再び海に出てみたものの
二度目の出航で、大きな問題が二つほどあった。
一つは、舵が全く利かないということ。
どうやら勝手にどこかに向けて動いているらしい。これについては昨日のうちに気がついた。碇をあげると何をするでもなく勝手に動き出したのだ。舵が自動的に動き、止めようとしても止まらない。まるで幽霊船に乗って、見えない幽霊が舵を取っているような雰囲気だ。自由が利かないということが分かった時点で、既にどうすることも出来なかった。
俺が泳いで戻る分には問題ないかも知れなかったが、お嬢様には無理だと判断した。
というわけで、仕方がないから流れに身を任せることにしたのだ。
そして、もう一つの問題は……。
「どうしてこんなに食材が詰まってるんですか?」
行き当たりばったりで出航に至ったとは思えないくらい、食材がしっかりと用意されていたのだ。
一晩を船の上で過ごして、朝食の準備をしようと思い調理場を物色した。そこで初めて、食材のことを全く気にせずに出てしまったことに気がついたのだが……。日持ちのするものから、買ったばかりと思われる野菜や肉、魚。しっかりと保冷までされている。
「あんた、昨日少しの間家から出たのは、この準備の為か?」
もちろん、本気で聞いたわけではない。ただの確認だ。それが分かっているのか、ツェットは笑っている。
「まさか。一体何の為に俺がんなことしなきゃなんねぇんだ」
「確かに……」
だが、お嬢様がこれほど大量な食材をあの短時間で運び込めるはずがない。
じゃあ、一体誰が……何のために……?
「昨日の海賊たちが、この船を奪うつもりで乗せてたんじゃない?」
夜襲の後、本体の船とこの船の二隻に分かれて出て行こうと思っていたのでは、とお嬢様が言う。
今日は割りと冴えてるな。
更に考えてみれば、船室にはそれなりに衣類が用意されており、着替えにも困らない充実振りだ。
「そうか、その可能性があるな……」
「お嬢様を捕まえようとしていた海賊二人も、あの船の見張りだったとしたら納得できますね」
「まぁ、食料があって良かったじゃねぇか。早く朝飯食おうぜ」
食おうぜといって、自分で用意するつもりはないらしく、そのままテーブルに座っている。それにならって、お嬢様も席についた。
必然的に俺が用意することになる。
「簡単に作るだけですからね?」
そういって、まずはパンを切っていく。
「あたし卵食べたい!」
「はいはい」
「いいな、俺も」
「はいはい。干し肉は要りますか?」
「食べる!」
「俺も頼む」
はいはいと返事をして、手を動かす。
折角あるのだからと、サラダまで用意して朝食を食べた。卵の調理方法で文句を言われたが、そんなことは知らない。
そして、満足したところで今後について話をする。
「で、この船はどこに向かっていると思う?」
船室にあった地図を広げて、ツェットに聞いた。
様々な地図が散らばっていて、この海域の地図を探すのに苦労したが、ざっくりと広範囲に描かれている地図とこの船が向かっている小さな島々が密集する部分だけを拡大して載せている地図の二種類を見つけることができた。
「恐らくだが、ここじゃねぇかな」
拡大地図の一点を指してツェットが言う。
「何故分かる?」
「この船の持ち主が根城にしてた島だからさ」
だが指をどけたそこには、島なんて描かれていなかった。
「ホントに小さな島だからな」
「行ったことが?」
「まぁ……そうだな」
「そうか。ちなみに、どのくらいかかるんだ?」
「あー、何も無ければ三日ってところか」
「それなら、先のことはその島についてから考えるか」
「……そうだな」
なんとなく歯切れの悪い返事が気になったが、それ以上にお嬢様が黙っていることが気になった。
普段のお嬢様ならば、どんな島だとか宝はどのくらいあるとか、そんな質問を飛ばしてくるはずだ。
気になって、大人しく座っているお嬢様を見れば、少し顔色が悪い。
「お嬢様、大丈夫ですか? 少し顔色が……」
「だ、大丈夫よ! なんとも無いわ」
「嘘ですね。頭が痛いなら脱水症状の可能性がありますよ。水ならキッチンにありますから……」
「大丈夫だって! ちょっと風に当たれば良くなるから」
「気をつけてくださいね」
「分かってるわ」
どこか覚束ない足取りの後姿を見送って視線を戻すと、ツェットが面白いものをみるような顔をしていた。
「何だ?」
「いや、大事にしてんなぁって思ってさ」
「当然だ。俺は執事兼教育係だからな」
「本当にそれだけか?」
「それだけ、とは?」
「いや、何でもない」
言いたいことは何となく察したが、知らないふりをしておく。恩人の娘さんだから、どんなに――そう、どんなに理不尽なことがあっても、我侭を言われても、海の藻屑にならないかなと思っても、大事にする。
それが、執事兼教育係の仕事だ。
そういえば、旦那様は今頃どこにいるんだろうか。
必死にお嬢様を探しているだろうか。
屋敷のある陸地からはかなり遠ざかってしまったし、現在進行形で離れている最中でもある。
俺は、帰ったらどうなるだろう。
二度と家には入れてもらえないどころか、最悪島流しだ。
何が何でもお嬢様を無事につれて帰らねば!
