わたくし大切な物を忘れていましたのね?
ど、して、トレーニングルーム、二階に、作った、かしら? ふぅ、ふぅ、やっと、ふぅ、着きましてよ……。
息が、ふぅ、心臓も、膝もガクガクしてましてよ、ふぅ。
歩いただけで、これでは、トレーニングなんて、ふぅふぅふぅふぅ、できなくてよ! ふぅ、ふぅ、帰りが憂鬱……いえ、帰れますとも!
あら、それにしても、結構、生徒さんたちで、賑わって、ます、のね。ふぅ……。
「おや、これはこれは婚約者どの。そんなに息を切らしてどうなさいました?」
体育棟の正面入り口から階段を上がって、ガラス張りのトレーニングルームが見えますことよ。授業でも使うとのこでしたから、少なくとも二クラス(一クラスは大体三十人ですの)が入れるくらいの設備になってますのね。
今は二十人ほどいますわね。多いのかしら、少ないのかしら? 女子生徒はあまりいないようでしてよ。
ふぅ、だいぶ息も整ってきましてよ。
「そのように息を切らしてまで殿下にお会いしたいのですか?」
それにしても、こちらに到着するのに休憩時間を除いても三十分。寮から八百メートルほどですのに、時間が掛かり過ぎではなくて? 今日はランニングマシで、歩行速度の確認だけにしておこうかしら。
ええ、それがよろしくてよ。
「それよりも……替えの手袋と帽子も持ち歩かなくてはいけないわね」
ええ、お洒落をするために学園に通う訳ではなくてよ。それでも、白フェルトにピンクの花が飾られたキャペリンやレース付きのトークハットは学園指定体操着には無理でしてよ。クローゼットの奥に紺色の綿のキャスケットを見付けたときはホッとしてよ。
ええ、でもそれも汗を吸って大変なことになってますの。手袋も同じような状態になってましてよ。
「仕方なくてよ。帰りは手袋も帽子も無しですわね」
それにしても、トレーニングルームで体を鍛えるなど、自分との闘いと思っていましたけれど。ああして、供に励まし合い切磋琢磨するのもよろしいですわね。
なんと言いましょうか。ほとんどの方は一人黙々と鍛えていらっしゃるのですけれど、五人ほど一か所に集まってらっしゃいますのよ。 ランニングをしている男子生徒の周りに女子生徒が集まって、タオルやスポーツドリンクを持って励ましてらっしゃいますの。
「ああして、お互いに高め合うのですわね。いわば戦友ですのね」
男子生徒がランニングマシンから降りると、女子生徒さんがすかさずタオルを渡しましてよ。まぁ、あの男子生徒はもしかして……殿下ではなくて?
……ああ、よかったわ。
入学式のときに叫びそうになったような不可解な衝動は起こらなくてよ。よろしくてよ。
「ほほほ。では、わたくしもさっそく」
「お待ちなさい、マツリバヤシ侯爵令嬢」
まぁ、なんですの? 本当に今日はよく後ろから声を掛けられる日ですのね。
「私を無視するとは……新手の嫌がらせですか? マツリバヤシ侯爵令嬢」
振り向くと、栗色の髪の柔和なお顔立ちの生徒さんがわたくしを見下ろしていましてよ。
先ほどから聞こえていた声はこの方でしたのね。
「あら、ごめんあそばせ。わたくしに話しかけていらしたのね。気付きませんでしてよ」
「……なんです、その鼻に付く喋り方は」
男子生徒さんは無表情で、怒っているようにも見えましてよ。何か気に障ったのかしら?
「まぁ。わたくし、ずいぶんと昔からこの話し方でしてよ?」
「ふん、確かに。高慢ちきなあなたにはお似合いの喋り方ですね」
ま、まぁ……この方、今。まぁ……。
「わたくし……鼻で笑う方など初めて見ましてよ」
「……あなたいつもやってるでしょう? 身分の低い人間のことを嘲笑って、そのくせ身分の高い者には諂って。まぁ、お粗末すぎて誰も相手してませんけれどね」
まぁ、どなたかと勘違いなさっているのではなくて? この方の仰る意味がよく分からなくてよ?
「あら、そうでしたの。……あら? では、なぜあなた、わたくしに話しかけてくださいましたの?」
「決まっているでしょう? トレーニングルームに殿下がいらっしゃるからです」
困りましてよ。ますます分からなくなってきましてよ。
「分かりませんか?」
「ええ、全く」
「警告に来たのです。入学早々殿下のストーカーなど、ご令嬢のすることとは思えませんね。殿下が去るまでトレーニングルームに立ち入らないでください。では」
ええ、まだ息が整のっていないので、それは構わなくてよ。むしろ、ありがたいですことよ。ですけれど……。
「お待ちになって」
「……なんです? 私に媚びても殿下には一歩たりとも近づけませんよ。お分かりでしょう?」
「いえ、教えていただきたいことがありますの。トレーニングルームの利用に何か必要な手続きなどありまして?」
学園内の案内には利用時間については記載されていましたけれど、利用手続きについては触れてなくてよ? 生徒、教職及び、学園従業者の利用可としか書かれていませんのよ。
男子生徒は鋭い目でわたくしを見下ろすと溜息を吐いてトレーニングルームへ入って行きましてよ。
……わたくしなんだか恐ろしくなってきましてよ。
「ここまで来て、利用手続きが別の場所でしたら」
あの息苦しさと、全身が心臓になったかのような動悸。そして歩いていただけなのに全身がガクガクになるという苦痛はなんのためでしたの?
きちんと調べてから来るべきでしたわ!
「これに書いてあります」
恐怖に打ちひしがれるわたくしの手に、トレーニングルーム利用者手引きの冊子が載せられました。まぁ、これを取りに戻ってらしたのね。
「ありがとうぞんじます、先輩」
「ふん」
利用者は学生カードを入り口のスロットに通せばよろしいのね。あちらですわね。分かりましてよ、準備は万端でしてよ。ほほほほほ……ほ?
「まぁ、ずいぶんと仲がよろしですこと」
わたくしが、トレーニングルーム利用の手引書制覇に酔いしれていると、殿下の周りで殿下を叱咤激励していらした女生徒たちが、何か囁き合うのが見えましてよ。
わたくしと万祐子ちゃんのように仲がよいのね、みなさん。
ついさきほどのことですのに……万祐子ちゃんは元気かしら。早く会いたいわ。
あら、いつの間にかみなさんも、こちらを見ていましてよ。不躾に眺めてしまったのが、気に障ったのかしら? 申し訳ありませんことよ。
あら、みなさん妙な表情でこちらを見てらっしゃるわ。
唇の片方を吊り上げて、何とも形容しがたい表情ですこと? 微笑んでいらっしゃるのかしら? おそらく、微笑んでいらっしゃるのね?
あら、殿下とみなさんは、本日のトレーニング終了ですのね。いよいよわたくしの出番でしてよ!
さ、学生証を出して、準備をしておきましょう。そうしましょ……なんてこと!
わたくし……。わたくし、学生証を持って来ていなくてよ!
前回のお話で、五百メートル歩くのに十五分掛かった桜子さん。八百メートル歩くのに三十分では計算が合わないのでは? と思われた読者様。桜子さんは、体育施設棟の階段で手こずっていた模様にございます。