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女神  作者: 勝目博
9/13

不安

亮二の故郷での楽しいひと時。しかし、初めて会った弟は、不安に顔をしかめるのだった。

翌朝は雪だった。積もりそうな雪ではない。今年最後の雪だろう。母はそう言っていた。弟は学校に行くまで、亮二から離れなかった。しかし、母も弟も病気のことには、一切触れず他愛のない話に笑っていた。ただ、学校に行くときは、じっと亮二を見つめ小さく頷いてから飛び出して行った。亮二は今日、帰るのだ。3,4日ゆっくりするつもりだったが、冬がいる。3日もホテルに泊まらせるわけには行かなかったのだ。かと言って、亮二の家では落ち着かないだろうし、第一、布団を敷くスペースがないのだ。雑魚寝でよければ問題ないが、冬に雑魚寝はさせられなかった。東京に戻る前に、上の弟も会っておきたかった。母から詳しい場所を聞き、こっそり会いに行こうと決めていた。もちろん冬を連れてだ。亮二は最後に、母を抱きしめた。割ぽう着姿の母も亮二を抱きしめた。しかし、母は何も言わなかった。母も仕事だ。二人は揃って家を出た。母は漬物工場で働いている。そこで三人を育てたのだ。それこそ、亮二や上の弟がいるときは、掛け持ちで働き、家族の面倒を見てきた。その苦しい生活の中からでも、亮二のためにせっせと蓄えていてくれたのだ。「絶対に元気になる」あらためて亮二は心に誓った。

 「おはよう」今日の冬は一段と美しく見えた。

「おはよう、亮二さん」はにかむ笑顔が、朝の日差しにも負けないほどに輝いていた。「この人は僕のものだ」亮二はあらためて思った。昨夜のことは夢ではない。冬の態度がそう確信させた。亮二の手をぎゅっと握り、寄り添う髪からは、昨夜と同じ匂いが鼻をくすぐった。

「今日の予定は」冬が聞いた。

「今日は帰るよ」

「そう・・・。帰るのね」冬は寂しそうに答えた。

「でも、その前に、弟に会いに行きたい。冬も来てくれる」

「ええ、もちろん一緒に行くわ」冬は元気を取り戻したようだ。時間的には、ランチタイムの遅い時間に行きたかった。あまり忙しい時間では、顔も見れないのでは、と思ったのだ。その為に、時間つぶしが必要だった。亮二の故郷には、これといった名物もない。しかし、有名ではないにしても、城跡があり、蕎麦は美味しかった。まだ雪は止まないが、傘を差すほどでもない。二人は城跡に向かって歩き出した。冬は東京にいるときよりも、嬉しそうだった。そう見えただけかも知れないが、昨夜のこともあり、亮二の心は幸せで一杯だった。城跡と言っても、堀と石垣、小さな資料館があるだけだったが、冬は心から楽しんでいるようだった。資料館の展示物を見ては、亮二に質問し、屈託なく笑うのだ。この時期の観光は珍しい。それでも、珍しさ以上に冬は皆の視線を集めていた。ここでも冬は、注目の的だった。ただ美しいだけではない。惹きつける何かを持っているのだ。それが亮二には判らなかった。亮二も惹きつけられた一人には違いない。だが、それとは別の何かだ・・・。驚いたことに、冬は初めて蕎麦を食べたらしい。

「美味しい、美味しい」と喜んでいた。作る過程の実演でも、冬はじっと職人の手先を見ていた。可哀相なのは蕎麦職人だった。冬に見つめられているせいか、所々でミスを犯した。生地を練る過程では生地を落とし、蕎麦生地を切るときには、とうとう自分の指まで切ってしまったのだ。亮二は冬の手を取り、逃げ出した。亮二は笑っている。冬には逃げる理由が解らない。不思議そうに亮二を見る冬も、亮二の笑いにつられ、笑い始めた。

