこんな所で寝転がっているわけではない。つい先ほどまで、立川隼人という不良学生と、その取り巻きである工藤学、藤堂純、谷良哉の三人の、計四人からボコボコにされていたのだ。
何故って? 理由なんてない。昔からずっとこうだ。いつもいつも、あいつらは俺を見付けては殴って来たり、死んだ蜂を食わせようとしたり、汚水をかけられたりもした。
今日も、その『日常』の一幕に過ぎない。
「……痛っ!」
口の中を切ったのか、痛みが走って血の味がした。それだけではなく、体のあちこちも痛む。いつも殴られたり蹴られたりしているから体中に怪我が絶えないし、ガーゼで傷を塞いでいる個所もある。今は六月でジャケットも脱いでいるから薄着なのだが、幸いなことに血は滲んでいないみたいだから、傷口が開いたってことにはなっていないようだ。
とはいえ、制服のあちこちは汚れてしまっているけど。
もうこんな生活が、一〇年近く続いている。
始まりは小学校時代だ。
当時、立川にイジメられていたヤツを庇った。たったそれだけ。それだけだ。それだけのことで、イジメの矛先は俺に向いた。そこから一〇年もの間ずっと、立川は俺を標的にしている。
小学校だけでなく中学高校も同じ学校になるなんて……もはや呪われているんじゃないかと思うよ。
「……」
仰向けのまま、空を見る。青い空は呑み込まれそうなほど綺麗だが、俺には世界が汚く見える。世界はいつだって冷酷で残酷だ。
祈ったところで神は人を救わないし、世界の理の前じゃ人間はあまりにも無力。
結局、人を救うことができるのは人だけだ。
「……保健室、行くか」
痛む体を引きずるようにして、俺は手当てのために保健室へと向かった。
保健室には誰もいなかった。おそらく会議か何かで教師は席を外しているのだろう。
「仕方ない。自分でやるか」
扉を閉めて戸棚から包帯や消毒のアルコールやらを取り出した俺は椅子に座り、学校指定のシャツを脱ぐ。擦り傷や痣だらけで、ガーゼを貼っていて、見るからに痛々しい体が外界に晒された。
予想通り傷口が開いたなんてことにはなっていなかったが、ガーゼが取れかかっている。せっかくなので、ガーゼも取り換えることにした。
慣れた手つきでガーゼを取り換えて、あらかたの手当てが済んでシャツを着直したと同時に、ガラッと扉を開ける音がした。
「ん? 何だ、阿頼耶じゃない」
入ってきたのは、濡羽色の長髪を赤く細いリボンでポニーテールにした少女だ。
「委員長か」
彼女の名前は椚優李。俺と同じクラスに所属しているクラスメイトであり、俺の数少ない友人の一人。この学校で高い人気を誇るカースト上位の人物だ。
一七〇センチある俺と同じくらいという、女の子にしては高身長で、すらりとした体型をしている。切れ長の黒い瞳も相まって気の強い性格をしているが、面倒見が良いから委員長を務めている。
その整った顔立ちは綺麗系に分類されるが、勝気な性格だから告白してくる男子は少ないらしい。それでも何度も告白されているとか。それだけでなく、学力も学年トップクラスで運動神経も良いという、天が二物も三物も与えたような人物だ。
委員長をしているにもかかわらず剣道部にも所属しており、今も剣道着を着ていた。どうやら部活途中に抜けて来たらしい。
「怪我でもしたのか?」
「ただの打撲よ。大したことないわ」
こちらへ見せるように手をひらひらさせる彼女の右手には痣が目立っていた。女の子ならそういった怪我は嫌がりそうなものだが、当人はそれほど気にしていないようで、ケロリとしている。彼女は俺の傍を通り過ぎて戸棚を漁る。しかしすでに俺が使っていたので、そこに目当ての物はない。俺が彼女に消毒用アルコールやガーゼを差し出すと、無言で受け取って空いていた椅子に座って手当てを始めた。
彼女も彼女で剣道という怪我をしやすい部活をしているから、手付きは手慣れたものだった。
「先生は?」
「俺が来た時にはいなかった」
「じゃあ会議かしら?」
「たぶん」
素っ気ない短い言葉の応酬。傍から見れば喧嘩でもしているのかと思うような光景だが、別にそんなことはない。これが俺たちの、昔からの会話の形なのだ。
彼女と初めて会ったのは六歳の時。当時通っていた『夜月神明流』という古流武術の道場に彼女がやって来たのがきっかけだ。同年代ということもあってよく一緒に打ち合いをして、競い合っていた。ただ、六年前に俺は『ある出来事』を機に道場を辞めたけど。
彼女は委員長としての仕事や剣道部の活動もあるから毎日とはいかないが、今でも時間を見付けては道場へ足を運んでいるらしい。
「また立川たちにやられたの?」
自分の用事も終わったので退散しようかと思っていると、手当てをしながら委員長がそう聞いてきた。けれど、俺は無言のまま答えなかった。それを肯定と受け取ったようで、委員長はその鋭い視線を俺に向けて言葉を続ける。
