事の発端
事の発端は、お嬢様の父君である旦那様――ティモ=コティベルトが事業に失敗して財産のほとんどを失ったことにある。
巨額の富が一気になくなってしまったわけだが、どうにか倒産することは免れ、質素に暮らしていれば当面は大丈夫という状態ではあった。
そして昨日の朝、妙に慌しい屋敷でいきなり船で隣の島へ向かうと言われたのだ。
「今から……でございますか?」
「あぁ、急ぎの用ができてな。悪いがお前達も一緒に来てくれ」
俺は何の用なのか、などと聞ける立場にない。雇い主である旦那様に行くぞと言われたら「はい」と答えるのが勤めだ。
時間はまだ市場が賑わう前。早朝だ。朝もやがかかり、時折外を馬車が通っていく。港へ行けば、今頃は漁船で収穫した魚の競りがやっているころだろう。
正直に言えば、こんな朝早くからはた迷惑なオッサンだと思わなくもない。だが、そんなことは表情には出さず、眠い目をこじ開けて働かない頭をフル回転して今後の動きを考える。
隣では、叩き起こされ一応身支度を整えたお嬢様が椅子に座って寝ている。
ひょっとして起こされたことすら気づいていないかもしれない。クッションに抱きついて肘掛け椅子にもたれかかった状態で、とてもだらしない。
執事兼教育係りの俺としては緩みきった頬を抓ってやりたい。というか、自分だけ何幸せそうに寝てんだと若干の苛立ちをぶつけてやりたいだけだが、そこでやることはできなかったため機会を待つことにした。
兎に角屋敷中のメイドたちが慌しく準備を進め、馬車で船についたのが昼頃だ。
お腹がすいたと煩いお嬢様の為に、近くのパン屋でパンを買って乗船した。
そこから船に揺られて予定では翌朝には目的の島に到着をするだろうと言われていた夜。つまり昨晩だ。
船上ということもあり質素な夕飯を食べたあとのこと。
「ドリィ、お前に話がある」
旦那様がお嬢様に真剣な口調で話し始めるのを見て、俺は一礼した。
「それでは……私はこれで」
「いや、君にも是非聞いて欲しい」
「……はい」
「実はこの船は島……というよりも、ある屋敷に向かっている」
「新しい商談相手か何かなの?」
「商談の話もするんだがな。それよりももっと重要な話をする予定だ。……お前の縁談話を、な」
旦那様も朝早かったからか、若干お疲れと見える。
縁談? 俺のか? そんなわけはない。この場にいるのは旦那様とお嬢様、俺の三人だ。ということは、旦那様の言った「お前」というのは必然的にお嬢様の、ということになる。
旦那様の冗談のセンスは、中々上達しないな。
縁談話を出された当の本人は、俺と同じく何を言われたのか分からなかったらしい。たっぷり二十を数えてから怒ったように、というか怒りながら抗議をした。
「嫌よ! 絶対、イヤ!」
「お前がそう言うだろうとは思った。だから、逃げられないように船に乗せてから話したんだ」
確かにここじゃあ逃げられないなぁと、俺もこのときは思っていた。
「相手が誰であろうと絶対行かないから!」
「相手はオスボーン家の長男だ。お前も会ったことがあるはずだぞ。一度会ったときからお前のことが気になっていたそうだ」
「悪いけど顔も思い出せないわ!」
お嬢様が会ったことがあるならば俺もあったことがあるはずだったが、思い出せない。
オスボーン家?
あったか? そんな家、という感じだ。
「悪い話じゃないんだ。そうしなければ、家は破産してしまうかもしれない」
「破産しないかも知れないじゃない!」
「お前にとっても悪い話ではない。家のためだ、我慢しなさい」
お嬢様に限らず、名家の男女であればこの話に拒否権がないのは明らかだ。
自分の抗議が意味をなさないということは、お嬢様も分かっているはずだ。やはりたっぷり二十秒を数えたくらいで、漸く口を開いた。
「……わかったわ」
拳を握るお嬢様は、全然分かっていない顔をしていた。
そのまま部屋に戻って大人しく寝たのだろうと思った夜中。
自室で俺もそろそろ寝ようかと、ろうそくの明かりを消そうとしたときだ。
部屋の外で、誰かの気配を感じた。
そのまま身につけている護身用のナイフを確認しつつ、ドアまで近づいた。船には屋敷のもの以外は乗っていないはずだが、何者かが紛れ込んだ可能性も否定できない。
お嬢様の安否も心配だが、まずは扉の外にいる人物が誰であるのか確認しなければならない。
体中の神経を集中させていたが、控えめなノックで緊張が一気に解けた。ノックをするということは、家の者だ。
「イクス、いる?」
お嬢様だ。こんな時間になんの用だ?
