人の情
思いがけない亮二の秘密。触れは人情。
日も暮れかけたときに、二人は冬の店に戻った。
「今日は、ありがとう。とっても楽しかったわ」夕日を浴びて真っ白な冬が朱に染まった。
「ううん。僕のほうこそ楽しかった。またどこかに行きたいな」亮二の答えに、冬はうつむいた。
「そうね・・・、行けたらね」
「えっ」亮二は冬の、言おうとする意味が判らなかった。
「ううん、何でもないの。また来てくれる?」満面の笑みを浮かべて、冬が尋ねた。
「もちろん。絶対に来るよ」亮二はさっきの言葉は忘れていた。満面の笑顔にかき消されたのだ。
「待ってるね」冬は、亮二におやすみのキスを頬にした。一瞬、我を失った亮二だが、家に向かう冬を引き寄せ、亮二は唇を重ねた。冬も亮二のキスに答えてくれた。夢中だった。亮二の気持ちは、完全に冬に支配されていた。これは亮二が望んだことでもあり、誰に恥じることのない感情だった。夕日が二人を暖かく包み込んだ。長い、時間を忘れるほどに長い時間キスを交わした二人は、名残惜しそうに分かれた。亮二は冬の姿が見えなくなっても、しばらくそこにたたずんでいた。見上げた窓に電気が灯った。既にあたりは真っ暗だった。亮二の心は躍っていた。実際に身体も踊っていたのだ。踊りながら坂を下り、亮二は渋谷の駅に着いた。ところが、踊っていた心の鼓動が、急に激しく脈打ちだした。その鼓動はどんどんと早くなり、やがて亮二の胸を締め付け始めた。「苦しい」亮二は、初めて身体の異変に気が付いた。意識はどんどんと身体から離れ、暗い谷間に吸い込まれて行った。
亮二の意識が戻ったのは、病院のベッドだった。ベッドを囲んだカーテンと消毒液の匂いが、その事を亮二に教えていた。少しは胸の痛みは収まったものの、起き上がることは出来なかった。人の足音、となりで咳き込む声、かすかに聞こえる話し声。そのうちの足音が、亮二の所へ近づいた。カーテンが開かれ看護士が顔を覗かせた。亮二に気が付くと、看護士は笑顔を浮かべて話しかけた。
「大丈夫ですか。どこだか分かりますか」優しい笑顔の看護士だ。亮二は言葉を発せられなかった。口の中はカラカラに乾き、唇が腫れ上がったように重かった。
「いいですよ。今、先生呼びますから」看護士は、カーテンを閉めて立ち去った。しばらくすると、数人の足音が聞こえてきた。カーテンが半分ほど開かれ、先ほどの看護士と、医師と二人の看護士が現れた。先ほどの看護士は、注ぎ口の伸びた急須みたいなものに、水を入れて持ってきたくれた。
「ここが分かりますか」医師が尋ねた。口が潤ったせいで、亮二は話が出来た。
「僕は、倒れたのですね」亮二は理解していた。
「そう、意識を失い、ここに運ばれました」医師はカルテに目を落とし、話を続けた。
「身内に、心臓の悪い人はいますか」その言葉で、亮二は胸の苦しみの意味を知った。
「おそらく父でしょう。若いときになくなりました」亮二の言葉は落ち着いていた。
「貴方も、心臓に欠陥があります。おそらく手術が必要になるでしょう。ご家族はどちらにいますか」
亮二は医師の質問に答えなかった。田舎の母を思い出していたのだ。
「僕は、退院できますか」
「ええ、痛みが取れれば大丈夫ですが、早急に手は打ったほうがいいでしょう」医師は明らかに怪訝な表情を浮かべ、亮二に答えた。
「すいません。母には会って話したいので」
「それが、いいでしょう」亮二の気持ちを察して、医師は快く答えた。
翌朝、看護士から退院の許可を受け取った。今日一日問題がなければ、明日の退院が出来るそうだ。亮二は会社に連絡を入れた。課長はしばらく黙っていたが。やがて口を開いた。
「とにかく今は、養生に専念してくれ。足りないものはないか。何かあったら、すぐ連絡しろよ。看護士にも、ここの番号、教えとけよ」ぶっきらぼうに言い放つ課長だが、優しさは十分に亮二に伝わった。
亮二は翌日退院した。沢山の薬を渡され退院したのだ。亮二は母に電話を掛けた。
「えっ、日曜日かい。夜?そりゃ構わないよ。お前の家さ」亮二は電話を切った。病気のことは一言も言わなかった。亮二が夜を選んだのは、その前に、冬に会っておきたかったからだ。もし、手術でも受けることになったら、しばらく会えない。冬には言っておきたかったのだ。亮二は退院した足で、レコード店に向かった。ここも来れなくなるかもと思ったのだ。
「お〜久しぶり。何かあったのか」店長の気さくな人柄がにじみ出た言葉だった。
「え〜、ち、ちょっと・・・」亮二の異変に店長は気が付いたが、その事には触れなかった。
「そうそう、君が来ないから、どうしようと、思ってたんだ。いいのを、取っておいたよ」年末の話を亮二は思い出し、差し出されたレコードを手に取った。以前からほしかった一品で、なかなか流通しない名盤だった。亮二は声に出して喜んだ。
「ありがとうございます。うわ〜うれしいな。ずっと探していたんです。へ〜」
「1000円でいいよ」店長はあっさりと答えた。
「えっ、1000円?」亮二は思わず聞き返した。どこに行っても数千円以上の値段が付いていたのだ。
「でも、1000円じゃあ・・・」
「あ〜ここ。ほら、ここに傷があるでしょ?しょうがない。だから1000円でいいんだ」店長の触ったところには、確かに傷があった。しかし、レコードジャケットの隅に付いた小さな傷で、価値的には何の問題もないはずだった。
「その代り。また、来ること。それが条件だ」店長は方目を瞑った。亮二は流れ出そうになった涙を必死にこらえた。1000円を渡し、亮二は店を出ようとした。すると、後ろから店長が話しかけた。
「何があっても、また来ること。忘れるなよ」
「はい」亮二は店から飛び出した。涙が流れるのは分かったが、そのまま亮二は走り出した。店長には分かっていた。顔色の悪い亮二を見て、何かの病気だと確信したのだ。彼もまた幼いわが子を、病気で失った経験を持っていたのだ。
亮二はアパートのベッドに寝転び、天井を見上げていた。買ってきたばかりのレコードが、亮二の心にしみ込んでいく。胸の痛さはまったくない。音楽を聴きながら、亮二の目からは涙が流れた。何度も怒られた課長の優しさ、店員と客との関係を越えた店長の優しさ、思い出すだけで溢れる涙を抑えられなかった。はたして冬は、亮二の話を聞いてなんと言うだろう。話さないほうがいいのか。亮二は悩んでいた。日曜は、あと数時間で訪れる。