「ねぇ、阿頼耶。今までずっと別の学校だったから、アンタと立川の関係性は高校に入ってからしか知らないけど、アンタは小学校の頃からずっと立川に殴られ続けているんでしょ?」
「……」
「どうしてずっとやられっぱなしでいるの? アンタなら、その気になれば立川たちを黙らせることくらいできるじゃない」
こちらを咎めるような声音には、しかしどこか俺の身を案じる色も込められていた。
「俺は男にしては力が弱いから。立ち向かったって返り討ちに合うのがオチさ」
「そんな話をしているんじゃないわよ。いくらでもやりようはあるでしょって言っているの。力が弱くたって、あれこれといろんな手を使ってどうにか問題を解決するのがアンタじゃない。私の時だって……」
「委員長」
彼女のセリフを、俺は遮った。押し黙った彼女を見て、俺は言葉を続ける。
「世の中、どうにもならないことの方が圧倒的に多いんだよ」
俺の場合はそうだった。
委員長の場合はそうじゃなかった。
それだけの話だ。
「心配してくれてありがとう。俺は……大丈夫だから」
「阿頼耶……!」
続きは聞かなかった。
俺は椅子から立ち上がり、保健室を後にした。
◇◆◇
部活が終わって、私――椚優李は友達二人と合流して駅前のファミレスに来ていた。
「相変わらずよく食べるわね、紗菜」
その友達の一人。私の隣でもう定食を三つも食べている少女――姫川紗菜を見て言う。
「そういう優李ちゃんは全然食べてないね。部活帰りなのにお腹空いてないの?」
「少なくともアンタよりは空いてないわね」
彼女は幼稚園の時からずっと一緒にいる幼馴染みで、私の親友。人懐っこく天然っぽい性格で、いつもニコニコ笑っている可愛らしい顔立ちから、学校でも一番人気のある子だ。運動こそ得意じゃないけど、学力は私よりも上で常にトップ争いをしている。
その人気の高さから告白された回数は数知れず、今日も数名の男子から告白されたとか。ちなみに彼女が所属しているのは文芸部で、漫画や小説の趣味が阿頼耶と似通っているのもあって、アイツとも仲が良い。
身長は私よりも低く小柄で、ハーフアップにしたセミロングの髪を私とお揃いのリボンで結っている。ついでに胸は貧にゅ――ゴホン! 慎ましい私のよりも大きいのが最大の特徴ね。
「だからってコーヒーしか飲んでねぇのもどーかと思うけどな」
私の言葉に反応したのは、もう一人の友達――岡崎修司だ。彼とは高校に入学してから出会った新顔で、阿頼耶とも高校入学時に知り合った人物。詳しくは知らないけど、二人の間に何かがあって、今ではお互いに親友と呼べるまでの間柄になっている。
短髪で粗野な口振りから不良のイメージが付き纏うけど、そんな見た目に反して仁義を重んじる性格をしている。
学力はいつも平均点を取っている阿頼耶よりも悪く、ほとんどの教科で赤点ばかり。けれど運動神経はずば抜けていて、高校二年生の現時点でサッカー部のキャプテンを務めているほど。
私を含めたこの三人が、私が知る中で阿頼耶と仲の良い面子だ。
「うっさいわね。別に良いでしょ。好きなんだから」
文句を言ってくる岡崎君に言い返しながら、砂糖とミルクでほんのり甘いコーヒーを口に含む。
「それで、いい加減食べるのをやめて本題に入ったらどうなの、紗菜?」
「ふぉれふぁもふろふ、ふぁりゃらふんのふぉふぉだりょ」
「口の中のものを食べてから喋りなさい」
全く、子供じゃないんだから。
指摘され、彼女はゴクンと飲み込んでから本題へ入った。
「それはもちろん阿頼耶君のことだよ」
阿頼耶のこと? それってもしかして……
「立川のやってるイジメのことか?」
私の予想を岡崎君が代弁すると、紗菜は頷いて肯定した。
「その議題で集まるのも今回で六二回か。よくまぁここまでやるな」
「それを言う岡崎君だって、毎回参加しているよね」
「ま、親友だからな。アイツがいつまでもあのままっていうのは納得いかねぇし」
「そうね。けど、実際どうするの? どうもアイツ、学生の間までは我慢するつもりみたいだし。私たちが話し掛けてもどこか辛そうな顔をするし。今日だって踏み込むなって言われたし」
笑顔を浮かべないわけじゃない。けれどその笑顔はどこか引き攣っていて、辛さが滲み出ているように見える。たぶん、本人は隠しているつもりなんでしょうけどね。
「それなんだよね。お昼休みに阿頼耶君を見付けて無理やり一緒にお弁当を食べたけど、ちょっと申し訳なさそうな顔をするし、ずっと黙っていた。まぁ、阿頼耶君は元々口数が多い方じゃないし、必要なことしか話さないから、それはいつも通りなんだけど」
私が部活の子たちと一緒にお昼を食べている間にそんなことしていたの?