密かに決意を新たにしている傍で、小さな破裂音がした。
「おっと、失礼」
ツェットの言葉の後に、鼻をつく臭い。
一言で言えば、くさい。
「お前、臭うぞ」
「だから失礼って言っただろうがよ」
「言えばいいってもんじゃないだろうが」
「んなちっせぇこと言うなよ。最近腹の調子が悪くてなぁ」
全く悪びれもしない男に握った拳も力を失った。もう呆れるしかない。
「お嬢様の前では絶対にするなよ」
「昨日笑ってたぜ?」
「そういう問題じゃない」
お嬢様の前でも同じように堂々としたのか……。
というか、昨日? 昨日っていつだ?
「お前さんが湯浴みしてる時だよ」
「……もういい」
声に出す前にツェットに答えられ、あぁ確かに楽しげに話していたなぁと思い返す。あの時はまさか翌日には船の上にいるなんて思っても居なかった。
船に乗りたいと駄々を捏ねるお嬢様を宥めているだろうくらいにしか考えていなかった。
あの町はどうなっただろうか。というか、あの海賊たちはこの船を追いかけているのだろうか。
「そういえばお前さん、よくあの海賊振り切ってこれたな」
ツェットも同じことを考えていたらしい。
言われて昨日の夜のことを思い出す。
「あれは、どこからか現れた緑の髪の女が逃がしてくれたんだ」
「緑の髪?」
「あぁ、夜だったが確かに緑の、珍しい色だった。剣を扱いながらだったから顔までは見えなかったが、強かった」
「ははぁ、俺はてっきり兵団が到着したんだと思ってたが、そうきたか」
「知り合いか?」
「まぁ、そうだな」
「俺のことを知っている口ぶりだった」
「……そうか」
恐らく、この話はここでやめておくべきなんだと思う。勿論、俺の記憶を戻さないために。
だが、気になる。
「そいつは……」
「ちょっと待った!」
「……」
「確認したいんだが、お前さんは記憶を取り戻したいと思ってるのか?」
「いや……」
思ってない。全く思っていない。
だが……もう言葉すら記憶の彼方に消えてしまったが、この船に乗りこんだときに浮かんできた名も知らぬ女の正体が気になるのだ。
ひょっとしたらその名も知らぬ女があの緑の髪の女と同一人物なのかもしれないと思っただけ。
記憶を取り戻したいわけではない。
それをそのまま伝えると、ツェットは太くて短い腕を組んで唸った。
「同一人物かは、その話だけじゃ分からんが……思うに俺から何かを聞くのはやめたほうがいいんじゃねぇか?」
「……そうだな」
「そうさ。昔の俺の相棒は忘れたがってたんだ。『俺のことは死んだものと思え』って言ってどこかに消えていきやがった。俺はその意思を尊重したい」
「俺も記憶を取り戻したいわけじゃないしな」
そうだろ? とツェットは笑った。
そうだ、忘れたものは忘れたままでいい。
女については気になるが、無理に聞いて情報を得ても結局俺にとっては知らない女のままなのだ。
「それにしても、お前さんが女の話をしたなんて聞いたらあの嬢ちゃん、海に飛び込むかもな」
「そんな訳ないだろう」
「あーぁ、嬢ちゃんも可哀想に」
まだ何か言っているツェットは無視しておく。
そういえばお嬢様が戻ってこない。少し風に当たってくると言って出て行ったが、まだ気分は悪いのだろうか?
「遅い」
「んあ? そういやそうだな」
まさかうっかり海に落ちたなんてこと……。
最悪の予想をした直後、大きな水音が聞こえた。思わずツェットと顔を見合わせて、慌てて甲板に出ると……。
「お嬢様っ!」
見えたのは見知らぬ生物がお嬢様を肩に担いで、まさに海に落ちようとしている瞬間だった。
俺たち二人を確認すると、そのまま海に落ちていった。
なんだ? あの見たことのない生物は、どこからやってきた?
いや、落ち着け。海に入っていったんだから海から来たに決まってる。
「あー、その可能性は考えなかった」
「お前、アレが何か知ってるのか?」
「見間違いじゃなけりゃ、《海泣き》だ」
「《海泣き》?」
「女形の海の怪物の一種だ。普通あいつらは海賊(Sea Wolf)を狙う、というか人間の男を狙うんだが……」
「そんなことはどうでもいい! お嬢様を追いかける!」
「おい、ちょ、待っ」
ツェットの声は聞こえない振りをして、俺はお嬢様目指して海に潜った。