縁談話で眠れないのか?
「起きてますよ」
「寝てるかと思ったけど、ちょうどいいわね」
何が調度いいんだ。扉を開けたお嬢様は、まるでどこかに出かけるのかとでも言うような服装をしていた。つまり、しっかりとドレスを着ていらっしゃる。
「何か一言ないんですか?」
「一言? 御機嫌よう、こんばんは?」
「違います。こんな夜中に執事の部屋を訪れて、お嬢様と言えども何か一言あってしかるべきだと思うのですが?」
「こんな遅くまでお仕事、大変ね」
「そうじゃない! 夜中に申し訳ないという気持ちはないんですかと言っているんです」
「ちょっと! 大きな声出さないで! みんなが起きちゃう」
思わず語気を荒げた俺の口を両手で塞いで、俺を押すようにして部屋に入ってくる。
「イクス、さっそく準備して! これは先に持って行くわ!」
準備?
何のですか、と問う前にさっさと部屋を出て行ってしまった。俺の出かけるための小さなバッグを持って向かったのは……甲板のほうか。
急いで上着だけを引っ掛けて、あとを追いかける。周りを起こしてはまずいため、静かに、足早に、だ。
向かった先でお嬢様は危なっかしい手つきで避難用の小船を準備していた。歩く音が煩いと思ったのか、靴を脱いではだしになっている。靴は小船の中に入れているから、これで降りようなんてことを考えているに違いなかった。
自分の腕と同じくらいの太さがありそうなロープを一生懸命外したりつけたりして、本気で海に小船を下ろそうとしているらしい。
「お嬢様、念のためにお聞きしますが何してんですか」
「当然、この船で逃げるのよ!」
「無茶です」
「いい? あたしはお金の為に知らない男のところへ嫁ぎに行くなんて、真っ平ゴメンだわ!」
「だからといって、これは……だんな様が心配されます」
「お父様なんて知らない!」
ちゃっかりと下ろす準備は完了して、お嬢様はそこに乗り込んだ。あとは小船を海に下ろすだけだ。
「ちなみに、逃げてどうするんです?」
「要は、お金があればいいのよね」
「縁談話はそんな簡単な話じゃ……」
「あたしが代わりに財産を見つけてくればいいと思わない?」
簡単に言う。
世の中を甘く見るなとか、そんなことできるわけないだろうとも思ったのだが、俺はそのとき、とんでもなく眠かった。そして抗議するのも馬鹿らしい話だったのもあり、つい適当なことを言ってしまった。
「そうですね、宝探しでもしますか?」
「そう、その通り!」
「……は?」
「お父様が納得するような財宝を見つけてくるのよ!」
「無理です、降りなさい」
わがまま言わずにさっさと俺を寝かせろ、と思いつつ俺は無理矢理にでもお嬢様の腕を引っ張って戻るように促した。
財宝なんて簡単に見つかるわけはない。
宝の地図なんて、大抵はニセモノだ。
「いや! イクスだけは味方になってくれると思ってたのに……」
「お嬢様……」
「あたしは、あの人にもう一度会ってお願いするまでお嫁に行かないって決めてるの!」
「またその話ですか……」
「お願い、イクスゥ」
涙ぐんで情に訴えかけるのはお嬢様の得意技だと分かっていても、この涙に俺は弱かったりする。
「仕方ないですね。お供しますよ」
このときの俺は、よく考えたら丸一日ほど徹夜をしている状態で判断力が鈍っていた。
もうどうでもいいから寝かせてくれと、心の底から思っていたのだ。