しかも無理やりって……アイツが「しょうがないなぁ」って言いたそうな顔をしているのが目に浮かぶわね。
「一番穏便なのは……先生に言うことか?」
「でも真面に取り合ってくれないでしょ。教師たちってこういったことは隠したがるから」
「誰だって面倒事は御免だもんね。先生としてそれってどうなのって思わなくもないけど」
「仕事しろよって感じだよなぁ」
「仕方ないんじゃない? 教師からすれば、沢山いる生徒の一人でしかないんだし」
「だからイジメはなかったものにして見て見ぬふりってこと? 世知辛いなぁ」
言いながら紗菜は四つ目の定食を注文する。
ちょっと待ちなさい。アンタ一体どれだけ食べるつもりなわけ?
このままだとずっと食べていそうなので彼女からメニューを取り上げる。紗菜は少し不満そうな顔をしていたけど、もうステーキ定食も頼んだんだからそれで我慢しなさい。
「だいたい、阿頼耶も阿頼耶よ。立川なんかに良いようにされちゃって」
たしかにアイツ自身の言う通り、女レベルって程じゃないけどアイツは男にしては筋力がない。けれどそれを補うだけの技術力がある。アイツがまだ夜月神明流の道場に通っていた頃なんて、夜月神明流の技のほぼ全てをマスターしていた。
今もまだ通っていたなら、『目録』の私よりも遥かに上までいっていたと思う。
「阿頼耶の剣の腕がどれほどのものかは知らねぇけどさ。これって、腕っぷし云々で解決できるようなもんじゃねぇだろ」
「分かっているわよ、そんなことくらい。それでも、アイツがその気にさえなれば私はいつだって手を貸すつもりなのよ。それこそ、立川たちとやり合ったって良いわ」
「そんなことしたら、道場を破門されるんじゃねぇのか?」
「覚悟の上よ。それなのに……」
アイツは私たちを遠ざけた。
正直なところ、私たちは昔の彼について知っていることは少ない。小学校も中学校も別の学校だったし、道場での姿や、紗菜と本を読んでいる姿くらいしか知らなくて、それ以外のことはほとんど知らない。
彼は問題を抱えていた私や紗菜、それに岡崎君のことも救ってくれた。そんな彼がまさかイジメにあっているなんて露ほども思わなくて。だから私たちは、高校生になって同じ学校に通えたっていうのに一年も見逃してしまった。
気付いた時には、彼はもう独りになっていた。
「……まぁ、他にも北条の問題もあんだけどな」
「悪い人じゃ、ないんだけどね」
バツが悪そうな顔で言った岡崎君の言葉に、紗菜も遠慮がちに肯定する。
北条とは、私と紗菜の幼稚園時代からの幼馴染みで、フルネームを北条康太。
紗菜以上の頭脳に岡崎君以上の運動神経を持っていて、教師からの人望もある。何をやらせても人並み以上にこなせてしまい、これまで挫折というものを経験したことがない完璧超人。正義感が強く、その爽やかな顔立ちから女子からの人気も絶大に高い。
それだけなら別に害はないようにも思えるけど、実は厄介な男で、彼の正義感は独善的で性善説。誰かが悪いことをしたらそれをするだけの理由があると考えている。
だから立川のことに関しても「立川君たちも何か理由があってのことなんです。じゃないと非道なことなんてするはずがない。もしかしたら雨霧君が何かしたのかも」と本人たちの意見をガン無視して教師に説明している。
そのせいもあって、教師たちも真面に動いてくれない。
考えても考えても、有効な手段が思いつかないことに、私たち三人は「はぁ~」と深い溜め息を吐く。
「とりあえず、立川たちが阿頼耶に何かしている場面に出くわしたらどうにかするって感じか?」
「それしかないわね。場当たり的な対応なのが気に入らないけど」
「しょうがないよ、対抗策が浮かばないと何もできないもん。明日は阿頼耶君の誕生日だし、今日はこれくらいにして、プレゼントを買いに行こ?」
「「賛成」」
考える余地もなく紗菜の意見に賛同し、私たち三人はプレゼント選びのために街へ繰り出したのだった。
◇◆◇
自宅に帰って、夕飯やら風呂やらを終わらせた俺――雨霧阿頼耶は、部屋でのんびりしていた。夕飯の時に父さんと母さんに怪我のことがバレそうになったけど、どうにか誤魔化すことはできた。
ベッドへ横になり、深く息を吐く。自室にいる時が、俺の唯一とも言える安息の時間だ。
明日もまた学校。それを思うとドッと気が重くなるが、行かないわけにはいかない。
「…………大丈夫。俺はまだ、耐えられる」
両手で顔を隠し、自分に言い聞かせるように呟いた俺は、せめて気分だけでも切り替えようと机の上に置いていた本を手に取る。タイトルを見て、はてどんな内容だったか。
……そう。たしか、最近よく見かけるものだ。主人公が異世界に行って勇者になり、魔王から世界を救う。そんな内容だったはずだ。
「異世界、か」
もし異世界なんてものが存在するなら、そこなら俺は、また違う人生を歩めるだろうか。
勇者や英雄になんて興味はない。ただ、どうしようもない理不尽を前にただ泣くことしかできない誰かを救うことができるなら、俺は何だっていい。
そう思いつつ、俺は眠りについた。