冬
珍しく、亮二の寝起きは爽快だった。窓から射す朝日は、カーテンの隙間をぬって亮二の顔を容赦なく照らした。一瞬、眩しいとは思ったが、冬の日差しは意外に優しかった。目を擦り、目覚まし時計のアラームを止めたが、設定した時間よりも20分は早かった。不思議と眠気はない。いつもならば、何度もアラームを止めて、ようやく起き出す亮二だが、得した気分に心が弾んだ。その時、何かの予感を感じたのだ。それが何かは、分からない。出会いなのか、吉報なのか、はたまた宝くじでも当たるのか、良い予感なのかさえ分からなかった。しかし亮二は思った。こんなに良い気分は初めてだ。きっといいことが待ってるぞ、と。今日は日曜。亮二にとっても、週に一度の休日だった。一週間働いたんだ、美味しい物でも食べに行くか。週に一度の休日でも、ほとんど家でゴロゴロ過ごす亮二は、予感のこともあり、出かけることを決めていた。家にいては、何も起きない。そう思ったのだ。シャワーを浴びて、トーストだけの簡単な朝食をとり、お気に入りのコートを羽織って亮二は家を出た。12月も半ばを過ぎ、寒さも本格的になって来る頃だが、今日は春とも言える暖かさだった。亮二のアパートは住宅地に建っている。小さなアパートだが、静かで最寄の駅も近かった。ゆっくり歩いても10分程度。その間亮二は、家々に飾られた、イルミネーションに見とれていた。もうすぐ、クリスマス。しかし、亮二には一緒に祝う彼女もいない。家族も遠く離れた地で暮している。この三年、寂しいクリスマスを過ごしてきたのだ。高校を出た後、亮二は今の会社に就職した。大学に行く学力は十分にあったが、亮二の家庭は母子家庭。経済的に苦しい母に、大学に行きたいとは、言えなかったのだ。しかも、亮二には2人の弟も居たのだ。生活の苦しさを、少しでもやわらげたいと、亮二は遠く離れた会社に就職を決めた。母は、そんな亮二の手をとり、ごめんねと、一粒の涙を流して送り出した。毎月仕送りしながらも、亮二は趣味のレコードを、
買い続けた。CDではない、レコード盤のジャズ音楽。確かに、CDの音は良いと認めてはいたが、時代の風が感じられずに、レコードの音に魅了されていた。月に一枚。亮二は決して無理はしなかった。少しでも余裕があれば、仕送りとは別に送っていた。今月分はまだ購入していない。そこで亮二は、行きつけのレコード店へと行き先を決めた。電車で7駅。渋谷の街は、若者で賑わっていた。日曜のせいもあって、家族連れも多く、一人歩きの亮二は、かすかに恥ずかしさを感じた。若者のほとんどがアベックか、グループなのだ。亮二はもてない訳では決してなかったが、入社と同時に同級生の彼女と別れたのだ。
今の会社には若い女子社員はいない上、残業も多く出会いがなかった。上の弟も学校を卒業した今、あらためて寂しさを感じていた。道玄坂を登っていくと、右に曲がる横道がある。その道を曲がって15mほど行くと、小さなレコード店があるのだ。長細い店内は、お客が三人でいっぱいになる。それでも、天井まで飾られたレコードは、マニアの喉を鳴らしていたのだ。
「おう、また来たね、いらっしゃい」50は越えていると見える店長は、毎月欠かさずにやってくる亮二を、しっかりと覚えていた。
「今日は、何をさがしてるの?」
「まだ決めてないです。いいのがあればと思って・・・」そう言いながらも、亮二の心は予感に動かされていた。もしかしたら、秘蔵のアルバムが手に入るかも。そう思っていたのだ。
「う〜ん、珍しいものは手に入ったのだが、状態がわるいのさ。君は結構うるさいからね」亮二の音へのこだわりも、この店長は把握していた。
「君好みの一品はないな。来週来てごらん。年末の最終入札でいいのが入るかもよ」
「ありがとうございます。じゃあ、来週来ます」亮二がこの店を気に入った理由の一つがこの店長の人柄だった。無理に売りつけようとはしないのだ。いいものがない時は、はっきりと言ってくれて、お客の好みを理解していたからだ。どうやら、レコードに関する予感ではないようだ。亮二は困った。ほかに当てがなかったのだ。かと言って、このまま家に帰ってしまったら、折角の予感が台無しになってしまいそうに思えた。仕方なく、ちょっと早めの昼食をとることにした。しかし、いつもと同じラーメン屋では、予感とは無縁に思え、少しはお洒落な店に入ることにした。ところが亮二はこの街を知らない。レコード店と、道すがらの店しか知らないのだ。それこそ有名なセンター街さえ、行ったことがない。天気もいいし、予感もある。亮二は渋谷の街の探検に出かけることにした。亮二は駅前へと戻った。そして、忠犬ハチ公の前で全ての方向に目を向けた。どちらに行けばいいのか、必ず予感がすると思ったのだ。今降りてきた道玄坂、有名デパートの本店通り、センター街に代々木方面。ところが、どちらに向いても何も感じない。何も心に響かないのだ。