「何で笑ってるの」笑いながら冬が尋ねた。

「あの、蕎麦職人さ。すっごい緊張してたみたい」亮二も笑いながら答えた。

「そうなの、何で?」冬は気が付いていない。それが冬の良さであり、魅力の1つでもあった。

「そろそろ、行こうか」亮二が言うと、冬は頷いた。隣県の最寄り駅までは1時間ぐらいだ。今から行けば、2時頃前には弟の店に着く。丁度いい時間だった。亮二の田舎よりもはるかに都会的な町だ。子供の頃には何度か来たが、すっかり近代的になり、駅も大きく綺麗になっていた。その新しい駅ビルの8階で弟は働いていた。洋食レストランのコックだ。予想通り、レストラン街は人影もまばらだった。月曜の昼である。買い物客もまばらなのだろう。弟の店も空いていた。メニューを見て、冬は驚いていた。

「こんなに種類があるの」冬の店には数える程度のメニューだが、ここには前菜から始まり、飲み物に至るまで、多くののメニューが載せられていた。ランチメニューも豊富に揃い、6種類の中から選べる仕組みだった。亮二も美味しく感じた。この中のどれかを弟が作っていると思うと、余計にそう感じたのかも知れない。ここでも冬は注目を集めていた。まばらな客も従業員も、冬の動きに注目を向けていた。冬も美味しいと食べていた。食事が終わり、亮二は従業員に弟のことを尋ねた。もうお客はほとんどいない。程なくして弟が現れた。コック服にコック帽、どこから見ても立派なコックだ。誰だろう、とそんな顔で現れた弟だが、亮二の顔を見た途端、大きな笑顔がこぼれた。

「兄貴」弟は亮二に抱きついた。うれしいと同時に大層驚いた様子だった。

「どうしたの、いきなり。元気だった。うれしいな」言葉は後から後から湧き出した。

「昨日は悪かった。仕事が遅番でさ。でも来てくれるなんて、本当にうれしいよ」弟とも三年振りだ。亮二も嬉しかった。

「時間あったら座れよ。紹介したい人もいるし」亮二の言葉で、弟は始めて冬を見た。その途端、弟は固まり動けなくなった。冬は笑って見ている。

「おい、どうした。座れよ」亮二の言葉で、弟は我に返った。

「うん、もう暇だから、少しは座れるよ」そう言って亮二の隣りに腰をおろした。

「こちら、冬さん、婚約者だ」亮二はそう言いながら真赤になった。冬は笑って手を差し出した。

「よろしくね」差し出された手を握り、弟はさらに硬直した。

「明です。よろしく」それが精一杯の答えだった。亮二は母が冬を気に入ったことや、東京での生活などを明に話した。明もこの三年の出来事でなどを亮二に話した。その間も、明は何度も冬を見た。冬は二人の会話の邪魔はしなかった。笑い、頷き、感心する。それ以外は会話に参加もしなかった。二人の時間を無駄にはしたくなかったのだ。しかし、亮二は病気のことは話さなかった。折を見て母が話すと思ったからだ。余計な心配はさせたくなかったのだ。

「じゃあ、また来るよ。お前も機会があったら、東京へ来いよ」二人は肩を叩きあい、そして明は仕事に戻っていった。ただ最後に、亮二の気になることを、一言残していった。「本当に結婚するのか」である。もちろん冬には聞こえないようにだ。亮二にはその意味が理解できなかったが、「もちろんするよ」と答えた。「そうか」明は首を傾けそう答えた。顔には不安さえ窺えた。明の冬に対する反応は、母や下の弟とは違っていた。みんなは、釘付になるほど冬を見たのに反し、明は妙によそよそしかった。人見知りな性格ではない。むしろ、下の弟よりも社交的だ。ところが、冬にはどこか他人行儀な振る舞いだった。冬の美しさに圧倒されたのか、眩しくて見れなかったのか、理由は解らないが、亮二はそれほど気にも掛けなかった。東京行きの切符を買うとき、冬がため息混じりに呟いた。

「亮二さんにの田舎で待ってようかな」

「えっ」亮二は驚いた。冬は何を待つと言うのか、それが理解出来なかった。病気のことも手術を受けることも、冬にはまだ話してはいない。知っているはずはないのだ。

「ううん、なんでもないの」冬は気を取り直して腕を絡めた。しかし、東京が近づくにつれ、冬は言葉を発しなくなった。それどころか、元気も失っていった。

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