おかしいな、と思いながら、ぐるっと振り向いたその瞬間、亮二の胸に衝撃が走った。線路を越えた宮益坂方向に、何かが待っていると思えたのだ。まるで、手招きで呼ばれたようだった。線路を越えると、並木通りが空にも続くように上っていた。予感は確かにこっちからだった。はじめてみる風景に、心弾ませ亮二は坂を上り始めた。ふと見ると少し先に小さなイタリアンレストランの看板が見えた。わき道を2つ越えた角だった。よしあそこに入ろう。そう決めて、歩く速度を速めた。亮二はレストランで、素敵な人とめぐり合う予感を感じていた。いや、そう思い込んだのだ。ところが、1つ目のわき道を越えたとき、心浮き立つ予感がぷっつりと途切れたのだ。途切れた音が聞こえたと思うほどはっきりと感じたのだ。あれっと思いながら2,3歩戻ったときに、またも予感が踊りだした。はっきりと心の中で踊りだしたのだ。そこは丁度わき道の真ん中だった。そうか、予感はこっちからか、と亮二はわき道に折れた。ところが、レストランはおろか、店舗もないのだ。どうやら住宅地のようだが、小さな家と数軒と駐車場しかなかった。それでもしばらく歩いていくと、住宅の一階を店舗にしたレストランがあった。亮二は迷わずその店に足を踏み入れた。店内には4つのテーブルが置かれていたが、お客は誰もいなかった。時間は既に12時を回っている。一番混む時間帯のはずだが、誰もいないのだ。ちょっと離れているからな。亮二はそう思い席に着いた。驚いたことに店内の壁には、数々の名盤ジャズレコードが飾られていたのだ。しかも、そのどれもが新品と言ってもいいほどの保存状態だった。50年代から60年代のレコードには、カバーすらかけていない。どうやって保存したのか、見当も付かなかった。
「いらしゃいませ」亮二が壁を驚きの眼で見るうちに、いつの間にか隣に女性が立っていた。亮二は慌てて頭を下げた。そして、その顔を見た時、2度目の衝撃が亮二の胸を貫いた。歳は亮二と同じくらい。目は二重で大きく、鼻筋もしっかりとおり、小ぶりの口は柔らかそうな厚みを持っていた。まったくの好みなのだ。亮二の思い描く理想の女性だったのだ。予感はこの事だと、亮二は確信を持った。
「何にしますか?」亮二から見たら女神とも思える女性は、小さなメニューを差し出した。出された水を飲み干し、亮二はメニューを受け取った。
「お決まりになったら呼んで下さい」女神は亮二の席から離れていった。亮二はメニューを見る振りをしながら、女神の行動を眺めていた。この家の娘だろうか。一生懸命にスプーンやホークを磨いている姿は、亮二の心を確実に溶かし始めていた。亮二の視線に気がついたのか、女神は僅かに笑みを浮かべて、亮二の席に向かってきた。
「お決まりですか?」亮二は慌ててメニューを、指差した。
「ハヤシライスですね」咄嗟に指を差したはいいが、亮二はハヤシライスがどんなものなのか判らなかった。しかし、そんなことはどうでもよかった。
「はい」小声で返事をしたが、亮二の興味は女神だけに向けられていた。味なんかわからない。とにかくゆっくり、女神を見ながら亮二は綺麗に平らげた。しかし、言葉をかける勇気を亮二は持ち合わせていなかった。翌週、亮二はレコード店には向かわずに、まっすぐと女神のいる店へと向かった。やはりほかにお客はいない。知り合いになるチャンスでも、結局は亮二は話しかけられなかった。それから、毎週その店に通うようになったのだ。年も明け、2月も終わりになる頃、やっと亮二は話しかけた。
「す、すごいコレクションですねえ」亮二は壁のレコードを指差し尋ねた。
「亡くなった、父のものです」女神は優しく答えた。
「すいません、変なこと言って・・・」
「いいのですよ。もう、昔の話ですから」女神の髪を書き上げる仕草に、亮二は我を忘れそうになった。
「でも・・・」女神が言葉を閉ざした。
「でも、なんですか」亮二は焦った。一瞬嫌われたのではないかと思ったのだ。ところが女神は笑い出し、亮二を見つめて呟いた。
「やっと、話掛けてくれましたね」
「えっ」亮二は自分の耳を疑った。
「なかなか話しかけてくれないから、内心、心配だったの。嫌われてるのかなって」
「とんでもないです。恥ずかしくて・・・」亮二の顔は真赤になった。
「本当!嫌いじゃない?」女神は亮二の顔を覗き込んだ。女神の息使いが目に見えるような近さだ。亮二は慌てて首を振った。
「本当です。す、好きです」亮二は、はっきりと自分の思いを伝えることが出来た。それからも毎週亮二は通い、女神との仲は深まっていった。女神は冬と名乗った。冬に生まれたのが理由らしい。父はいない。母と二人で切り盛りしているそうだ。しかし、不思議と母の姿を見たことはなかった。キッチンにいるとしても、いつも無人の店ならば、一度くらいは見かけても、良さそうに思った。ところが、声さえ聞いたことがなかったのだ。反面、冬との時間を邪魔されずに済んでいたのも事実だった。




